› ラムネ屋トンコ › 2013年12月

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2013年12月31日

第5回 昭和27年春 苺の思い出(2)


夏休みになり、小学4年生の姉と一緒に汽車とバスに乗って、田舎のおじいさんの家に行きました。
おじいさんの家の畑の赤い苺が、目に入りました。
夏休みにちょうど赤く熟れるようにと、おじいさんが遅めに植えてくれていたのです。
さっそく、おじいさんと苺狩りをして、竹で作られた丸いざるに入れました。
井戸水を汲んで、さっと洗って頬張りました。
久しぶりに会った4才の弟と姉と一緒に、とても甘くて美味しい苺を沢山食べて、大満足です。
その頃、田舎には水道は無く、井戸水を汲み上げて使っていました。
「今朝、鶏が卵を産んだから、夕ご飯の時食べよう。」と、おじいさんが言うので楽しみです。
夕ご飯は、卵焼きと酢の物と具だくさん味噌汁です。
前に座っているおじいさんの真似をして、私は箸と茶碗を持って食べ始めました。
「としこは、右手に箸を持ちなさい。」とおじいさんが厳しい声です。
私はおじいさんと同じように持っているのに、どうしてかなと、戸惑った顔をしました。
それに気付いたおじいさんが、「向かい合った時は右と左が反対になるんじゃ。」と言います。
「母親が病気だから、右左も教えて貰っていないのか。困ったのう。」とも。
幼稚園の時、「箸を持つほうが右。」と先生が教えてくれましたが、私はなかなか覚えられなかったのです。
お弁当の時は、周りの友達の真似をして、箸を持っていました。
卒園する頃に,「胸に名札のある方が左、名札のない方が右。」とやっと分かりました。
だけど今日のように名札がない時は、分からないので周りの人を見習います。
学校では、先生が黒板にチョークを持って書く手と同じ手で、鉛筆を持って字を書いています。
しかし、いつも字がノートの升目の中から、はみ出してしまうので、もう一方の手で消しゴムを持って、消してばかりです。
その鉛筆を持つ手が右手で、消しゴムを持つ手が左とはっきり分かりました。
次の日の朝、私は鉛筆を持つ手に箸を持って、「こっちが右手であってる?」と、おじいさんに聞きました。
「おお、右手が分かったか。よかったのう。」と安心の声です。
朝ご飯の後、おばあさんが赤くなった苺を、ガラスのお皿に入れています。
私はもちろん、右手に竹のホークを持って、苺を美味しく食べました。
おじいさんとおばあさんと弟に「さようなら」を言って、幸せな気持ちで姉と我家に帰りました。  

Posted by トンコおばあちゃん at 20:59Comments(0)

2013年12月29日

第5回 昭和27年春 苺の思い出(1)


私は、無事幼稚園を卒業して、小学校に行くことになりました。
入学式には父が参加してくれました。
母は、まだ小学校には、遠くて疲れるので行けません。
間もなく給食が始まり、みんな嬉そうです。
母は食事の準備はできるようになりましたが、疲れるので、まだ私達と一緒に食事しないで休憩します。
私が家の外で遊ぶのを、母が喜こぶよう感じます。
おばあちゃんが、時々疲れるのか昼寝をするようになったので、賑やかな私が家の中にいると、気を使うようです。
暖かいある日、学校帰りに近所の瞳ちゃんと、遊ぶ約束をしました。
瞳ちゃんは年長組の時、切戸川のそばに引越して着たので、親しくなったのです。
瞳ちゃんの家の裏の約束した小川に着くと、少し冷たい水の中で、ちっちゃなめだかが、すーすーすーと動いているのが目に入ります。
小川とあぜ道の向うに、お百姓さんの畑が続いていて、苺が植えてあります。
薄い黄緑と薄桃色で、まだ熟れていません。
ところが、あぜ道に発見した1株の苺の実は、小さいけれど赤く熟れています。
「ワー、おいしそう!神さまからのプレゼント!」と、2人共思わず声が出て、1粒指で摘まんで、口に入れました。
「ウワァー。あまーい!」苺とお日さまの味がします。
もう1粒づつ食べたらお終いです。
小さな苺は、4粒しか無かったのです。
突然、「コラー。苺どろぼうー!」という声がします。
ドキッとして声の方を見ると、瞳ちゃんのお兄ちゃんが、家の窓から手招きしています。
2人で罰の悪い顔をして、お兄ちゃんの所へ行きました。
「苺を取ったらだめじゃー。」とお兄ちゃん。
「はい。あぜ道にあったから。」と2人が小さい声で言いました。
「これからは、もう取らんな。」
「はい。取りません。」
「よし、もう取らんのなら、今日のことは、誰にも言わんことにする。」
「もう取りません。」と、2人はもう一度、はっきり言いました。
翌日、私は学校から帰って、瞳ちゃんの家に遊びに行きました。
「こんにちはー。」と挨拶すると、運悪くお兄ちゃんがいます。
「いらっしゃい。苺どろぼうさん。」だって。
いやだなーと思いつつ2人で遊んでいると、「どうぞ。」と、お兄ちゃんがピーナツを持って来てくれました。
なんだか変な気分です。
数日後遊びに行った時、お兄ちゃんが留守で、ああよかったと胸を撫で下ろしました。
しばらくすると「宿題したか? 苺どろぼうちゃん。」と、お兄ちゃんが中学校から帰って来て、声を掛けます。
遊んで帰る時、「苺どろぼうちゃん。また遊びに来いよ。」とお兄ちゃん。
田植えの前に苺が抜かれ、「苺どろぼう。」が、聞かれなくなりホッとしました。
私達は、あぜ道の苺でも、お百姓さんに断りなく、決して取らないことに決めました。
  

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2013年12月26日

第4回 昭和26年初夏 また幼稚園に通う


私は虫垂炎と百日咳を患い、年中組から年長組にかけて半年間幼稚園を休み、家で過ごしました。
初夏には元気になり、幼稚園に行けるようになりました。
年長組の担任は、お母さんのような慶子先生です。
慶子先生が通勤途中に寄って、幼稚園に連れて行ってくれます。
切戸橋を渡ってすぐの、文房具店の同い年の誠ちゃんや、テイラー(紳士服仕立屋)の成一ちゃん達と一緒です。
私は、先生と年長組にすぐ馴れました。
キリスト教会付属の幼稚園なので、神様やイエス様のお話の時間があります。
牧師先生の奥さんの園長先生が、お話の後に「目を閉じてお祈りします。」と言ってから「天の神様。」とか「天のお父様。」と、お祈りが続きます。
天井に神様が現れるのかなと思い、私はそっと目を開けて上を見ました。
天井しか見えません。
みんなを見ると、目を閉じて手の指を組んでいます。
ところが、1人だけ目を開けて、私の方を見ている男の子がいます。
その男の子が、指で鼻を押さえて豚の真似をしたので、私は思わず「ブフフフ。」と笑ってしまいました。
園長先生が、とても怖い顔をしています。
お年寄りの先生が私の手を引いて、階段を登って2階に連れて行きました。
その先生はすぐ下りて行き、私は一人ぼっちです。
初めての部屋なので、周りをキョロキョロ見回すと、階段が上に続いて、誰かが呼んでいるような気がします。
この上に神様がいるのかなと思って、私はそっと階段を上りました。
周りがガラス窓の明るい部屋で、天井から大きな鐘がぶら下がっています。
窓から青空が見えて、小鳥のさえずりが聞こえます。
背伸びして窓から外を見ると、若葉が風にゆれてキラキラと輝き、天窓から気持ちのよい風が入ってきます。
「ここは天国かな?」と、ふと思いましたが、天使もいないので天国ではないと気がつきました。
「神様は目に見えないけど、みんなを守ってくれる。」という牧師先生のお話を思い出しました。
私は、目に見えないけど、神様がいるんだなと感じたのです。
その時下の方から、バタバタと音がしたので、私は大急ぎで2階へおりました。
お年寄りの先生に手を引かれて、年長組の部屋に帰ると、みんなはお弁当を食べています。
私が弁当の用意するのを、慶子先生が優しく手伝ってくれました。
弁当を食べ終わるのが少し遅くなったけれど、午後も楽しく過ごして、元気に家に帰りました。
その頃から、母は弁当と夕食を作ってれるようになりましたが、疲れるのか、その後すぐ休憩します。
私は神様が守ってくれることも分かり、母の作った弁当や夕食をしっかり食べて、強い女の子になった気がします。
ある日、姉がシクシク泣きながら、学校から帰って来ました。
川向こうの男子に、何かいじわるなことを言われたそうです。
私はすぐ川の側に行き、2人の男子を見つけました。
「女の子をいじめるのは弱虫だー。ひきょう者―。」「こんど女の子をいじめたら、みんなに『この人は弱虫だー。ひきょう者―。』と、言ってやるー。」と、叫びました。
従兄弟のラジオから聞こえた言葉の、真似をしたのです。
男子は何かモゴモゴ言いながら、帰って行きました。
その後、私は、家の外では決して泣かない女の子になったのです。
しかし、幼稚園から帰った時、母が病院に行って留守で、おやつがない時だけはワーワー泣きました。
けれども、さんざん泣いた後、決まって手作りのふかし芋などのおやつが見つかるのです。
私は、泣いた後は気分がスカッとすることを、知りました。
  

Posted by トンコおばあちゃん at 10:09Comments(0)

2013年12月23日

第3回 昭和26年1月 次はコンコン・ヒュー (2)


私の咳は軽くなりましたが、春の終わりまで続きました。
病気がなかなか治らなかった母は、私と一緒に栄養を摂って、同じようにだんだん元気になったようです。
しばらくして、「天井の木目が動物に見えたよ。」と、母に話しました。
「戦争が終わった時、古くなった家を建て直すお金が、充分なかったんよ。」
「きれいな天井板を張れんで、粗い木目の板がむき出しのままなんよ。」と母。
その粗い木目の天井なので、色々な動物のお話を楽しめて良かったです。
1年後私は小学生になり、夕食後お使いに行く時、散歩中のほろ酔いかげんの、病院の先生に出会いました。
「こんばんは。」と挨拶すると、「おう!盲腸は要らんもんじゃから、いつでも取っちゃるぞ。」と、先生は少し酔っ払った声で言います。
また、朝散歩中の先生に会った時も、「盲腸は早く取った方がええぞ!いつでもお腹を切りに来いよ。」とも。
昨夜のお酒が、少し残っているような気がします。
「ちっとも痛くないので、大丈夫です。」と、いつもきっぱりお断りしました。
私は、先生と親しい気がします。
弟が生まれた時、おちょこちょいの私は、産湯の入ったやかんを蹴飛ばして、左脚に大火傷したそうです。
2才半の時のことで覚えていませんが、左脚に長い火傷の跡が残っています。
その火傷も、先生に治療して貰いました。
4才の時は、新しい下駄が嬉しくてあわてて履いたので、鼻緒に親指の爪がひっかかり、爪が取れて血が出てしまった時もそうです。
その頃もその後も、しょっちゅう膝や肘や手に怪我をして、先生にお世話になってばかりで、親しくなったのだと思います。
最近、先生は盲腸などの手術が上手とのことで、手術が増えたと聞きました。
そんな時、私は、何時に手術があるのか、確かめないと気がすみませんでした。
朝会った時の、お酒が少し残っている先生の顔が、目に浮かぶからです。
何度か確かめると、手術は午後に決まっていることが分かり、ホッとしました。
その後、私の盲腸は痛くなることはなく、手術を受けずにすんだので、本当によかったです。
今思いかえすと、先生に会ってお酒が残っていると感じたのは、日曜の朝だったのでしょう。  

Posted by トンコおばあちゃん at 10:26Comments(0)

2013年12月20日

第3回 昭和26年1月 次はコンコン・ヒュー (1)


5才の12月に、虫垂炎を患いましたが、10日後には痛みが少しになりました。
ゆっくりだと立てるようになったので、障子戸をつたって縁側に出てみました。
久しぶりの庭は、南天の赤い実と葉っぱや雑草や石までが、キラキラ輝いてニコニコ笑っているようです。
気分がよくなり、私は病気が治ったような気がします。
ところが夜になって咳が出て、次の朝には咳が「コンコン・コンコン・ヒュー。」とひどくなりました。
咳が出るたびに、胸とお腹が「イタイタ・イタイタ・イター。」と大変です。
また、病院の先生がやって来て、「これは百日咳じゃ。こんどは胸を切る。」
「・・・。」「必要はないぞ。」と言いました。
私は胸がドキドキして、「コンコン・コンコン・ヒュー。」と激しい咳が出て、胸とお腹がもっと痛くなりましたが、切らなくていいので一安心です。
「静かに寝ていなさい。」と言って、先生は帰りました。
翌朝は、咳をそっとして、胸やお腹が痛くないように工夫しました。
しかし、咳がたびたび出るので困ります。
掛け布団を畳んだその上に、持たれ掛かっているのが楽なので、ずっと座っていました。
すると、なんと病気のため離れの部屋で寝ていて、2年間以上も会えなかった母が、来てくれたのです。
私は、忘れかけていた母の顔を見ました。
白い大きなマスクを付けた母は「としちゃん、いかが?」と言って、お粥とすりリンゴを枕もとに置いたのです。
「自分で食べられる?」と聞いたので、私はコクリとうなづきました。
母は疲れたのか、すぐ部屋を出て離れの部屋で休んだようです。
胸が嬉しさで一杯になり、涙が頬を流れます。
涙でいつもより少しショッパイけれど、温かくておいしいお粥です。
おばあちゃんの茶色と違ってきれいな色の甘いすりリンゴも、残さず食べました。
あくる日は、朝から母が来てくれるのを、首を長くして待ちました。
昼食は、待ちに待った母が作ったお粥と、柔らかい絹豆腐の入った味噌汁です。
もちろん全部食べて、とても元気になった気がします。
仰向けに寝ていて、咳がでる時だけ、横向きになれば大丈夫です。
いつの間にか眠って、ふと目が覚めて天井を見ると、大きな太陽が大きな目をして笑っています。
離れたところに北風も見えたので、旅人とマントに見える木目を探しました。
父が読んでくれた「北風と太陽が力くらべ。」のお話を、思い出して過ごしました。
翌日のお昼、母が持ってきてくれたお粥と茶碗蒸は、トロットしていて頬っぺたが落ちそうです。
咳はだいぶ軽くなりました。
今度は、天井に大きなライオンを発見したので、小さい木目をねずみに見たてて、「ライオンとねずみ。」の、一人話を楽しみました。
次の日は、兎と亀が見つかったので、「うさぎとかめ。」のお話です。
お昼のおかずは、卵の入ったつぶしたじゃが芋。
ぺろりと食べて、幸せな気持ちです。
夕方、様子を見に来た父に、「天井にうさぎとかめが見えるよ。」と言ったのですが、残念ながら父には見えないようでした。  

Posted by トンコおばあちゃん at 11:19Comments(0)

2013年12月17日

第2回 昭和25年 晩秋 えっお腹お腹を切るの?(2)


翌朝も、時々突然キューと、お腹がとても痛くなり座われないので、横向きで寝たままです。
おばあちゃんと父が、交代でお粥を食べさせてくれました。
薬を飲んだからか、夜には痛みが少し弱くなり、眠ることができました。
あくる日は痛くない時があったので、布団の上で仰向けになり、上をボーット見ていると、天井の木目が五重丸に見えます。
「1、2、3・・・。」と数えると、五重丸が5個より多いので、褒められているようで嬉しくなりました。
まだ痛くなるけれど、あわてずゆっくりと、体を海老のように曲げると、大丈夫。
夜、父が冷たくない手で、私のおでこやお腹をさわって、「熱が下がったのう。」と安心声です。
体温が高い時は当てた手を冷たく感じ、熱が下がった時は、当てた手を冷たく感じないことが分ったのは、だいぶ後になってからでした。
次の日は、天井に大きい目の丸い魚や、細長い魚や小さい魚が見えたので、数えたり仲間集め遊びです。
夕方、病院の先生が来てお腹を押さえて、「お腹を切らなくてもいいぞ。もう少し静かに寝ていなさい。」と、言って帰って行きました。
それを聞いてなんだかお腹の痛さが、ずいぶん弱くなった気がしました。
  

Posted by トンコおばあちゃん at 20:03Comments(0)

2013年12月14日

第2回 昭和25年 晩秋 えっお腹お腹を切るの?(1)


おじいちゃんは中風(左半身が不自由でした)という病気で、いつも、表の間の布団の上で過ごしていました。
しかし、私が幼稚園の年中組に慣れた頃、亡くなりました。
おばあちゃんは元気がなくなり、私のお弁当作りなど大変のようです。
私は、子どものいない母の弟夫婦に預けられることになりました。
そして、山の方のおじさんの家から、幼稚園に通うことになったのです。
幼稚園から帰った時、おばさんが留守だと、私の目に写るのは畳だけです。
おばさんが家にいても、おもちゃがないので一緒に遊べません。
私の家には父と姉と祖父母がいて、隣には父の兄家族が住んでいますし、ラムネを作る手伝いの人が来ます。
ですから、我が家はいつも賑やかです。
急に夫婦二人だけの静かな家に預けられて淋しかったからか、私のお腹が時々痛くなったのです。
おじさんの家に行ってから1週間後、おじさんの自転車に乗せられて、切戸川のそばの道を下りました。
足の下に、茶や黄色の落ち葉や枯れ草を見ながら、我が家に帰ってきました。
その夜、お腹がとても痛くなり、次の朝も痛みが治まりません。
父がおんぶして、すぐ近くの病院へ、連れて行ってくれました。
父の背中から診察台に降りる時、「イタイ、イターイ。」と、思わず声が出ました。
診察台の上で痛くないように、体を海老のように曲げました。
それなのに、先生は私の体を上向けにして、お腹のあちこちを押します。
「イタイヨー。」と大声も涙も出てしまいました。
「これは盲腸(虫垂炎のこと)じゃ。切ったほうがええんじゃ。」と先生が言います。
「えっ!七匹の小やぎのお話のオオカミのように、お腹を切られるの? いやよー!」と、私は心の中で叫びました。
静かにしていると、「薬を飲んで、お腹を氷で冷やして様子を見よう。」と先生。
痛さをこらえて黙ったまま、父におんぶされて家に帰りました。
父が冷たい気持ちのよい手で、おでことお腹を触って、「まだ熱いな。」と心配そうです。
お腹を切るのは嫌なので、「イタイ。」と言わないことにしました。
上を向いて寝ると痛いので、横向きに寝て氷のうをお腹に当てました。
たびたび痛くなるので、夜中は眠れなかったような気がします。  

Posted by トンコおばあちゃん at 12:14Comments(0)

2013年12月12日

第1回 昭和25年晩夏  お池にはまってさあ大変(2)


幼稚園では毎朝、出席ノートにシールを貼ることになっています。
幼稚園に少し慣れた頃、幼稚園に着いて通園カバンの中を見ると、入れたはずのノートが見当たりません。
その時は幼稚園の帰りに、我家の近くの切戸橋を渡った所にあるお店のおばさんが、私を呼び止めました。
「朝ね、外からお店の中に飛び込んできたんよ。」とノートを手渡してくれました。
今朝は、幼稚園に着いてみると、確かに持って出た通園カバンがないのです。
我家の近くの切戸橋を渡っている時、バスが来たのを思い出しました。
切戸橋は幅が狭くバスとすれ違う時、排気ガスが臭くてとても息苦しいのです。
バスが来たとたん、私はカバンをグルグル回しながら、逃げる癖があります。
その時、カバンが飛んだに違いありません。
そのうち、何時ものように出てくると思いました。
すぐにカバンのことは忘れて、みんなと楽しく遊んで、元気に家に帰りました。
次の朝、通園カバンが無いのに気が付いたのは、姉です。
お弁当を入れる袋を、姉が貸してくれたので大丈夫です。
私はきげんよく出席ノートが無いまま、弁当だけを入れた袋を持って、幼稚園に着きました。
年中組担任のれいこ先生は、私が忘れ物をすることに、慣れているようです。
れいこ先生が優しいので、私は先生も幼稚園も大好きになりました。
幼稚園から家に帰った時、あの店のおばさんがやって来て、「バスで市内を一周して、帰ってきたんよ。」と通園カバンを差し出しました。
ある人が、バスの窓から中に飛び込んできたカバンに、住所が書いてあるのを見付けたそうです。
おばさんの店の近くと分かって、ついでがあったので届けてくれたのです。
ラムネを作る手伝いのおばちゃん達が大笑いしたので、私も笑ってしました。
その後、バスが来た時、カバンをグルグル回しながら逃げる癖が、出ないとよかったのですが、当分の間続きました。  

Posted by トンコおばあちゃん at 10:34Comments(0)

2013年12月10日

第1回 昭和25年晩夏  お池にはまってさあ大変(1)


9月初め、近所の美木のおばさんに連れられて、私は幼稚園に初めて登園しました。
なぜ通常の4月ではなく、9月から通園することになったのか、不思議ですよね。
おちょこちょいの私に、危ないことがあったからで、そのことから話し始めましょう。
5才になったばかりの夏の日、我家のそばの田んぼの稲に、小さな実がつき始めていました。
近所の美木さんちの足の不自由なお姉さんと、ゆきお君と私の姉と一緒に、あぜ道を歩いている時のことです。
「まってー。」かぶっていた麦わら帽子が飛んだので、私は追いかけました。
田んぼには、戦争の時爆撃された民家の焼け跡に、畳3枚位の大きな穴ができていたのです。
その穴に雨水がたまり、池になっていて、そこに帽子が転がって浮かびました。
帽子を拾おうとしてしゃがんだ時、私は足を滑らせて、灰色の泥水の中にドボーンと落ちたのです。
「たすけてー。」と叫ぶと、ゆきお君と美木お姉さんが、松葉杖を差し出しました。
その杖にしがみつくと、2人は引っ張って助けてくれました。
私の手も足も服も泥んこで、そのまま遊べないほどです。
家に帰りましたが、父もおばあちゃんも留守だったので、泥んこの私は、美木お姉さんの家に行くことになりました。
すぐに、美木おばさんがお風呂場で私の体をきれいに洗い、お姉さんの服を着せてくれました。
履いていた汚れた赤いはな緒の下駄も、洗ってくれたのできれいです。
ホッとしてにっこりすると、おばさんがせんべいをみんなに「どうぞ。」と持って来てくれました。
おばさんがお母さんのように感じられて、私は嬉しくてニコニコ顔です。
こんな出来事があったので、父は祖父母と相談して、私を幼稚園に通わせることにしました。
我家はラムネ屋を営んでいて、落ち着きのない私が外で遊ぶ時、見守る人がいません。
母は2年前から、病気で離れの部屋で寝たきりでした。
そこで、美木おばさんが、幼稚園へ連れて行ってくれたのです。 つづく  

Posted by トンコおばあちゃん at 10:58Comments(0)