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2014年01月31日

第17回 昭和29年晩秋 瀬戸物は割れるよ 


3年生の秋も深まり、庭の紅葉の葉がみな散って、下に落ちています。
家族みんながちゃぶ台の周りに座って、夕飯を食べている時のことです。
ガチヤーンと台所でお皿の割れる音がしました。
母が台所にお皿を取りに行って、落としたようです。
弟が跳んで行って、「わ―れた、われた!お皿がわれた!お母ちゃんがわった。」と騒ぎ始めました。
「皿が割れたくらいで、騒がんでええでしょ。」と母が言いましたが、弟はまだ騒いでいます。
「うるさいよ。」と母の怒った声。
すると、父が、「怒ることはない!」と怒鳴りました。
母が、またなにか言い返しました。
父がちゃぶ台をダダダーンバターンと、ひっくり返しました。
夕飯が半分位残っているのに、「アーア。」食べ物や食器がめちゃくちゃで、もう食べられません。
父は、そのまますぐに、どこかへ出掛けてしまいました。
母は疲れた感じで、じっと座っています。
姉がだまって片付け始めたので、私も手伝いました。
誰も何も言いません。
今夜は残念ながら、夕食は終わりで、ラジオはお休みです。
みんな早々と、寝床に入りました。
父はみんなが寝静まった頃、帰ってきたようです。
翌朝、母は起きてきません。
姉と私が「どうしよう。」と話していると、父が起きて来て、「朝ご飯がないから、今日は学校を休みなさい。」と言います。
「いらんことを言って騒ぐから、お父ちゃんとお母ちゃんが喧嘩して、私らは学校へ行けんようになった。」と、姉が弟のところへ行って言いました。
「瀬戸物は割れるもんよ。これからはいらんことを言わんでね。ぜったい言んでね。」と、姉は弟に念を押しました。
特に私は、お茶碗やお皿をよく落として割りますが、亡くなったおばあちゃんも母も怒ったことはありません。
「瀬戸物は割れるもんじゃ。割れんじゃったら瀬戸物屋が儲からんのじゃ。」とおばあちゃんは言っていました。
瀬戸物を割っても後片付けさえすれば、叱られることはありませんでした。
明治時代に、おじいちゃんがラムネ屋や他の商売をしていて、我家はお手伝いの人やお客さんも多かったそうです。
だから、茶碗や汁碗や色々な皿や小鉢などそれぞれ百枚づつあったのです。
我家の食器は古くて割れやすく、割れても割れても、まだまだあります。
「お茶碗やお皿を買ったことがないから、瀬戸物屋さんが無愛想なんよ。」と、母がしばしば言っていました。
弟は田舎のおじいちゃんのところで育ち、しつけが厳しい家だったから、お皿が割れたので大変だと、騒いだに違いありません。
母はお昼ごろ起きて、おにぎりを作ってくれました。
私は、たまに学校を休むのはいいなと、のんびり気分です。
父はラムネの仕事がない日だったので、また友達の家に行ったらしく、夕方帰ってきて来ました。
またいつも通りの夕飯になりましたが、なんだか静かです。
次の週の月曜日、学校から帰ってみると、母がとても機嫌がいいのです。
母が日頃から欲しいと言っていた、大きい西洋皿と少し深い中くらいの西洋皿と小さい西洋皿が六枚づつ、ちゃぶ台の上に並べてあります。
小さい花や線が描いてある、センスのよい西洋皿です。
母はコロッケをつくり、ほーれん草のバター炒めを添えて西洋皿に盛り、美しい夕ご飯を用意しました。
おいしく食べて、後片付けを手伝っていると、以前の古い貫禄のあるお皿が食器棚に無いことに気づきました。
我家にある明治時代の茶碗やお皿の半分ぐらいは、古くても価値があることが分かったそうです。
「うちの古いお皿などは、西洋皿の十倍の価値があるんじゃ。」と父が言って、蔵に片付けたのです。
だから、母がいそいそと瀬戸物屋さんんj行って、気に入った西洋皿を買ってきたのでした。
価値があまり無いらしいだるまさんや日の出が大きく描いてあるお皿などを、母は指差して言いました。
「これはおかずがおいしそうに見えんから嫌いじゃったの。これからは、今日買った素敵なお皿を使えるから嬉しいわ。」と。
私が割って古いお皿が無くなることを、母が望んでいたように感じました。
しばらくして、父はその価値があるという古いお皿などを、十枚ずつ骨董屋へ持って行き、売ったようです。
そして、以前から欲しかった古い壺と絵皿を買って来て、私達に自慢して見せてから、床の間に飾りました。
また、ひびが入ったところに金箔を塗った、古い九谷焼と伊万里焼の小さ目の茶碗も、買って来ました。
「なかなかお洒落じゃ。」と父は嬉しそうに眺めています。
私も、ひびがはいっても、上手に手を加えて使う昔の人の知恵に、感心しました。
父も母も嬉しいことがあり、元のように和やかな我家になって、ホッとしました。
それからは、茶碗やお皿を落として割らないように、私はしっかり気をつけることにました。

  

Posted by トンコおばあちゃん at 17:44Comments(0)

2014年01月29日

第16回 昭和29年秋 祖国に帰ったクラスメイト


3年生の2学期、「としこさんの言葉が悪い」と反省会で言われた次の週、光一君といさむ君が学校を休みました。
次の日、2人の家の近くの男子が、「きのう、学校の帰りに寄ったけど、留守じゃった。」と言います。
3日目、休んでいた光一君が登校しました。
「いさむ君は、家族と一緒に船に乗って、祖国へ帰ったんじゃ。」
「僕の家族は失敗したから、また家に帰ってきたんじゃ。」と、光一君。
その頃、戦争の前や戦争中に、朝鮮半島から日本に来た人達がいて、私の組にその子ども達が何人もいることを知りました。
遠い祖国へ、船に乗って帰るのは、大変だなと思いました。
授業が始まりいつものように、担任の先生が宿題調べを始めます。
光一君は、時々宿題を忘れますが、その日も忘れたようです。
光一君は祖国へ帰る用意で、宿題どころではなかったのだと、思いました。
宿題を忘れた光一君と数人の男子の手の甲に、先生が「宿題を忘れるんじゃない。」と言いながら、赤インクのついたペンで、大きなX印を書きました。
私は、この前「言葉が悪い」と言われたことよりも、数人の男子が手の甲にX印を付けられたことの方が、とても嫌なことと感じます。
光一君は、家に帰る前に手の指につばを付けて、甲をこすりX印を消そうとしましたが、なかなか消えませんでした。
その週の土曜日のことです。
光一君とやすお君は宿題をしてきません。
先生は怒った顔で、二人の頬に赤ぺんでX印を書きました。
先生はなんて酷いことをするのと思い、私は前にも増して気分が悪くなりました。
遠くの席の聖君も先生を睨みつけてから、光一君の顔を心配そうに見ています。
光一君の頬の赤インクのX印から、赤いインクが垂れています。
私は、大事にしていた透かし模様のちり紙一枚を、光一君に渡しました。
光一君は頬をそっと押さえて拭きます。
ちり紙は赤く染まりましたが、頬の赤いX印は消えません。
しばらくすると、X印のところから、赤い液がじわっと出て来ました。
赤いインクではなく、血が出ていたのです。
担任の先生は、気が付いていないようです。
私はもう一枚ちり紙を手渡して、頬を押さえるよう言いました。
光一君の瞳が濡れています。
帰る前には血は止まりましたが、X印のところの皮がさけてキズになっています。
私は悔しくて、胸がムカムカしながら、絵の教室に行きました。
そして、担任の先生が光一君達の手の甲や頬に、赤ペンでX印を書いたことや血が出たことを、としはる先生に訴えました。
「そうか、トンコの担任は弱いところがあるからなあ。」と、としはる先生は意外なことを言いました。
つぎの週から、担任の先生は、手や顔にX印を書かなくなりました。
数日後から、光一君は学校へ来ません。
朝鮮半島の祖国に帰る船に、乗ったそうです。
淋しいけど、無事に祖国に帰れるよう祈りました。
3年生になって、学校でつらいことがありましたが、いいこともありました。
真知子ちゃんが、日曜学校に誘ってくれたのです。
5月の「花の日」、たくさんの花を礼拝堂の前の花瓶にいけて、「太陽や水や土をありがとう。育てて下さってありがとう。」と神様に感謝します。
いい香りのお花に囲まれて、いい気分でした。
後で、数人のグループに別れて、病院に入院している人のところに、お花を持ってお見舞いです。
患者さんがとても喜んでくれたので、私まで嬉しくなりました。
また、11月には「収穫感謝の日に日曜学校に行こうね。」と真知子ちゃんが誘ってくれました。
行ってみると、果物や野菜が前のテーブルの上に置いてあります。
神様に感謝したあと、一人暮らしのお年寄りの家へ果物を届けました。
おばあさんが、目に涙をためて「ありがとう。」と、ニコ二コ顔です。
私は真知子ちゃんに「誘ってくれてありがとう。行ってよかったわ。」と、お礼を言いました。
真知子ちゃんととても親しくなり、嬉しい気持ちになりました。
また、家族でラジオを聞くことも楽しかったし、絵の教室もおもしろかったので、私は元気でした。  

Posted by トンコおばあちゃん at 11:11Comments(0)

2014年01月27日

第15回  昭和29年9月 おんち


3年生の2学期。「キンコンカンコン」と、授業が始まる合図です。
「早よう行かんと、音楽の授業に遅れるー!」と言いながら、私は急いで教室へ向かいました。
「音楽好きなんかー?」と、同じ組のまさる君が聞いたので、「そうよ。」と応えました。
すると「おまえ、おんちのくせに、音楽好きなんかー。」とばかにしたような言い方です。
ひどいわと思い、「横着なー。」と言い返して、私は教室に入りました。
「おんち」という言葉を聞いたのは2度目です。
1回目は町内会のど自慢大会で、中学のお兄さんが「お富さん」の歌を、1番大きい声で元気に歌った時です。
「おんちなのにすごい!」「いいぞー!すごいぞ!」とみんな口々に言って、拍手喝采でした。
私はおんちのことがよく分からず、なにが悪いのかなという気持ちでした。
授業が終わって、反省会の時間です。
まさる君が「としこさんが僕に『横着な。』と言いました。これは悪い言葉と思います。」と発言。
私は、驚きいやな気分になりました。
「『おまえ、おんちのくせに、音楽好きなんかー。』とまさる君が、私をばかにして言ったんです。だから『横着な。』と言いました。まさる君の言葉もよくないと思います。」と私。
3年生になって、みんなの言葉使いが悪くなったと先生が言い、反省会で悪い言葉を発表して、反省しようと決めたのです。
「『ばかたれ』はよくないと思います。」という意見が出たら、「みんなで気をつけましょう。」と当番が言います。
その日は当番の人がどうしたらいいか分らなくて、先生に聞きました。
「どちらが悪いか、多数決にしたらいい。」と先生。
「まさる君のほうが悪いと思う人。」と当番。
13人の人が手を挙げました。
「としこさんのほうが悪いと思う人。」には、14人です。
手を挙げない人が20人位いました。
「としこさんのほうが悪いことになったので、これから気を付けて下さい。」と当番の人が言いました。
みんなで「さようなら。」をしたとたん、私はくやし涙が流れ、「ウオーンウオーン。」と声を出して泣き始めました。
「学校で一度も泣いたことがない、としちゃんが泣いた。」というニュースは、すぐ3年生中に伝わりました。
仲良しの瞳ちゃんと満喜子ちゃんと真知子ちゃんが、来てくれました。
満喜子ちゃんと真知子ちゃんは2年生までは同じ組でしたが、3年生で別の組になり、瞳ちゃんも別の組ですが、心配して来てくれたのです。
反省会の時のことを話すと「まさる君はわんぱくで強いから、手をあげる人が少なかったんよ。」と瞳ちゃん。
「としちゃんは悪くないと思うよ。」と真知子ちゃん。
「多数決で決めるのが変よね。」と満喜子ちゃん。
3人が慰めてくれたし、しばらく泣いて気が晴れたので、みんなと一緒に元気に家に帰りました。
翌朝、咳が出るので、体温を計ると37度5分です。
「としちゃん、今日は学校を休みんさい。」と、母が言います。
母が作ってくれた、温かいおかゆと味噌汁とすりりんごを食べた後、布団の中でウトウトしていると、眠ってしまいました。
昼から瞳ちゃん達が、給食のパンを持って来てくれました。
私は急に元気になって、みんなとおしゃべりを始めました。
「としちゃん、静かに寝ちょかんと熱が出て、明日学校へ行かれんよ。」と母。
みんながあわてて帰ったので、がっがりです。
「もっとおしゃべりしたかったのに。明日学校に行けんてもいいの。行きたくないこともあるんよ。」と心の中でつぶやきました。
夜はあまり眠くなかったので、父達が聞くラジオを隣の部屋の布団の中で、耳をすまして聴こうとしましたが、よく聞こえません。
おばあちゃんが亡くなってから、父が新しい大きいラジオを買って来て、夜出掛けなくなりました。
そして、「月曜日は『お父さんはお人よし』の番組があるから、皆で聞こう。」と、ラジオをつけます。
それからは「三つの歌」「二十の扉」「銭形平次」など、毎晩家族でラジオを聞くようになって、夜の楽しみができました。
今夜はみんなと一緒に、茶の間で聞けないので残念です。
さて、つぎの朝、目がさめたのは8時。
「もう遅いから、今日も学校を休みんさい。」と母が言います。
私の咳はもう出ないし大丈夫だけど、おまけでお休みに。
お布団の上で絵本を読んだり絵を描いたり、父が付けているラジオを聞いて、静かに過ごしました。
今日は土曜日で給食の無い日、誰もお見舞いに来ません。
なんだか淋しくなりました。
月曜は学校を休まないぞと、決めました。
月曜日学校にに行くと、休憩時間に満喜子ちゃんと真知子ちゃんがやってきて、「シーソーしよう。」と誘ってくれます。
私は1年生の体育の時間、鉄棒で逆上がりをしようとした時、下に落ちて気を失ってしまいました。
脳しんとうを、起こしたらしいのです。
次から「としこさんは、鉄棒しなくていいですよ。」と先生が言いました。
私は2年生になっても鉄棒をしたことが、ありませんでした。
しかし最近は、木登りや渡り棒はできるようになったし、鉄棒にぶらさがっています。
2人でぶら下がるシーソーだけは、したことがありません。
シーソーから私が落ちて、気を失ったらいけないので、みんな遠慮するのです。
シーソーをしたいなと思っていましたが、言い出せないでいました。
それに気づいた2人が、誘ってくれたのです。
初めに真知子ちゃんとです。
しっかり取っ手を握って、ピョンピョン跳ぶように上にいったり下りたりで、楽しくなりました。
次に満喜子ちゃんと、もっと高く上がりました。
私は有頂天になりすぎて下りた時、シーソーの取っ手から手が離れてしまったのです。
高いところから満喜子ちゃんは、ドターンと取っ手を持ったまま地面に落ちて、お尻をひどく打ちました。
「イターイ。」と青白い顔になり涙がでています。
「ごめんね、ごめんね。」と、私はじっとしている満喜子ちゃんに、駆けよりました。
自分が鉄棒から落ちた時のことを思い出して、胸がドキドキします。
「びっくりしたけど、だいじょうぶ。」と、満喜子ちゃん。
しばらくすると立ち上がって、お尻の砂をはらってニコッとして歩き出しました。
私を元気づけようとしてくれた、2人の優しい気持ちに嬉しくなり、涙が出ました。
満喜子ちゃんは、とても痛かったのに、私を許してくれて、その後も今まで通り親しくしてくれたのです。
私も、2人のような優しい女の子になりたいと思いました。


  

Posted by トンコおばあちゃん at 12:24Comments(0)

2014年01月25日

第14回  昭和29年初夏 500円札はどこへ?


3年生の7月のことです。
「としちゃん、おとうふと薄あげを買ってきてね。」と、母が買物かごの中に500円札を入れて、渡しました。
「はーい。」と、私は元気に出かけます。
切戸橋を渡る時バスが見えたので、排気ガスが嫌いな私は、逃げるように店まで駆けて行きました。
「おばちゃーん、おとうふと薄あげ頂だい。」と言ってから、お札を渡そうとしましたが、かごの中に見当たりません。
「おばさん、ちょっと待っちょって! 」と言って、今来た道をよく見ながら、引き返しました。
もう一度橋と川をよく見ながら、店まで帰りましたが、500円札は見つかりません。
「お金がなくなったから、買えんのよ。」と、しょんぼりした声でおばさんに伝えてから、とぼとぼと橋を渡って、帰り始めました。
すると、橋のむこうから母が迎えにやって来て、「ひょっとしてと思おて、心配で見に来たんよ。アー、やっぱり。」
「大きい財布に入れて渡したらえかった。500円は1週間分のおかず代なんよ。」と、がっかりした声です。
買い物かごをグルグル回して駆けたので、飛んで行って川に落ちたに違いないと思いながら、うつむいて家に帰りました。
翌朝の味噌汁の具は、わかめとわけぎだけです。
他は、かつおぶしと味噌を混ぜて煮たものとご飯で、なんだか淋しい気がします。
学校に行って給食の時、父と母が朝ご飯の残りを食べている姿が、目に浮かびます。
私は、午後の授業はそっちのけで、どうしたらよいか考えました。
「そうだ、何か食べ物を探せばいい。」と気がつきました。
学校の帰りに、潮干狩りによく行く近所のおじさんの家に、寄りました。
都合よく、おじさんは「潮まんがええから、今からあさり貝を取りに行くところじゃ。」と言って、出掛けるところです。
私は大急ぎで家に帰って、バケツと熊手を持って、我が家から百メートルのところの切戸川の河口の砂浜に、行きました。
大人の人に混じって、一生懸命掘りました。
おじさんが小さい貝をくれたので、いつもより早く、バケツが貝でいっぱいです。
家に帰ってバケツの貝を見せると、「今夜、塩水につけて砂出しして、明日食べようね。」と、母はにっこり顔です。
翌朝の汐汁の美味しかったこと、今でも覚えています。
次の日、学校から帰る途中、同級生のまさあき君が、切戸川の岸辺で釣りをしていました。
バケツには数匹のフナが泳いでいます。
「フナ、食べられる?」と聞くと、「うん。」とまさあき君。
「私も釣りたいな。」と言うと、自分で作った余分の竹の釣り竿を貸してくれて、エサのみみずもくれました。
私は、小さいフナを3匹釣りました。
家に帰って、小さいバケツを持って行くと、まさあき君は1番大きいフナ1匹と小さい3匹を、入れてくれました。
「ありがとう。」とお礼を言って、家に持って帰りました。
夕飯のおかずは、めばるの煮魚です。
「フナを食べるからええよ。」とめばるの煮魚を遠慮すると、母は苦笑いしたように見えました。
母が煮てくれたフナの味は、少し苦いように感じました。
父は魚の身を取るのが苦手で、いつも残りを私にくれます。
その日の父のくれためばるには、いつもより多く身がついていました。
その頃、母は病気が治って元気になり、裏の畑に野菜を植えていました。
私はすすんで手伝うことにしたのです。
肥やしを作るために、野菜のくずや魚のあらなどを、肥料壺に入れる時、とても臭かったのですが頑張りました。
夏休みが始まり、朝のラジオ体操に行く途中に、なすび畑があります。
収穫をしているおじいさんに「おはよう。」と挨拶すると、曲がったなすびを2本くれました。
私はお礼を言って、嬉しいのでスキップしながら家に帰りました。
つぎの朝、「きのうはなすび、ありがとう。」と言うと、今度は曲ったきゅうりを二本、枝からもいでくれました。
持って帰ると、母は「みずみずしいね。おいしいよ。」とニコニコです。
あくる朝、「ただでもろおたら申し訳ないからね。『10円分下さい。』と言うて、渡しなさい。」と、母は大きい財布に10円玉を1つ入れました。
母の言ったとおりすると、おじさんは持ちきれないほどの、なすびときゅうりをくれたのです。
私はスカートを風呂敷代わりにして、持って帰りました。
「こんなにたくさん悪いねー。でも、また買いに行ってね。」と母。
その後時々、私は10円入ったさいふと買物かごを持って、おじさんのところへ行き、市場に出せない曲った野菜や小さな野菜を、かごいっぱい買って来ました。
次の日は、ラジオ体操から帰って、豆腐屋さんへお使いです。
「木綿豆腐1丁下さい。」と私。
「朝早くにお使い感心じゃね。ありがとう。」と言って、木綿豆腐1丁と欠けた豆腐を、持って行ったお鍋に入れてくれました。
「本当にありがとうございます。」と私はさいふの10円を渡して、ていねいに頭を下げました。
2日後、「薄揚げ下さい。」と言って10円渡すと、また「朝早くお使い感心じゃね。ありがとう。」と言って、薄揚げ2枚と欠けたものを、うすい紙の袋に入れてくれました。
私は、もちろんていねいにお礼を言って、帰りました。
夏休みが終わる頃、お金を無くしてしぼんでいた私の心は、元気になりました。
そして、買い物かごやかばんをグルグル回す私のくせは、こんりんざい出ませんでした。
  

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2014年01月22日

第13回 昭和29年春 私は戦争中に生まれたの


3年生になって、戦争の映画をみた後に、母が話してくれました。
「としちゃんがお母ちゃんのお腹の中におった時は、戦争中で、空襲警報がたびたび鳴ったんよ。戦闘機が飛んできて、怖かったんよー。」と、始まりました。
「そのたびに、大きなお腹を抱えて汗をふきふき、海のそばのなすび畑まで、大急ぎで逃げたんよ。」
「葉っぱの影に隠れて、じっとしちょったんよ。爆弾が落とされて焼け死ぬんじゃあないかと、体がガタガタ震えて、生きたここちがせんかったの。」
「長い間戦争が続いたんよ。昭和20年7月の予定日より早い朝、急にお産が始まりそうになったんで、近所の人がお産婆さんを呼びに行ってくれちゃったの。そのすぐ後、空襲警報がなったんよ。お母ちゃんはお腹が痛いし、どうなることやらと、ビクビクしちょったの。」
「お産婆さんが来る前に、としちゃんが産まれてしもうたんよ。ちっちゃくて青白かったんよ。としちゃんに敷布を掛けて、体温が下がらんようにして、お産婆さんを待っちょったの。」
「空襲警報の中、お産婆さんが急いでやって来て、すぐとしちゃんの臍の緒を切って、産湯に入れてくれちゃたんよ。」と続きます。
「か細い泣き声が聞こえたんよ。死なんで生きちょって、本当にえかったわ。」
「その後、また空襲警報が鳴ったんよ。防空壕に入るよう勧められたけど、満員で入れんじゃたの。お母ちゃんは、とても暑つ苦しい防空壕に入りとうなかったから、ちょうどえかったの。入っちょたら、熱射病にかかって、苦しくて死んじょったかもしれんね。」
「それから1ヶ月の間、戦闘機が飛ぶ音や、爆撃の音がするたびに、としちゃんはちっちゃな手や足や目などを、ピクピクさせて反応しちょったの。ちゃんと眠れんて、かわいそうじゃたよ。」と、思い出した顔の母
「戦争中、近くの家が爆撃された時は、破片が飛んできて危なかったんよ。後で見ると、その家は焼け崩れちょったの。」
「西の方では、人間魚雷の基地近くの燃料廠が爆撃されて燃え上がって、空が真っ赤に染まっちょたんよ。東の方の海軍工廠が爆撃された時も、空が赤くなり恐ろしかったんよ。」
「お母ちゃんは、戦争が早く終わることを、願っちょったの。」とも、言いました。
日本は戦争に負けて8月15日に放送があり、やっと静かになったそうです。
戦争中は農作物はとても少なく、戦争が終っても食べ物がなく、母は栄養不足で母乳が出ませんでした。
やっと牛乳が手に入っても、私がなかなか飲まないので、苦心したそうです。
その後、農家の人達が田畑に作物を作れるようになって、お米や野菜の食事が、摂れるようになったのです。
しかし、まだまだ食料事情は、よくなかったようです。
そんな中、私が3才になる前、母は周りから男の子を期待され妊娠し、みんなの望み通り弟を出産しました。
その弟が1才になる前の昭和24年の初めに、母は肺浸潤を患いました。
弟は田舎のおじいさんおばあさんの所に預けられ、私と姉と父は、すぐ近くのおじいちゃんおばあちゃんの家で暮らすことになりました。
おじいちゃんの家には、ラムネの製造場も離れの部屋もあり、母はその離れの部屋で、療養を始めたのです。
私はおばあちゃんおじいちゃんと父と姉のもとで、あまり淋しさを感じないで育ちました。
私が、しばしば転んで怪我をしたり、池に落ちたりするので、みんな心配しましたが、そのうち慣れっこになったようです。
幼稚園や学校に行くようになり、みんながホッとしたのもつかの間、高いところから落ちて怪我をしたり、忘れ物や落とし物をするので、みんな呆れたり、笑っていました。
今、母は元気になりほんとうによかったです。


  

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2014年01月20日

第12回  昭和28年暮 おばあちゃんの思い出


2年生の年末におばあちゃんが亡くなりました。
おばあちゃんのことを思い出します。
5才の春、百日咳の病気が治ったある日の朝、「お弁当を作ってちょうだい。」と、私はおばあちゃんに頼みました。
その頃、母は病気が完全に治っていないので、午前中はまだ起きていません。
それまでのおばあちゃんの弁当は、ご飯にかつおぶしを振り掛けたものに、決まっていました。
その日、田舎のおじいさんが持って来た卵で、炒り卵を作りご飯にのせたお弁当を作ってくれました。
嬉しくて弁当を父に見せてから、隣のみこちゃんと、れんげ畑に行きました。
みこちゃんの家のれんげ畑のまわりには、黄色い菜の花畑や若草色の麦畑が広がっています。
れんげ畑のあぜ道に座って、れんげの頭飾りや首飾りや腕輪を作りました。
れんげのにおいをかいだり味見をすると、甘酸っぱい味です。
そうしているとお腹がすいたので、お弁当。
青空の下で、薄桃色のれんげ畑の中の、黄色い卵のお弁当がとってもきれいで、食べるのがもったいない気がしました。
おばあちゃんの一回きりの美しいお弁当が、今でも目に浮かびます。
5才の冬、おじいちゃんが亡くなり、おばあちゃんは段々元気がなくなりました。
1年生の頃、おばあちゃんの用意する食事はお魚と味噌汁と漬物でした。
その頃から、母が少しずつ元気になりました。
2年生の春から、母がすべての食事の用意をするようになり、おいしくて栄養が摂れるよう考えています。
母は結婚前に神戸の洋裁学校に行き、寮の当番の時、料理を覚えたそうです。
ラムネの製造場の裏の小さな畑で、枝豆やかぼちゃや玉ねぎなどの野菜作りを始めました。
「おばあちゃんの作る食事では、栄養が足らないから、気を付けなくちゃ。」と言って、おばあちゃんにも、いろいろ食べさせようとしました。
しかし、おばあちゃんはあまり食べません。
ずっと以前から、我家のラジオから聞こえるのは、戦争の後の行方不明者や引揚者の、尋ね人の放送が多かったのです。
隣のいとこの家は「笛吹童子」や「紅孔雀」など、歌やお話が流れてくる楽しいラジオがあって、羨ましく思っていました。
しかしそれは、ラジオの違いでなく、父が歌のない番組を選んでいたのです。
実は、父の次兄が死んだのは音楽を熱心にしたせいと、おばあちゃんは思っていて、音楽を聴くと気分が悪くなるからです。
父の次兄は音楽が好きで、九州の音楽学校に行っている時、病死したのでした。
だから、父は好きな歌やお話のある面白いラジオ番組を聴くために、毎晩友達の家に出かけて留守だったのです。
そのかわりと思うのですが、父は仕事が早く終わった時、ヘンデルとグレーテルや灰かむり姫などの童話を、私達子どもに読んでくれました。
2年生の12月、おばあちゃんは寝込んでしまい、お粥も食べなくなりました。
父が東京の姉の秀子おばさんに、「ハハキトク、シキュウカエレ」と、電報を打ちました。
おばさんの家には電話がないので、電報局に電話をかけて、電報を家に届けてもらうのです。
次の日の午後、「切戸川に海の潮がどこまで来ているか、見ておいで。」と、父が言いました。
川に行ってみると、海の水が少し来ているけど、満潮ではありません。
帰って父に伝えると、「引き潮の時は危ないけど、姉さんが着くまでに、おばあちゃんは、息を引き取ることはないじゃろう。」と父。
日が暮れて、おばさんがあわててやって来て、おばあちゃんの枕もとに座ると、おばあちゃんは静かに息を引き取りました。
ちょうどその時、引き潮だったのです。
その頃、父の兄家族は県庁のある市に引っ越しました。
おばあちゃんと、隣の家族に会えなくなり、私は淋しくなりました。  

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2014年01月18日

第11回 昭和28年晩秋 引揚者と戦争


私が2年生の11月、学校から帰った時のことです。
「お疲れじゃったのう。よう帰っておいでじゃ。よかったのう。」
と、おばあちゃんが、古びた薄茶色の服を着た、知らない2人のおじさんに話し掛けています。
おじさんは手と顔を井戸水で洗い、サッパリして、台所の出入り口のそばのラムネの箱に、腰を下ろしました。
母が、大急ぎで大きいおにぎりを作って、たくわんと一緒に大きいお皿にのせて、2人の前に差し出しました。
おじさん達は一言もしゃべらず、もぐもぐと食べます。
そして、にこやかな顔になって、何度もお礼を言って、帰って行きました。
「戦争の前から、海のむこうの遠い満州に行っちょって、戦争が始まり帰れんかったんじゃ。」
「やっと引き揚げて帰って来た人達じゃ。」と、おばあちゃんが話します。
その年の暮れ、おばあちゃんが亡くなりました。
そのすぐ後、私より背が高いけどとても痩せた兄弟とお母さんの、3人連れがやって来ました。
破れた古い服を着て、長い間お風呂に入っていなくて、疲れているようで、ラムネの箱に腰を下ろしました。
母は、たくさんのおにぎりと厚揚げの煮物とたくあんを、2枚の大きいお皿に盛って、3人のところに持って行きました。
兄弟は両手におにぎりと厚揚げを持って、がむしゃらにぱくぱく食べて、「お腹一杯になった。」と、にこにこ顔です。
お茶も飲んで、3人とも元気になって、帰って行きました。
「どこの人?」と、私は母に聞きました。
「おじいちゃんが昔からラムネ屋をやっちょって、その時のお客さんじゃった人よ。」
「満州に行ちょって、戦争が始まりひどい目におおて、終わってからも苦労して、やっと船で舞鶴に帰って来たそうよ。」と母。
「朝から何にも食べちょらんから、フラフラじゃったんよ。夕方の船で、笠戸島のおばあさんの家に帰るんじゃって。」
「時々訪ねてくる人は、お腹がすいて歩けんのよ。うちに寄っておにぎりを食べてから、船に乗って笠戸島に帰るんよ。」とも話しました。
母は、それからご飯を炊き始めます。
夕食は、いつもより遅くなり、炊き立てのご飯と味噌汁だけですが、おいしく感じました。
私が2年生の間に、今日の三人連れも加えると10組以上の人達が、訪ねて来ました。
とても遠くて寒いシベリアという所から、はるばる帰って来た人もいたのです。
3年生になって、学校から映画館に行き、戦争の記録映画を観ました。
「ごおーんごおーん」と、戦闘機のけたたましい爆音が、聞こえます。
怖くて前の椅子の背に、隠れながら観ました。
若いお兄さんの兵隊を、学校の先生やおばあさんや女の人達が、日の丸の旗をふって、見送っているようすが写っています。
また、満州で多くの兵隊が、鉄砲や大きい車のついた戦車などで闘っています。
建物が崩れたり、多くの兵隊が倒れています。
なんとその兵隊の服と、我家に訪ねてきたおじさんやお兄さん達の古い服が、同じだったのです。
また、家が燃えている町で、大勢の人達が逃げ惑い、大怪我をして倒れている人もいます。
荷物を背負っているお母さんが、小さい子どもの手を引いて、あわてて逃げています。
この前、満州から引き揚げて、我家に来たお母さんと2人の兄弟ように見えます。
家に帰って、恐ろしい戦争映画のことを、母に話しました。
母が、私が戦争中に生まれたことや、戦争中の怖かったことなど話してくれました。
その数日後、私は父の戸棚の引き出しの中に、古い戦争中の写真を見つけました。
町内の若いお兄さんが、兵隊の服を着て中央にいます。
その周りに近所のおばさんやおじいさん達が、日の丸の旗を持って写っています。
私は映画を観て「戦争は他の国の人達を殺しに行くこと、戦って死ぬかも知れないこと。」と、はっきり分かりました。
近所の優しいおばさんや親切なおじいさん達が、他の国の人を殺すための戦争に、若い人を日の丸を振って送り出す姿が目に浮かびます。私はとても大きなショックを受けました。
私のなかに、「なぜ?どうして戦争を?」という疑問が生まれました。

  

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2014年01月16日

第10回  昭和28年秋 台風の目?


2年生の9月、「台風がこの近くに上陸します。」と、ラジオの天気予報が伝えました。
午後の授業は切り上げになり、私達は急いで集団下校しました。
雨が降り続いたら、今夜の満潮の時、切戸川の堤防から多量の雨水と海水が流れ出るかもしれないそうです。
学校から家に帰った時、「便所に水を入れてやー。」というおじさんの声が、外から聞こえます。
「はーい。」と返事をして、私はバケツに水を入れて、便所の便壷に流しました。
その頃は水洗トイレではなく、便器の下には大きい便壺があり、便や尿が溜まるようになっていました。
便壷が一杯になったら、農家のおじさんが勺で汲み出して木の桶に入れます。
それを畑のそばにある野壷まで運び、移します。
便や尿を野壺にしばらく置いておくと、肥料になるので、農家の人達は大切にしていました。
便や尿を汲み取った後の便壷に水を流し入れると、おじさんが最後にきれいに汲み取ってくれます。
便壷に水を入れて、「ありがとう。」とおじさんにお礼も言うことが、我家の子どもの役目でした。
今夜、海や川からの水が便壷に流れ込むと、便や尿が外に流れ出るかもしれません。
だから、農家のおじさんが、浸水しそうな便壷の便や尿を、浸水しない高い土地にある野壺に、運ぶのです。
また、浸水の恐れのある野壺の便や尿も、高い所の野壺に移しているので、心配いりません。
しばらくすると、近所のお兄さんや若いおじさん達が、「畳が水に浸かるかもしれんのー。」と言って、我家に集まって来ました。
我家は、町内で一番低い土地に建っていたのです。
伯父さん達は、慣れた手つきでたんすや畳を持ち上げて、床板の上に並べたラムネの箱の上に乗せてくれました。
雨が降り始め、激しい風が吹いてきましたが、急に雨が止み風がゆるやかになりました。
「台風の目じゃー。」と、外に出たお兄さんの声が聞こえます。
私は台風の目を見たくなり、窓ガラス越しに外を見ましたが、分かりません。
ヨイショと重たい窓をあけて、首を出して台風の目を探しましたが、見つかりません。
ふと上を見ると空全体が灰色の雲ですが、真上だけまあるく明るい青空が、目に飛び込んできました。
「これが台風の目だ。」と見ていると、また強い風がビューと吹いて来ました。
あわてて窓を閉めようとしましたが、なかなか閉まりません。
私も畳も吹き飛んで、ドターンと床板に倒れてしまいました。
外のお兄さんが「どうしたんじゃ?」と、部屋に入って来ました。
「台風の目を見たくて窓を開けたの。大丈夫よ。」と私。
「としちゃんのやりそうなことじゃ。」とにやりと笑って、お兄さんは窓を閉めてくれました。
そして、畳をまたラムネの箱の上に乗せてから、帰って行きました。
おにぎりだけの夕ご飯が終わって、私達きょうだいは我家より一段高い土地に建つ、隣のいとこの家に避難しました。
外はますます激しい風と雨になりましたが、家の中は静かで、いとこ達とトランプをして楽しい夜です。
布団に入る前に、玄関のあたりでぴちゃぴちゃと水の音がしたのですが、風や雨は弱くなってきました。
「ここは水につかったことはないから、大丈夫じゃ。」と中学生の従兄が言ったので、2階で安心して眠りました。
つぎの朝、外は嵐が去ってよい天気。
「おねしょした!おねしょした!」と照れ笑いする弟の声で、目が覚めました。
弟はおねしょなんか気にしないで、おどけて元気に我家に帰って行きました。
1階から「また、おねしょして、臭いなー。」「いつまで、おねしょするつもりじゃ!」と、おばさんの声が聞こえます。
小学生の従兄が、ひどく怒られてしょんぼりしています。
我家では弟はしばしば、私と姉はたまにおねしょをしていますが、叱られたり怒られたことはなかったので、驚きました。
家に帰ってみると、床下まで来た水は引いていました。
台風の後片付けは、大変です。
父は外のはき掃除のあと、「日光消毒ができん所は、薬で消毒せんにゃあいけん。」と言いながら、家の床下や製造場に白いDDTをまいています。
近所のお兄さん達がまた手助けに来て、畳やたんすを元通りにしてくれました。
「3時間目から授業を始めます。」と小学校から、我家に電話連絡があったので、町内のみんなに知らせて、集団登校です。
学校に着くと、教室で「台風の目が通ったなー。」「静かになったので分かったわー。」と、クラスの男子達が言っています。
私が「台風の目を見たよ。」と言うと、みんなは「へーエー?」と変な顔です。
みんなは家の中にいて、あの台風の青い目を見ていないことに、気づきました。
私は内緒にすることにしました。  

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2014年01月14日

第9回  昭和28年初夏 親しい友達ができたよ


2年生の6月、教室の椅子に座っている満喜子ちゃんが、お腹に手を当てて下を向いています。
私は心配になって、そばに行って「お腹が痛いの?」と、聞きました。
満喜子ちゃんはゆっくりとうなずいたので、担任の先生に伝えに行きました。
「授業が始まるから、先生は行けないの。としこさんが保健室に連れて行って下さいね。」と、先生。
2人で保健室へ行くと、白衣を着た先生が「横になって休みましょう。」と、満喜子ちゃんをベットに連れて行きました。
私は、急いで教室にもどりました。
授業が終わって、先生と一緒に満喜子ちゃんのところへ行ってみると、少し楽になったようです。
「家に歩いて帰れるかしら?」と、先生が聞きました。
「時々少し痛いけど、歩いて帰れます。」と満喜子ちゃん。
「としこさん。帰る道が同じだから、送ってあげてね。」と、先生が私に頼みました。
私は、満喜子ちゃんのランドセルを手に持って、送って行きました。
先生が、満喜子ちゃんの家の近くのお店に、電話して伝言したそうです。
しかし、お母さんは留守で、すぐには伝わらなかったようです。
満喜子ちゃんが家に着いた時には、お店の人から先生の伝言を聞いたお母さんは、待っていました。
その頃は、商売をしている家には、黒い電話機がありましたが、ほとんどの家には電話機がありませんでした。
ですから、電話機のある家に電話をして呼び出して貰ったり、架ける時も借りていたのです。
次の日、「としこさん。昨日はよく気が付きましたね。」と先生に誉められました。
満喜子ちゃんはお休みしたので、学校の帰りに寄ってみました。
もう良くなったようで、座って本を読んでいます。
満喜子ちゃんは元気そうだし親しくなれたし、その上先生に誉められて、私はうれしい気持ち。
6月末、満喜子ちゃんのお誕生日に、私は招かれウキウキです。
学校から帰ってから、父にラムネを5貰い、満喜子ちゃんの家に持って行きました。
同じ組の真知子ちゃんとまどかちゃんも来ています。
弟さんも加わって、みんなでトランプをした後、ハッピーバースディーの歌を教えてもらい、歌ってお祝いしました。
つぎに、きれいな散らし寿司と桃や黄色の砂糖のついたビスケットを食べて、とてもおいしく幸せ一杯です。
満喜子ちゃんのお母さんが「温かいお茶があった方がよかったけど、今から火をおこすと時間がかかるわ。」と言いました。
その頃はガスコンロはありませんでした。
七輪にまず新聞紙を丸めて入れた上に、消し炭(使った後の炭で火が付き易い)を置き、最後に炭を入れます。
そして、マッチで新聞紙に火を付けるのですが、火がおこるのに時間がかかったのです。
私はこの前、初めてハンカチにアイロンを掛けた時のことを、思い出しました。
熱いアイロンを置く台と間違って、そばに置いてある水の入いったブリキの洗面器に、アイロンを置いてしまったのです。
母が仕立て物にアイロンをかける時、ブラシで水を付けるために使うものです。
洗面器の水からジューと音と湯けむりが出て、熱い湯になりました。
「お鍋に水を入れて、熱いアイロンを入れると、すぐにお湯が沸くよ。」と、私は提案する様に言いました。
「アハハハハ!それはとしちゃんらしい、いい考えね。ワハハ。」とお母さんは大笑いです。
お母さんは、私がそそっかしくて、失敗したことを知っているのかしらと、ドキッとしましたが、誉めてくれたようで、うれしく感じます。
そこへ、勤め先の小学校からお父さんの俊栄先生が帰って来て、「海へ行こう。」と言って、連れて行ってくれました。
みんなで切戸川の河口へ行くと、干潮で砂浜が広がり、海の水は遠くに見えます。
「マテ貝は、穴に塩を入れると出てくるから、そっとすばやく捕まえるんだぞ。」と、お父さんが教えてくれました。
塩を入れた後、貝がピョコッと出て来ます。
すぐに捕まえてしっかり握っていないと、すぐさま引っ込んで逃げてしまいます。
私達は真剣に取り組んでも、10個位しか取れませんでした。
あっという間に、太陽が西の大島山の方におりて、美しい夕焼けになっています。
私達の影が、砂浜に細長く延びています。
「ほんとうに楽しかったわ。マテ貝も取れてうれしいね。」とみんな口々に、言いました。
「来年の誕生日には、満喜子のおばあちゃんの田舎に泊まりに行こう。蛍が切戸川のたもとより多いし、夜空の星もここよりもっときれいだ。」とお父さん。
「ありがとうございました。」と言って、来年を楽しみにこ踊りしながら、家に帰りました。
満喜子ちゃんがお腹が痛いのを見つけて、先生に誉められてから後、私はいつも教室のみんなの様子を見てしまいます。
その日は、クラスで一番色白の真知子ちゃんの様子が、いつもと違います。
頬や顔全体がほのかに薄桃色で、他の人と同じように見えます。
幼稚園の時から一緒の私には、少しボーとしているように感じます。
「真知子ちゃん。しんどいの?頭痛いの?」と聞きました。
こくりとうなずいたので、先生に知らせると「保健室に連れて行ってあげて下さいね。」と先生。
保健室に行って戸をノックすると、保健室の先生が戸を開けました。
「としこさん、しんどいの?」と先生が私の方を見て、おでこに手を当てかけます。
「ぐわいが悪いのは真知子ちゃんよ。頭が痛いんだって。」と伝えました。
「ごめんなさいね。としこさんの方が白い顔をしているので間違えたわ。」と先生。
先生が、真知子ちゃんをベットに寝かせて体温をはかり始めました。
私は、きっとひどくならないわと思いながら、教室にもどりました。
真知子ちゃんは、しばらくしてお母さんに迎えに来て貰って、家に帰ったようです。
学校の帰りに満喜子ちゃんと2人で、真知子ちゃんの家に寄ってみました。
真知子ちゃんは、いつも通りの色白の顔で、にっこりしたので安心です。
私は満喜子ちゃんの次に真知子ちゃんとも、親しくなれたようで、とても嬉しくなりました。  

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2014年01月12日

第8回 昭和28年2月 いたずらっ子


母が病気療養中、私より3才年下の弟は、1才の頃から4年間も、田舎のおじいさんの家で暮らしました。
5歳になったので、幼稚園へ行く前に、我家に帰って来ました。
ラムネを運ぶため三輪の軽トラックが、時々路地に入って来て、我家の前に止まります。
その時、怪獣が襲ってきたかのように、弟は大あわてで、「ワーッ!」と大声をあげ、玄関に飛び込みます。
また、路地のむこうの大きい通りを、バスが走るのを見ただけで、緊張して急いで帰って来ます。
弟のいた田舎の道路では、乗り物が少なかったので、バスやトラックが珍しかったのです。
家族みんなで暮らせるようになり、嬉しかったのですが、困った事が起こります。
弟は外では弱虫ですが、家の中では強気でいたずらばかりです。
私の学校で使う1年生の色々な道具を取り込んで、自分のおもちゃ箱に入れて知らん顔をしています。
ある日、学校へ行ってみると、昨夜用意したはずの、数カードがないのです。
弟のしわざに違いありません。
4年生の姉のところに、助けを求めに行きました。
他のクラスの、近所の友達の瞳ちゃんに、借りるよう教えてもらい大忙しです。
朝学校へ行く前に、ランドセルの中を見忘れると、学校で使う道具がなくて困ることになります。
しかし、何回も道具がないことがあったので、慣れてしまいました。
私は、瞳ちゃんや友達に学用品などを借してもらうのが、上手になったのです。
また、弟が教科書に何度もいたずら描きをしましたが、姉のお古の教科書であまり目立たないので、気にしないことにしました。。
その頃は兄や姉のいる弟妹は、入学しても新しい学年になっても、お下がりの古い教科書を使っていたのです。
また、私自身がうっかり忘れ物した時も、すぐに友達に借りにいって大丈夫です。
母やみんなは、私のうっかりの忘れ物が多すぎると、思っていたそうですが。
1年生の終り頃、教室で新しい消しゴムがないことに、気がつきました。
ランドセルをひっくり返してみましたが、見ありません。
ところが帰る前に、私の机の上にあるのです。
誰かが隠していたのに、違いありません。
「だれー? 消しゴムを隠したのは?」と、クラスのいたずら好きの男子に聞きましたが、ニタニタ笑って教えてくれません。
消しゴムが出てきたので、まあいいかと思って、犯人探しはやめました。
学校に慣れてきたからか、男子が女子の持ち物を隠したり、いたずらすることが増えてきました。
腕白な男子が、女子にちょっかいを出すこともあります。
泣き虫の女子がいたずらされて泣き始めると、授業がなかなか始められないので、先生は困ってしまいます。
そこで、泣いたことのない私の出番です。
先生は、その時の1番のいたずらっ子や腕白な男子の隣の席を、私にしました。
その頃の机は2人用でしたから、隣同士くっついていたので、いたずらしやすかったのです。
そのうち、男子は泣き虫の女子へのいたずらを止めました。
先生にひどく叱られるからです。
又、男子に何をされても、怖くて黙っている弱そうな女子にも、やりがいがないらしく、いたずらをしなくなりました。
しかし、私は道具が見あたらないと、他のクラスにあわてて借りに行きます。
後で出てきたら、「しまった! 隠くされた。」と気が付いて、「誰が隠したの?」と聞きまわるので、おもしろかったのでしょう。
私は何度もいたずらされたので、慣れてきました。
私も仕返しのいたずらを時々しましたが、男子はちっとも困らないし、かえって喜んでいるようです。
私の隣の席は、ずっといたずらっ子や腕白坊主で、いたずらっ子や腕白坊主と親しくなりました。
授業中時々(しばしばかな?)、鉛筆や消しゴムが落ちて遠くへ転がった時、私は授業が終わってから、拾うつもりでいます。
が、腕白つよし君やいたずらっ子が、わざわざ遠くまで取りに行ってくれます。
腕白坊主もいたずらっ子も、ほんとうは親切なんだと思います。
しかし、先生は困った顔をしていました。
2年生になってしばらくしたある日、つよし君が「うちに遊びにこいやー。」と誘ってくれたので、さっそく出かけました。
つよし君は、家の立派な柿の木に、するすると登って「おーい、登ってこいよー。」と上の方から呼びます。
私は、我が家の柿の木に登ったことがありますが、こんなに高くて太い木は初めてです。
もたもたしていると、つよし君がシューと下りてきて、「その枝を持って、左の枝に足をかけろ。」と力を貸してくれました。
私は、背の2倍以上の高さまで、はじめて登ることができました。
「広いなー。よく見えるわー。」と、思わず声が出ました。
薄桃色のれんげ畑や黄色い菜の花や緑の田畑が広がり、日本石油の白い大きいタンクが見えます。
その向うに日立製作所や東洋鋼鈑という工場が見えて、海も見渡せて感激です。
1度下りてから、今度は自分1人で登れるか、試してみました。
どうにか登れたので、私は「ヤッター!」と、嬉しくてたまりません。
その時、おしっこに行きたくなったので、あわてて下りました。
この前、つよし君の所に遊びに来たもりこちゃんが、言ったことを思い出したのです。
もりこちゃんが屋根の上に登った時、「おしっこに行きたい。」と言ったら、つよし君が「屋根から、おしっこしてもいいぞ!」と言ったそうです。
「木の上からおしっこしていいぞ。」と言われたらいやだから、私はおしっこのことは黙っていました。
「木登りができるようになったわ。ありがとう。もう帰るよ。」
「さよなら三角またきて四角。」と言って、手を振りました。
「秋には柿がなるから、またこいよー。」と誘ってくれます。
つよし君は気は優しくて力持ちだと分かりました。

  

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2014年01月09日

第7回 昭和28年初め いじわるばあさん


1年生の3学期が始まり、2月に学芸会が開かれると知らされました。
担任の先生が、「合唱に出たい人はいますか?」
「踊りがいい人は?」など、みんなに聞きます。
劇の希望者が少ないので、「としこさんは劇にしたら。」と先生。
私は自分では決められなかったので、うなずきました。
他の4人と一緒に劇の教室に行くと、「1年生は、したきり雀の劇です。」と、劇の担当の先生が言いました。
台本をみんなで読んだ後、先生が役の希望を聞きます。
雀やおじいさんや竹やぶなどの役の希望者はありますが、いじわるばあさんの希望者だけはありません。
先生が女子の中でも強そうな2人の方を見て、「ひろ子さんかとしこさんが、おばあさん役になったらどうかしら?」と、みんなに聞きました。
みんな大賛成のようでした。
そこで、2人がおばあさんの台詞を、読みましたが、2人とも小さい声です。
だって、いじわるばあさんに、なりたくなかったからです。
「明日もう一度読んでもらって、大きい声が出る方に決めましょう。」と先生。
私は、家に帰ってから縁側に座って、どうしようかと考えていました。
ガラス戸の外の葉っぱの落ちた枝だけのもみじの木が、目に入りました。
その向うを、隣のおばさんが怖い顔で、下駄の音をたてて歩いています。
隣の3人のいとこを産んだお母さんは、10年前に亡くなりました。
5年前におばさんがやって来て、そのおばさんに赤ちゃんが生まれました。
1番上の中学のお姉さんは、いつも妹の赤ちゃんをおんぶして、大きい桶に水を汲んで、手でゴシゴシと洗濯をしています。
この前、ラムネを作りに来ているおばちゃん達が、「かわいそうに。明日期末テストがあるのに、妹をおんぶして洗濯しちょるよ。」と言っていました。
兄弟2人があまりお手伝いをしないと言って、おばさんはいつも怒った目や顔をしていて、今日も兄弟をにらんでいます。
だいぶ前、私は「隣のおばさんは、いつも怖い顔をしているのに、どうして赤ちゃんはかわいい顔をしちょるの?」と、おばあちゃんに聞きました。
「そんなことは、2度と言うちゃぁいけん。」と言って、なにも応えてくれないので、よく見ることにしました。
おばさんが、3人のいとこをいくら怒っても、いとこ3人は妹を可愛がります。
おばさんが留守の時、兄弟2人は激しい兄弟げんかをしますが、妹には優しいのです。
3人のいとこが優しく可愛がるから、赤ちゃんがかわいいのだと思いました。
また、中学生のお兄ちゃんは笛吹童子などが聞ける鉱石ラジオを作ることができるし、小学生の従弟は彫刻刀で木の枝でおもちゃの動物を作れます。
3人を本当に感心な姉弟と思い、大好きですが、おばさんを好きになれません。
おばさんの真似をすれば、いじわるばあさんの役ができると、思いつきました。
劇の台本を開いて、私はいじわるな声で台詞を読んでみました。
「いじわるばあさん役を、私がするのがいいわ。おばあさん役をしよう。」と、心に決めました。
あくる日の劇のけいこの時間、「ひろ子さんから先に読みましょう。」と、先生。
ひろ子さんは大きい声で読みました。
もう決まりという雰囲気です。
「つぎ、としこさんどうぞ。」の先生の声。
「のりがない! のりがない!」「おまえが食べたな。おまえの舌を切ってやるー。」と、いじわるな大きい声で叫ぶように言いました。
みんなビックリして、ひろ子さんも、私の方がよいと思ったようです。
いじわるばあさん役は、私に決まりました。
4年間位病気だった母は、ずいぶん元気になったようです。
おばあちゃんの古い着物をほどいて、いじわるばあさんの着物に、小さく縫い直してくれました。
学芸会当日、私はいじわるばあさんを、演じきりました。
「いじわるばあさんらしかったよ。」「ほんとうにいじわるに見えたよ。」と、みんなが誉めるように、言ってくれましたが、私はあまり嬉しくありません。
雀になったきれいな着物姿の子達は、誉められてよりかわいらしく見えます。
特にいじめられる雀になった裕子ちゃんと、優しいおじいさん役の男子は、「上手だったよ。」とみんなに誉められて、人気者になりました。
私は周りから、いじわると思われているように感じます。
したきり雀のおばあさん役をして、よかったと思えず無口になりました。
しばらくして、いじめられた雀役の裕子ちゃんが、私と親しくしてくれるようになりました。
いじわるばあさん役といじめられた雀役の2人が、親しくなるのは不思議な感じ。
ですが、私は裕子ちゃんと友達になれたので、沈んだ気持ちから明るくなり、またおしゃべりになりました。
次は優しい女の子の役ができますようにと、心の中で願いました。
  

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2014年01月05日

第6回 昭和27年秋 絵の教室


幼稚園に行く前から、私が外で遊ぶとしょっちゅう転んで危ないと、みんなが心配しました。
だから、私は家の中で絵を描いて過ごすことが、多かったのです。
描いた絵を「ほー上手。」と父が誉めるので、同じ絵を描いてまた誉めてもらおうとしますが、同じには描けません。
しかし、「違っていて、おもしろい。」などと誉めてくれます。
私は絵を描くことが、楽しく好きになりました。
1年生の2学期から、小学校で放課後に「絵の教室」が、新しく始まることになったそうです。
担任の先生が、絵を好きな私を、絵の教室に連れて行ってくれました。
絵の教室の椅子に、1年生から6年生までのみんなが座っています。
前の方で、「こんにちは。僕の名前は○○○○としはるです。」と、小柄な日焼けした男の先生が挨拶しました。
初めて聞く難しい名前で、覚えられません。
次に分かる言葉で、お話しが始まったので、ホッとしました。
ところが、先生が画用紙のことを色紙と言ったり、クレパスを色鉛筆と間違えて言うので、みんな大笑いです。
絵の教室なのに、お話の教室に来たようでした。
「絵を描こうよー。」と、6年生のお兄さんが言いました。
「すまんすまん。今日は時間が無くなった。次の土曜日は必ず絵を描きます。ぜひ来て下さい。」と先生。
お兄さん達は、残念そうな顔をして帰って行きました。
私は絵を描かなくても、お話がおもしろいので、また来たいと思いました。
次の土曜日に絵の教室へ行くと、としはる先生がチンパンジーの真似をしながら、動物園の話をしています。
その格好がチンパンジーにそっくりなので、みんなお腹を抱えて笑いました。
みんなが笑うとお話が長引きます。
「もう絵を描きたいよー。」と、この前のお兄さん。
先生は仕方なさそうに話をやめて、「好きな動物を描こう。」と言って、みんなに画用紙を配ります。
私は、台所の戸を手で開けている我家の犬と、夕ご飯を出してやっている自分を、描きました。
先生に持って行くと、「ご苦労さん。よい絵だ。」と誉めてくれたので、嬉しくなり、としはる先生と絵の教室を好きになりました。
待ち遠しい土曜日、絵の教室が始まりましたが、やはりお話が長いのです。
「もう描こうよー。」の声に、先生はまた残念そうに、話すのを止めました。
「よく見て、詳しく描こう。」「自分の見えるように、人の真似をしないように描こう。」と、先生。
数本の雨傘と長靴3足が教壇の上に置いてあります。
私は初めてなのでよく見て描いたのですが、見えるようには描けません。
それに、人の真似をしようとしても、そのように描けず、真似はへたです。
傘の骨はねじれているし、長靴は左右の大きさが違うように描いてしまいました。
「いいぞ、その調子。」と先生。
気を良くして、傘の縫い目も、長靴のゴム底のギザギザや泥も描いて、色を塗りました。
周りの人は、見えるように上手に描いて仕上げていますが、私は傘と長靴だけで、仕上がりません。
次の土曜日、傘と長靴の下の教壇や後の壁板を描きましたが、なんだか歪んでいます。
「よっしゃ、いいぞ。まだのところに、色を付けて仕上げよう。」と先生。
そっくりに描けなくても、なるべく見えるように詳しく描けばよいと分かり安心です。
やっと仕上がり、覚えたばかりのカタカナで、「トンコ」と絵の裏に名前を書いて、先生に持って行きました。
トシコのシが間違っていることに、気が付きませんでした。
「ご苦労さん、とてもよい絵だ。トンコ、よく頑張った。」と、先生がまた誉めてくれたのです。
今までの私のあだ名は、「おっちょこちょい、とんきょう、ドジコ、ラムネ屋、ぽっきん。」です。
それより「トンコ」が一番良いと思えて、としはる先生を大好きになりました。
嬉しくてスキップで席に戻ったとたん、クレパスの箱をバチャーンと落としました。
「とんきょう!」の声が聞こえましたが、私はにっこりです。
それから、絵の教室に休まず行き、草花果物野菜や、ランドセルや友達など、色々描けるようになりました。
が、周りの友達のように、そっくりに上手に描けません。
しかし、としはる先生はいつも「とてもよい絵だ。」と言ってくれます。
私は土曜日にお話を聞いていると、いつも絵を描きたくなりました。
しかし、一日では仕上がりません。
その理由はよく見て描くからではなく、としはる先生に似てお喋りになり、手より口の方が、よく動くようになったからだと思います。
しかし、周りの人は、としちゃんは元々おしゃべりだと言っていました。
  

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