› ラムネ屋トンコ › 2014年03月

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2014年03月30日

第43回 昭和32年6月 大失敗をどうしよう!


6年の6月習字の時間に「前代未聞」と先生に言われた大失敗のことは、すっかり忘れていました。
次の習字の時間がある朝、思い出しました。
どうしたらよいか考えますが、よい案が浮かびません。
習字の時間がやってきました。
まわりの男子から話し掛けられても、知らん顔して墨をすり続けました。
今日は先生の声がよく聞こえます。
「そうだ。先生が教えてくれたように、しっかり習字の練習をしよう。名誉挽回の近道だわ。」と気がついたのです。
私は今まで、言われた通り決まった通りに、そして何度も同じように書くのは苦手でした。
今日は、はらう筆使いや、はねる筆使いなどに気をつけて書くことにします。
習字の時間があっという間に終りました。
次の習字の時間も、その次の時間もしっかり墨をすって、筆使いに注意して取り組みました。
先生の付けてくれる丸が、少し増えたので、嬉しくなりました。
最近、親しくなった副担任の昌弘先生が、絵の教室の手伝いをするので、休んでいた絵の教室に行きたくなりました。
そうすると、バイオリン教室に行けません。
しばらく、バイオリン教室をお休みすることにしました。
母はがっかりですが、弟と私が乗り気でないのであきらめたようです。
梅雨が終った土曜日の絵の教室です。
「雨の後で、屋根がきれいだから、校舎の屋上から見下ろして、屋根を描くことにしよう。」と敏春先生が提案しました。
屋上に上って下を見ると、お寺の屋根や二階建てや平屋の屋根が、あちこち向いて広がっています。
柿の木の葉やもみじの葉が、青々と生き生きしています。
瓦1枚1枚描いていくのは大変です。
見える屋根が少しずつ違っていて、みんなが描いた屋根もそれぞれ違って、おもしろい絵です。
みんなは色を付けたかったけど、太陽が強く照り始めていたし時間も遅くなったので、「今日はおしまーい。」と敏春先生。
「明日来て、仕上げたーい!」と砂子ちゃんが言いました。
昌弘先生が来てくれることになり、明日の日曜、数人の女子が登校することになりました。
日曜の朝、学校に行ってみると、和子ちゃんと玲子ちゃんと砂子ちゃん達がおしゃべりしながら、色をつけています。
遅れて行った私は、鉛筆の下書きの屋根や木をなぞって、黒マジックの一本線で描きあげました。
つぎに、屋根瓦に習字のはらう筆づかいで、すーすーと濃い色や薄い色を入れていきました。
大きい画用紙いっぱいの屋根もこれなら早めに仕上がると思ったのです。
葉っぱは小筆で点の筆づかいで色を付けました。
全部色を塗らないので、茶道を習っているお寺の、床の間の掛け軸画ようです。
空はうすく色を付けて、みんなと同じ時に仕上がりました。
次の絵の教室で、「トンコ、筆づかいがうまくなったなー。この屋根の絵はなかなかいいぞ!」と敏春先生が誉めてくれたのです。
嬉しい気持ちで家に帰り、そのことを母に話しました。
「としちゃんは、左ききじゃと思うんよ。右手で筆使いがうまいなんて、すごいね。」と母の感心した声です。
「やっぱり私は左ききなんじゃね。」と問い返すと、「箸と鉛筆は右手で持っちょったけど、まりつきやお汁を注ぐのは左手で上手よ。」と母。
「1年の時、踊ったような字で、ノートのますからはみ出ちょったよ。仕方ないと思って何も言わんかったんよ。だんだん右手でお魚の身を取るのが上手になったから、そのうち字もうまくなるかと思っちょったんよ。」とも言いました。
その時、「左利きを無理に直すと、落ち着きのない子になるらしいよ。」と友達のお母さんが言ったことを、思い出しました。
私は小学1年の時、通知表の「落ち着きがない」を読めませんでしたが、今はもちろん読めます。
「1年の時、私は落ち着きがなかったん?」と母に聞きました。
「そうよ。だから家庭訪問の時、抱っこして先生と話しちょったんよ。そうしないと、そばで跳んだり跳ねたりうろうろするから、先生の話が聞けんかったんよ。」と、そんなこと分かっていたでしょ、という言い方です。
3年生まで抱っこしてくれて、小さい時の抱っこの思い出がなかったので、嬉しかったのを思い出しました。
「それにね、学校の個人懇談会の時、いいことも言われるけど、分かっているのに嫌なことも言われるんよ。家庭訪問の時もそうなんよ。」と母。
「だけど、としちゃんを抱っこしちょったら、先生は嫌なことを言われんのよ。だから、3年生まで家庭訪問の時は、抱っこしちょったんよ。」
「4年生になると、だいぶ落ち着いてきたんよ。先生も困ることが減ったらしく、嫌なことを言われんようになったから、抱っこせんようになったんよ。」とも。
「そうかなー?授業中は椅子に座っていたと思うけどなー。」と私。
「注意散漫で、鉄棒から落ちて気を失ったり、高いところに登って落ちて怪我をしたり、そうそう、肺活量を計る時、息を吐きすぎて倒れたリするから、先生は困ったんじゃと思うんよ。」と母。
同じ組の恵子ちゃんは左利きなのに、右手で字を書いたりそろばんもはじいて、とても上手です。それに、落ち着いているようです。
これからは恵子ちゃんを見習って、ゆっくり注意して動こうと思います。
習字の時間に、大失敗したのですが、筆使いがうまくなったので「失敗は成功の元」と思うことにしました。
私は今までの失敗した数では、みんなに負けない気がします。
そんな時、いろいろな人に助けられたりお世話になってきました。
これからは、失敗した人を助けようと思います。
だから「失敗して困っている人の相談室」を、みんなに内緒で勝手に開くことにしました。
  

Posted by トンコおばあちゃん at 11:22Comments(0)

2014年03月28日

第42回 昭和32年梅雨 失敗は成功の元


6年生の6月初め、理科の時間に磁石とコイルと電池を使って、モーターを作ることになりました。
教科書に書いてある通りに、みんな頑張っています。
「みんな出来上がりましたか?」と担任の先生が、みんなを見回りながら聞きました。
「はーい。」とみんな。
「さあ、電流を流しましょう。スイッチを入れて下さい。」と先生。
「まわったー。まわったー。」「ヤッター。まわったー。」と歓声が上がりました。
そそっかしい私は、珍しく成功ですが、10人くらいの人が静かです。
「失敗は成功の元ですよ。どこか間違っていないか、調べましょう。」と先生。
「磁石が直角に重なっていますか?」
「コイルの巻き方はあっていますか?」
「電池の入れ方は?」と先生が聞くたびに、「間違っちょるわー。」など聞こえます。
授業が終わる頃に、みんな成功してモーターは回りました。
「失敗をしたからこそ、大切なところが分かり、気をつけたので成功したのです。一度で成功した人より、失敗した人のほうが勉強になったと思います。」
「これからは失敗した時は、『失敗は成功の元』を思い出して、また取り組んで下さいね。」と先生。
私は本当にその通りと思いました。
私の失敗は生まれた時からです。
予定日より早すぎて、産婆さんが来る前に産まれてしまいました。
弟が産まれた時、私は2才半でしたが、産湯のやかんを蹴飛ばして大火傷をしました。
4才の時は新しい下駄を履く時、あわてて足の親指の爪をはな緒にひっかけて爪が取れたり、他のことでも失敗だらけです。
その度にみなさんにお世話になって、助けて貰いました。
これからは、失敗のまま終らないで、成功するようにしなければと思います。
次の日の習字の時間のことです。
となりの男子が筆を持って立ちました。
「おっとっとっと。」と言って倒れそうになり、筆が私の手の甲にさわり、手が黒くなってしまいました。
「ごめんな。」と言いましたが、私にはわざとしたように思えます。
しばらくして、新しい半紙を出して下敷きの上に置いて文鎮を置きました。
今度は前の男子がまた筆を持って立ちました。
椅子を動かす時、筆が私の半紙の上に落ちて汚れました。
「ごめんな。」と言いますが、わざとに決まっています。
私は、仕返しをしたくなりました。
墨をすりながら考えました。
「そうだ、いい考えが浮かんだわ。」と軟らかくするために水をつけた筆で、前の男子の首筋をすうっと触りました。
前の男子は「ひや―。」と声をあげました。
先生と目が会いました。
先生が見ていたのです。
「女子が男子にいたずら書きするなんて。前代未聞だわ。」と先生。
私は「しまった!」と、体が固まってしまいました。
みんなが後を見ました。
みんなには私がいたずらしたことが、わかったかも知れませんが、そのことは気になりません。
先生に不真面目と思われたようで、それがショックです。
「アーア!大失敗!」です。
「失敗は成功の元」と昨日聞いたところですが、この大失敗は取り返しがつかないように思えて、私は珍しく悩むことになり、無口になりました。
家に帰っても、しゃべりません。
早く布団に入って天井を見つめて、どうしたら名誉挽回できるか考えていました。
姉が気が付いて、私のことを考えてくれたようです。
「あのね、オキシフルで拭いたら、毛の色が薄くなって毛深いのが目立たなくなるんじゃって。」と教えてくれたのです。
「ほんと! やってみる!」と私。
私の以前からの悩みの解決法です。
だいぶ前、学校で転んで保健室に行った時、「赤チンは目立って恥ずかしいから、色の無い消毒液があったらええのにな!」と先生に言いました。
「オキシフルにしましょう。」と言って先生が消毒してくれたのです。
白い泡が出てとてもしゅみますが、まったく目立ちません。
その日、私は学校から帰って、すぐにオキシフルのことを父に話しました。
父は「そうか。」と言って、早速近くの薬局に行って、珍しい消毒液だと試しに買って来てくれたのです。
私が転んで膝をすりむいた時、1回使っただけなので、まだたくさん残っています。
今日の大失敗の悩みはすっかり忘れて、腕や脚の毛の色が薄くなるのを夢見て眠りにつきました。
次の日、さっそくオキシフルをガーゼのハンカチに付けて、腕や脚を拭いてみました。
少し冷っとしますが、腕や脚の毛の色が、少しだけ薄くなった気がします。
姉が「何回か付けるといいらしいよ。」と教えてくれたので、明日もまたオキシフルを腕や脚に塗ることにしました。
  

Posted by トンコおばあちゃん at 14:15Comments(0)

2014年03月26日

第41回 昭和32年5月 修学旅行 


6年生の5月、楽しみにしていた北九州への1泊2日の修学旅行の日です。
前日に、私達女子は、大学を卒業したてのお兄さんのような副担任の昌弘先生に、いたずらしようと決めていました。
汽車に乗ってすぐに、女子が集まって相談です。
まず、ガムを包装してある銀紙の中に、ガムに似た紙を入れます。
度のきついめがねをかけた真面目な昌弘先生に、それをすすめて食べてもらう案に決まりました。
早速、いたずら用のガムを作り始めました。
次に「昌弘先生をおどろかす」の芝居の台本作りです。
女子1「昌弘先生!めがねの度はどの位なん?めがねを貸して下さいね。」
    と先生のめがねを受け取り、かけてみる。
    「うわー。全然見えんワー、度がきついねー。」
女子2「ほんとー!うちにも見せてー。ぜんぜん見えんわー。」とめがねをかける。
女子3「ガムをどうぞ。」と女子1にすすめる。
女子1「ありがとう」と言って、包み紙をむいてガムをかみ始める。
女子3「昌弘先生もどうぞ。」とすすめる。
めがねをかけていない先生は、紙のガムをかむでしょうか?
さあ、「昌弘先生をおどろかす」のお芝居の始まりです。
先生の席のまわりに、まず、しおりちゃんと和子ちゃんと私が座りました。
そして、前後の席に女子全員が集まりました。
台本通りにすすめると、先生は「ありがとう。」と言って、ガムを受け取り、包み紙から紙のガムを出して、口に入れてかみ始めたのです。
私達は「やったー。」と心の中で歓声を上げました。
先生は気が付かず、平気で紙のガムをかんでいます。
間違えて本物のガムを渡したかなと、女子3の私が確かめましたが、間違いなく紙のガムです。
「先生。それはガムですか?」と食べてしまっては大変と、たずねました。
先生は、口から手の平に出して、やっと紙と分かってびっくり。
私達は、大歓声をあげて大喜び。
以前より、昌弘先生と私達は親しくなったように感じます。
昌弘先生は写真を撮るのが好きなので、旅行中、私達は順番に笑顔で写してもらいました。
あっという間に時間は過ぎました。
帰りの観光バスの中から、西鉄ライオンズの野球選手が、ランニングをしている姿が見えた時、男子は大歓声です。
終点の博多駅に着くと、数人の男子が、野球選手に会いたいと、今きたバス道を走り出しました。
昌弘先生が追いかけて行き、男子達はしぶしぶ帰ってきて、担任の先生に大目玉をくらいました。
みんなは帰りの汽車に乗り込み、帰路に。
先生達は無事に駅に到着し、ホッとしたようでした。
博多の大宰府と、旅館で男子がわざと間違えて、女子の部屋に入ってきて、大騒ぎになったことなど思い出します。
男子は野球選手を間近に見たこと、女子は昌弘先生にいたずらしたことが、1番の思い出になったのです。
さて、私達の組は楽しい6年生になるように、毎月誕生会を開くことを、4月に決めていました。
プログラムを誕生月の人が考えて、誕生会を開きます。
6月の誕生月の男子は「私は誰でしょう?」のなぞなぞクイズを始めました。
修学旅行の時、西鉄ライオンズの野球選手を追いかけた男子が出題者です。
答えはきっと選手の名前だと思いますが、女子はほとんど知りません。
私は、かず君も野球を大好きなことを知っていたので、父がラジオで野球を聞く時、一緒に聞いていたので少し分かります。
「野球選手ですか?」と私。
「ハイ、そうです。」の返事。
「西鉄ライオンズの選手ですか?」
「ハイ。」やっぱりと思い、私ははりきって答えました。
「稲尾選手ですか?」「違います。」
「中西選手ですか?」「近い。おしーい。残念!」
正解は「中西太選手」でした。
「太」は知らなかったのですが、楽しいなぞなぞでした。
しばらくして、「広島球場に夜間照明がついたんで、ナイター戦が出来るようになったんじゃー。」
「学校を早引けして見に行きたいのー。」
と男子が盛り上がっています。
先生の耳にも入ったらしく、終りの会の時「男子が早退して野球観戦に行きたいと言っていますが、どう思いますか?」と、みんなに聞きました。
「初めての西鉄広島のナイター観戦バスツアーに、どうしても行きたいんじゃー。」
「夕方から始まるから、6時間目を早退したら、間に合うんじゃ。」
「ここから、ツアーが出るのは、1年に1回なんじゃー。」と訴えるように発言しています。
「みんなの考えを調べましょう。早退してもいいと思う人は手を挙げて。」と先生。
男子はほとんど手をあげました。
私も「ハーイ。」と手をあげました。
女子は私だけでした。
反対意見が出なかったのに、賛成の女子がいなかったので驚きました。
私は手を下ろすことはしませんでした。
あんなに修学旅行の時、野球選手を見て大興奮のだから、私は男子のために、修学旅行に野球観戦があったらよかったのにと思った程でした。
それに学校から授業を休んで、映画を観に行くこともあるのだから、1時間位早退して、大好きな野球を見に行くことはステキなことに思えたのです。
それに、病気で休むより、野球応援で休むことのほうが、絶対いいと思いました。
女子みんなは、私と考えが違うようです。
「としちゃんはでしゃばりだわー。」「ほんとにでっしゃんね。」と、もりこちゃん達が言っていたようですが、私の耳に入りませんでした。
もし、聞こえたとしても、私は自分の考えやおせっかいは、変わらなかったでしょう。
結局、数人の男子が野球観戦に行き、みんなに熱を入れて観戦報告をしていました。  

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2014年03月24日

第40回 昭和32年春 6年生になってドキドキ 


6年生の始業式の日、登校してみると、教室の入り口に組別の名簿が貼ってあり、男子と女子の名前が書いてありました。
5年生の時は男女別でしたが、4年生の時と同じ男女混合組にもどったのです。
名前のある4組の教室に入ってみると、ざわついて、みんなはそわそわしています。
5年生の時、男女別になったのは、女子がおしとやかになるようにと、考えてのことらしいのですが、効果があったのか、先生に聞きたいと思いました。 
受け持ちの先生はお母さんのようで、真面目な感じなので質問できません。
ですから、なぜ男女混合組にもどったのか、分からないままです。
「この1年間、よく学びよく遊び楽しく過ごしましょう。」と先生が笑顔で話しました。
「まかしといて!」と、早速私達は休憩時間に、「ひさしぶりに馬のりしよう。」
「賛成!」とすぐに決めて男女混合で遊び始めました。
じゃんけんで女子が負けて、前の子のお尻に次々頭を入れて、10人の長い馬が出来ました。
男子が乗ってきましたが、4年生の時より大きく重くなった気がします。
私達女子も足腰がしっかりしてきたので、背中に男子が乗っても大丈夫です。
次に、女子が男子の馬に乗りました。
男子は骨太になったようでびくともしませんが、落ちないように男子の体にしがみつくとドキドキします。
遠くでお年寄りの男の先生が、鳩が豆鉄砲を喰ったような顔で見つめています。
つぎに男子が乗る番です。
私達女子が馬になって連なっていると、「たけしが好きな女の子の上に乗るように、順番をかえろ。」
「俺はさくらちゃんの上に乗りたいんじゃ。」
「俺も。」とひそひそ声が聞こえてきます。
さくらちゃんは、クラスで一番胸がふくらんでいるのです。
お年寄りの先生が怖い顔をして、近づいて来るのが逆さまに見えます。
ちょうどその時、始業のチャイムが鳴ったので、終りにして教室に入りました。
授業が終わって、遊びのリーダー的存在のもりこちゃんの周りに、女子が集まりました。
「男子はたけしくんを好きな子の上に乗せようと、相談しちょったんよ。」
「男子は女子を触りすぎなんじゃ。」と誰かが言いました。
「男子は中学生のお姉さんが言うようにHだから、もう馬乗りは止めようやー。」ともりこちゃん。
「賛成。」「賛成。」とみんな同意しました。
女子の後を追いかける男子のことを、アルファベットの「ABCDEFG」の次の「H」と呼ぶのが、流行っていました。
英語で女子のことを「Girl」と書くからGの次のHだそうです。
つぎの日、馬乗りはやめて男女に分かれて、鬼ごっこをして遊ぶことにしました。
男子が女子を捕まえたら、男子の陣地に連れて行きます。
私達女子が助けに行って、タッチすれば自由になれます。
女子が1人でも捕まったら、どうにか工夫して見張り役の男子を誘い出して、別の女子が助けます。
しかし、男子が女子に捕まると誰も助けに来てくれないので、走るのが遅い男子は、ずっと女子の陣地に入れられたままです。
次の日も、走るのが早い女子が鬼ごっこをするので、走るのが遅い同じ男子が捕まったままです。
その男子達は、いじめられていると思っているかもしれません。
しかし、捕まることが分かっていても、鬼ごっこに加わります。
捕まってもいいから、一緒に遊びたいようです。
その頃、「戦後強くなったのは、女とくつ下。」という言葉が流行しました。(戦前は、くつ下は絹糸で出来ていたので、まさつに弱く破れやすかったのです。戦後はナイロン糸で作られるようになり強くて破れにくくなりました)
戦前はなかった、女性の参政権も認められ、女も強くなったと言われていたのです。
私達女子は遊びながら、そうかもしれないと思いました。
男子は女子と違って、遊ぶ時は特にふざけたり、でたらめをするのだと分かったので、だんだん休憩時間に男女でゲームをしなくなりました。
しかし、男子は体育の時間のドッチボールやかけっこなどの時は、女子に負けまいとして、必死に頑張るのでびっくりです。
四月末の席替えの日のことです。
始業式の日から出席簿順に席に座っていたのですが、黒板の字が見えやすいように、背の順で座わることになりました。
私はかず君の前の席になりました。
4年生の時、私は運動靴が見当たらないので、困って探していました。
誰かがいたずらで隠したに違いありません。
その時「こんなところにあるぞ。」と高い靴箱の上から取ってくれたのが、一番背の高いかず君でした。
「かず君は優しいな。」と思いました。
そのかず君が後にいると、なんだか落ち着きません。
馬乗りでかず君の上に乗った時、ドキドキして落ちそうになりました。
前からまわってきたプリントを、後のかず君に渡す時も、なんだか恥ずかしくなります。
こんなことは初めてです。
町内の俊君も茂君そして聖君も好きですが、ドキドキしたことはありません。
同じ教室でも、かず君が遠くの席の時は平気でしたが、近くになったとたんに落ち着かないのです。
この前、ラジオで言っていた「片思い」ってこのことかな、「初恋」も聞いたことがあるけど、このことかなと思いますが、まだよく分かりません。
5月末に席替えがあり、離れると落ち着きましたが、気になるのでついかず君の方を見てしまいます。
参観日の日、お母さん達がやって来ました。
かず君は背がクラスで一番高いのですが、かず君のお母さんは背が低いことに気がつきました。
やさしそうなお母さんですが、顔が似ていない気がします。
つぎの保護者会の時も、かず君とお母さんをじっと見てしまいました。
やはり似ていないように思います。
その次の日「かず君のお母さんはいいお母さんね。いつもズボンやシャツに、きれいにアイロンを掛けて下さるね。」と担任の先生が、かず君に話しました。
かず君は恥ずかしそうに、頬を赤くしてうなずきました。
私はその後も先生の言葉に、気をつけていました。
他の数人の男子は、いつもアイロンの掛かった服を着ていますが、先生は他の男子には、お母さんのことを言いません。
かず君を産んだお母さんではないけれど、かず君をやさしく世話をしているので、特別に「いいお母さん。」と言ったに違いないと感じたのです。
私はかず君のやさしいお母さんも、好きになりました。


  

Posted by トンコおばあちゃん at 11:10Comments(0)

2014年03月20日

第39回 昭和32年春 弟ときょうだい喧嘩


私が5年生になると、弟は3年生になり、いたずらが多くなり、2人のけんかが増えました。
弟が小学1年の時は学校に慣れるのに精一杯で、いたずらは減ったのですが、最近学校に慣れたからか、増えてきたのです。
その頃、友達の間で、紙で作った着せ替え人形が、流行っていました。
女の子の紙人形に、パジャマやドレスや、スポーティーなズボンとジャンパーとかコートなど作って、着せ替えて遊びます。
子ども部屋や台所や食堂やお風呂場などを、お菓子箱や石鹸の箱を利用して作ります。
しおりちゃんの家には、その頃ではめずらしくステキなベッドがあるので、そんな家に住みたいなと夢見つつ、ベッドルームも作りました。
自分の着たい服を考えて、紙で服を作ることも楽しいことでした。
一番大きい部屋の箱に、小さい部屋の箱や人形や着せ替えの服を入れて、風呂敷に包みます。
学校から帰って、着せ替えごっこの風呂敷包みを持って、急いで友達の家に集まり、次の日は他の友達の家という風に持ち回りです。
友達の家に着いて包みを開けて見ると、着せ替えの服などが破れているので、困ることがしばしばです。
弟が出して、破ったに違いありません。
帰って弟に文句を言うと、私を叩こうとします。
最近、弟は力が強くなり叩かれると痛いので、私は外に逃げます。
あわてていて下駄か靴を履けない時は、手に持って外へ逃げます。
斜め前の家の角を曲り小道を行くと、左に印刷屋があって右に瞳ちゃんの家があり、そこに逃げ込めば、弟は入ってきません。
私は足を洗わせてもらい、父が6時の夕ご飯の時は家にいるので、その時間に合わせて帰ります。
父の前では、弟は私を叩きません。
瞳ちゃんが留守の時は、すぐ前の切戸川の堤防の階段から、川原に下ります。
普通は川の半分くらいは川の水が流れてい、半分の川原は丸い大小の石が敷きつめられた様になっていました。
冷たい川の水で足を洗って、太陽で温まった石の上を歩くと、足は乾くので履物をはきます。
弟が追いかけてきて、堤防の上から階段を下りようとしたら、もう一方のバス通りの方の階段から上がると、追いつくことはありません。
川原で30分くらい遊んで6時に帰ることが、週に2、3回あると困ってしまいます。
ある日、けんかになり、あわてて履物を持たずに出ました。
裸足で川原に下りてしばらくして、もう一方の階段から上り帰ることにしました。
弟が小道の角に隠れていそうだからです。
バス通りの薬局のお姉さんと、ふと目があったので、「こんにちは」とにこやかに挨拶しました。
すると「としちゃんの家はきょうだい仲良しでいいね。」とお姉さんが声をかけたので、ドッキとしましたが、にっこりして手を振りました。
お姉さんは私の裸足を見て、あんなことを言ったのかなと、気になります。
もうけんかを止めた方がいいなと、思いながら家に帰りました。
夕ご飯の後、父が便所に行ったすきに、弟がまた叩こうとします。
「もういや!瞳ちゃんの家にテレビを見に行く時、連れて行かんよ!」と弟に言いました。
弟は怒って、鉛筆を持った手で、私の足を突いたのです。
鉛筆の尖った芯が、ふくらはぎに入り込みました。
私はオバーに「いたーい。いたーい。」と大声をあげました。
父が見に来て、赤い怒った顔です。
弟の頬の左右を平手でバッシバッシと強く叩きました。
弟も私もびっくりしました。
父が叩いたのは初めてで、目が潤んでいます。
弟が黙っていると「怪我をさせたらいかん。」とまた叩きそうです。
「ごめんなさい。」と弟は父に言いました。
「としこにも言いなさい。」と、父はまだ怒った声です。
「ごめん。」と弟が私に言ったので、私は黙ってうなずきました。
弟とけんかしない姉が来て、「あんたが要らんこと言うからよ。」と言います。
この時ばかりは、姉の言うとおりと思い、弟に何かを破られたら治せばいいし、なくなれば作ればいいわと、心の中で思いました。
喧嘩して父が怒るのも弟が叩かれるのも嫌だから、私はこれからは大目に見ようと決めました。
それに、夜テレビを見に行くのに、1人では許可がでないのだから、一緒に行くほかないのです。
それに「私だけが知っている」という推理番組の時、怖くて1人では帰れません。
そしてこの頃、「日本海の海岸で人さらいに連れて行かれた人がいる。」という、うわさがあったのです。
瀬戸内海の海辺も、夜は危ないと言われていて、瞳ちゃんの家のすぐむこうは海だから、大人の女の人も1人では、出掛けませんでした。
父に怒られた後、弟のいたずらは減り、2人で瞳ちゃんの家にテレビを見に行くことは続きました。
しばらくして弟は4年生になり、ある日、怒った顔をして学校から帰ってきました。
半ズボンが泥で汚れていて、膝をすりむいています。
すぐに、電話の受話器を取って電話帳をみながら、ダイヤルを回し始めました。
「僕は小学4年生ですが、学校の帰りに、中学生3人に取り囲まれて文句を言われて、押し倒されて怪我をしました。二度とないように注意して下さい。」と一気に言って、電話を切りました。
内弁慶の弟が自分で電話したことのほうに驚いて、「すごい。自分で電話してよく言えたよね。」「ほんとに。」と言って、母と姉が感心しています。
「どこで?」と姉が聞くと、「近い方の裏道を帰っとった。」と弟。
裏道は人通りの少ない道です。
弟が、私に少し怪我をさせただけなのに、父にひどく怒られて叩かれたことを、思い出しました。
弟は怪我させた中学生を怒って欲しいと思って、中学校に電話をしたに違いありません。
翌日、姉が中学校から帰って報告しました。
「昨日、中学生が小学生を取り囲んで、暴力をふるっているのを見ました。注意しようと近づくとみんな逃げました。今度見たら、警察に知らせます。厳しく指導して下さい。」と卒業生から電話があったそうです。
卒業生が弟に乱暴しているのを見て、黙っていられなくて、学校に電話をしてきたそうです。
「中学生が小学生に暴力をふるうことは、とても恥ずかしいことで卑怯なことです。決してあってはならないことです。何かの間違いであることを願っていますが、心当たりの生徒は申し出なさい。」と朝礼の時、先生が話したそうです。
弟は人通りのある大通りを、友達と通学するようにしたようです。
その後、中学生に怪我をさせられることはありませんでし、中学生が小学生をいじめた話を聞きませんでした。
  

Posted by トンコおばあちゃん at 07:16Comments(0)

2014年03月18日

第38回 昭和32年3月 金銀の巻き紙 


5年生のひな祭りの前です。
明日おひな様を作るので、金紙と銀紙を学校に持って行くことなっていました。
夕食後思い出して、色紙の引出しを探しましたが見当たりません。
せいちゃんの文具店はずいぶん前に、駅の近くに引越していたので、今から、その店に行くには遠くて無理です。
「明日学校で金紙と銀紙がいるの!どうしよう。」と家族の前で言うと、「思い出すのが、遅すぎるよね。」と姉。
「ひょっとすると、印刷屋さんにあるかもしれんぞ。」と父。
すぐ近くの印刷屋さんには、今までに色々な紙を貰っているので、慣れています。
今までに行った時はいつも、おばさんが出て来て、頼み事を聞いてくれます。
そして、おじさんが印刷場で紙を探してくれるのです。
外は薄暗くなっていたので、走って行きました。
玄関の戸を少し開けてみると、カギが掛かっていません。
「こんばんはー。」と大きい声を出すと、おばさんが出てきて「こんばんは。今日は何が必要かしら?」と、いつものように聞きます。
「金紙と銀紙があったら、お願いします。」と私。
そこへおじさんが出てきて、「金紙なー。古いのがどっかにあったぞ。」と。
印刷場に入って行ったので、私もついて行きました。
薄暗い中に、大きな印刷機とたくさんの紙が見えます。
活字も箱の中に並んでいます。
おじさんが奥の方の電気を付けて、高い所の戸だなを開けました。
巻いてある金紙と銀紙を取り出しました。
ほこりを払って、「少し古いなー。重いぞ。」と言って手渡してくれました。
ほんとうにずっしりと重いので、私は金と銀の宝物を貰った気分です。
「もう古いので使わんから、全部持って行ってええぞ。」とおじさん。
「ありがとうございます。」とていねいにお礼を言って、玄関を出ました。
ちょうど丸いお月様が切戸川の上に出ていて、金紙と銀紙が輝き始めました。
印刷屋さんの門も垣根もどろぼうが入れないように、高くて頑丈そうで、この家はお金持ちのようです。
遠慮しなくていいように思うけど、今日は貰いすぎたように感じます。
帰って父に見せると、「古いけど高価なもんじゃ。」と言いました。
私は時々必要な物を買うのを忘れて、近所の人に貰って助かっています。
隣に住んでいた従姉のお姉ちゃんが「うっかりとしちゃん。ちゃっかりとしちゃん。」と言ったのを思い出します。
これからは忘れないようにして、近所の人からの貰いすぎに気をつけようと思いました。
翌日の工作の時間、金紙銀紙のない級友もいたので、みんなで使いました。
去年作ったひな人形より、かがやいて見えます。
金紙と銀紙がたくさん残ったので、土曜日、絵の教室に持って行きました。
敏春先生の結婚の後は、時々絵の教室に行っただけで、今年は初めてです。
「よう、トンコ元気か。」と敏春先生がニコニコ顔です。
「金紙と銀紙を貰って、たくさんあるので持って来たの。」と言うと「それは助かる。役に立つぞ。」と先生。
和子ちゃんや砂子ちゃん達みんなは、山下清と言う人のちぎり絵のような作品に、取りくんでいます。
金紙と銀紙をさっそく使い始めました。
みんな真剣で、楽しそうです。
先生は先週みんなが彫ったというエッチングの銅版に、インクを塗って印刷しています。
しばらく見ていると、「トンコに見せたい絵があるんじゃ。3枚の絵を見てごらん。」と先生が話しかけました。
年末にみんなが描いた「友達の絵」の3枚です。
砂子ちゃんと玲子ちゃんと和子ちゃんが描いた絵ですが、みんな同じように詳しくていねいに描いてあって、私はとても上手と思います。
敏春先生は子どもの絵に上手下手はないという考えなので、「上手」と言ったことはありません。
先生は、真ん中の玲子ちゃんの絵を取って、代わりに私が描いていた「友達の絵」を置きました。
「どう思うかな?」と先生。
「すごい、左の砂子ちゃんの絵はさっき見た時より、詳しく描いちょるように見えるよ。右の和子ちゃんの絵はさっきよりていねに描いちょるように見えるね。」
「私の絵は2枚の絵と違うね。白く残ったところに、色を塗って丁寧に仕上げをした方がええね。」と応えました。
「そうだよな。この3枚はとてもよい絵だ。中国新聞の絵画コンクールに間に合うから、すぐ出そうと思う。きっと表彰状が届くぞ。」と先生。
みんなも私も表彰されるために描くのではありませんが、表彰されると絵の具が貰えるので、いいことだと思います。
私は塗り残したところに、色を塗リはじめました。
今までで一番ていねいに絵を仕上げて、いい気分です。
絵の教室はやはり楽しいので、また来ようと思いました。
そこへ、先生の教え子の中学生のお兄さん達がやって来ました。
「敏春先生は、戦争で父親をなくした生徒のお父さん代わりのようよ。」と、和子ちゃんのお姉さんの洋子さんが言ったのを、思い出しました。
お兄さん達は、何か相談に来たようで、先生と話し合っています。
私達は、片付けて先に帰りました。
次の土曜日は、もちろん絵の教室に行きました。
今まで通り、敏春先生のお話で始まり、戦争中に台湾の小学校で、日本語などを教えていた時の事です。
台湾の小学校でも、戦争で親をなくした子ども達がいたそうです。
「戦争は子ども達の親を奪います。軍隊や戦争は人を狂わせる。」と先生。
「今は新しい憲法になって、戦争をしない国に決まったので、本当によかった。」と先生は明るい表情になりました。。
先生は、台湾でも父親を失った子ども達の、父親代わりだったのだろうと、お話を聴いていて分ります。
また、母が病気でずっと会えなかった私を、先生が心に止めて、接してくれたと感じました。
3学期末の朝礼の時、絵画コンクールの表彰がありました。
やはり、敏春先生が言ったとおり、私達の3人の「友達の絵」は中国新聞の絵画コンクールで入選です。
あの時の真ん中の絵を描いた玲子ちゃんも、他の絵画展に入選し、合計20人位が表彰されました。。
校長先生は「みんなががんばって絵を描いているので、有名な小学校になりました。」と言って喜んでいます。
私達は絵の教室で楽しいから絵を描いているので、表彰されるのはおまけみたいなものですが、先生達が喜ぶので嬉しくなりました。

  

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2014年03月16日

第37回 昭和32年2月 私は女らしい?


3学期が始まりしばらくしてから、「5年生の女子だけ家庭科室に集まって下さい。」と、給食の後放送がありました。
女子みんなが集まると、5年生の女の先生が来て「生理」「初潮」「月経」「卵子」「子宮」と黒板に書きました。
「今日は女の人の生理についてのお話です。」
「みなさんは、これから胸がふくらんで体つきもふっくらして、女らしくなります。」
「初めての出血を初潮と言います。その後、月一回数日間の出血があり、それを月経と言います。病気ではないので安心して下さい。」
「卵子がお腹の中にある証拠ですよ。清潔に手当てしましょう。出血が多い時や辛い時は、体育の時間を見学してもいいですよ。」と、先生の話が続きました。
そして生理用パンツと生理用にカットした綿を、見せてくれました。
その頃はまだ生理用ナプキンは売っていなかったのです。
「男子は夢精があって、射精が始まります。結婚して一緒に寝て、卵子と精子が出会って妊娠したら、月経は止まります。」
「お腹の中の子宮という袋の中で、赤ちゃんは育ちます。すばらしい事です。自分の体を大切にしましょう。」と続きました。
その時、家庭科室の裏の方でガタガタ音がしました。
男子が天井裏に上って、話を聞こうとしたらしいのです。
先生に見つかってしまい、逃げて行きました。
あくる日、男子は家庭科室に集められて「男子だけの話」を聞いたようです。
私達女子は生理の話で持ちきりになり、にぎやかです。
その夜、押入から布団を出す時、俊君の家でかくれんぼをした時のことが、頭に浮かびました。
押入の布団の中で男の子とピッタリくっついて、体が熱くなったことです。
私はひょっとして、妊娠したのではないかと心配です。
まだ胸がふくらんでいないし初潮もないから、妊娠しないと思うけど、気になってしかたありません。
しかし、その日もドッチボールや三角ベースをして疲れたので、気になりつつ眠ってしまいました。
次の日、学校で明子ちゃんが「生理中だから体育の時間休むんよ。」と言います。
みんなが「お腹が痛いん? 」と聞きますと、「ううん。胸が張っちょるの。」
「それにブルマーが汚れたらいやじゃから休む。」とふくらんだ胸をさわって、応えました。
それを聞いて、私はちっとも膨らんでいない胸と下腹も、張ったような気がします。
しかし生活発表会の前なので、そちらに気を取られ、心配事は忘れました。
私は劇に出たかったのですが、他に劇に出たい人がいなかったので、残念ながら劇はありません。
北海道のアイヌの歌や踊りの発表になりました。
生活発表会が終わった翌日、母は神戸のいとこの結婚式に出かけました。
次の日は、5年生最後の遠足です。
夕食後、姉と一緒に「始めチョロチョロ、中ぱっぱ」と言いながら、ごはんを炊きました。
梅干入りのおにぎりと卵焼きを作り、漬物も入れてお弁当はできあがりました。
布団に入ると、下腹と胸が張っているようで、心臓がドキドキしています。
明日は遠足だから早く眠ろうとしますが気になります。
明日、瞳ちゃんに、俊君の家でのかくれんぼの時の妊娠の心配事を、話してみようと決めました。
すると、すぐに眠ってしまったようです。
あくる朝、外はよい天気。
起きようとすると、パンツが湿っている感じです。
そんなばかな、もうおねしょなんかしないはずとパンツを見ました。
なんと、パンツが赤く染まっています。
となりに寝ていた姉が気付いて、母が買い置きしていた生理用パンツとカット綿を出してくれました。
「遠足だから休んだら。」と姉。
「遠足だから休まない。」と私。
「山に登る前に、便所に行って取り替えるんよ。」と言って、姉がカット綿を軟らかいちり紙で包み、巾着袋に入れてくれました。
リュックにいつも通りお弁当など入れて、生理用カット綿入り巾着もちゃんと入れて、瞳ちゃんを誘いに出発。
瞳ちゃんに、妊娠の心配事はなくなったし、初潮の事も言わないことにしました。
胸がちっともふくらんでいない私に、初潮があったことが、恥ずかしい気がしたからです。
遠足は隣の駅まで汽車で行き、近くの大島山へ。
駅の便所で、カット綿を交換したので安心です。
上り道で、「としちゃん、歩き方がいつもと違うけど、どうしたん?」としおりちゃんが声をかけてくれました。
「ちょっとここが、いつもと少うし違うんよ。でも平気よ。」と、足の付け根をさわって言いました。
しおりちゃんは石のない方の道をゆずってくれて、一緒に登りました。
しおりちゃんの家はお店をしていて、足の不自由な人が働いています。
だから、私の歩き方に気がついて、やさしくしてくれるのだと思いました。
私は心も体もポカポカになりながら、登りました。
頂上は風がさわやかでいい気分です。
空はすみわたり、眼下の瀬戸内海はキラキラ輝き、心配事の消えた私の心のようです。
お腹がすいたので、お弁当がおいしかったこと。
遠足に来て、ほんとうによかったと思いました。
山頂で遊び、おやつやおしゃべりの後、下山です。
その夜は、初めての経験で疲れたので、早く寝床に入りました。
翌日、母が帰ってきて赤飯を炊いて「初潮」を祝ってくれました。
姉は生理が始まってから、父と一緒にお風呂に入りません。
私は今まで頭の髪の毛を洗う時は、必ず父と一緒でした。
父に洗面器でお湯を汲んで、髪に流して貰うためです。
これからは一人で入るので大変ですが、頑張るつもりです。
その頃は家庭のお風呂に、シャワーはなかったのです。
それから後、父がお風呂を誘わなくなり、なんだか淋しそうです。
つぎの日曜の朝、私は板の間の拭き掃除を始めました。
拭き掃除をすると、母が喜ぶからです。
その時、母の本箱に「妊娠しやすい方法」と書いてある、婦人雑誌の付録を見つけました。
母はもう赤ちゃんを産まないので見ないのか、袋とじのままです。
そっと隙間を開くと、男の人と女の人が裸で抱き合っている絵が三つ見えます。
私は絵のように裸で抱き合ったら妊娠するのだと、分かったのです。
「なーんだ、そうだったのか。」もっと早く知っていれば、心配しなかったのに。
私は、今は赤ちゃんの世話ができないので無理だけど、大人になったら赤ちゃんを産んで育てられるようになれるかなと、少し不安と期待の気持ちがうまれました。

  

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2014年03月14日

第36回 昭和32年1月 初釜


5年生の秋から、茶道の稽古を始めました。
茶道の先生は、私が姉のお点前を見て、順番を覚えるとよいと思っておられるようです。
姉の稽古を見ていると時間が長くなるので、私は足がしびれます。
だから、私はなるべく1人で先に行って、私のお稽古を先に見てもらうことにしていました。
3ヶ月たったので、お客さんになっておしとやかに座っていたり、お菓子やお茶(お薄)を頂くことだけには、だいぶ慣れてきました。
12月の最後のお稽古の時、「1月に『初釜』を開きますから、お姉さんと一緒にいらっしゃいね。」と先生がおっしゃいました。
新しい年のお正月が過ぎ、初釜の日です。
母に着物を着せてもらい、姉と一緒にお寺に出掛けました。
お弟子さん全員が、着物を着ていてとてもきれいで、映画で見た「あんみつ姫の御殿」のようです。
おしとやかに上手にお客さん役をしようと思い、私は少し緊張しています。
みんなで挨拶をした後、お弟子さん達のお点前が始まりました。
姉がお点前が終わるごとに、茶室から出て手招きします。
便所に行ったり、足踏みしたりして、足がしびれないようにするためです。
数人のお弟子さんのお点前が終わって、昔風のお正月の会席料理が出ました。
昨日からお弟子さん達みんなが、協力して料理したそうで大ご馳走です。
大小の食器に、煮物や焼いた物などが、彩りよく盛ってあります。
周りのお弟子さんの真似をして、私は上品においしく頂きました。
しかし、足がしびれないように動きすぎたせいで、着物の前がはだけて広がり膝が出そうです。
茶室を出て直そうとすると、かえって着物のすそが広がります。
お弟子さんで近くの染物屋さんのお姉さんが、腰紐をほどいてすそを直して、結び直して下さり助かりました。
終わってから後片付けがあるようですが、お弟子さん達が、「帰っていいですよ。」と、私に言いました。
長時間おしとやかにしていて疲れたし、足もしびれているから、手伝って食器を割るといけないので、私は先に帰りました。
昔の女の子役も大変なことが分かりましたが、大失敗しなかったので、初釜を楽しく感じました。
つぎの稽古の日、「お薄を立てましょう。」と先生がおっしゃいました。
私はまだ手順を覚えていません。
先生が順番を教えて下さるので、その順番通りお手前を始めました。
おなつめを落とさないことだけには、じゅうぶん気をつけたつもりです。
お抹茶を茶碗に入れて、茶せんをふるのですがうまく回りません。
先生が仕上げをして下さり、「としこさんどうぞ。」とすすめて下さいました。
そのお薄のお茶碗を右手で持ち上げて左手にのせて、両手で持ち上げ右手で少し回して、お茶碗の中央をさけて、三口半でおいしく頂きました。
冬なのでお湯を沸かすお釜は、畳を切り取って作った炉の中の五徳の上に置いてありました。
そのお釜に水をそそぐ時のことです。
なんと、お釜の外側と炉の中の灰と炭の上に、水をこぼしてしまいました。
ジューと音がして、灰が炉の周りの畳に舞い散り、もうもうと煙が立ちました。
先生もびっくりして、茫然と座っておられます。
そこへ、住職さんが入ってこられて、「火傷せんでよかったのう。」と慰めて下さいました。
しばらくすると、灰けむりも落ち着いて来たので、私はお掃除を終えて、早々に玄関を出ました。
私が失敗した時、いつも来ている作業服の若いお坊さんが、今日はいないので、ああよかったと思いました。
その時、門から油汚れの付いた作業服を着た、髪の毛をきちんとしたお兄さんが、やって来るのに気がつきました。
あっ! 失敗した時いつも来ていた、あのお兄さんです。
私は、今日は失敗を見られなかったので、にっこりしました。
お兄さんもにっこり会釈をしました。
お兄さんは、初めお坊さんかと思ったのですが、思い違いだったのでしょうか?
家に帰ってから、初め坊主頭でお坊さんのようだったけど、今は髪の毛を伸ばして工場で働いているようなお兄さんのことを、父に話しました。
「罪を犯して刑務所や少年院に入っていた人が出てきて、しっかり働いて暮らせるよう手助けする保護司の役を、住職は引き受けておられるんじゃ。立派な人じゃ。」
「刑務所ではみんな坊主頭にされるんじゃ。だから坊主頭の人が、時々お寺の住職を訪ねてくるんじゃ。」と父が話しました。
私は油汚れの作業服を着たお兄さんを思い浮かべて、しっかり働いていることが分かりました。

  

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2014年03月12日

第34回 昭和31年秋 茶道のけいこを始める


5年生のお盆の前、父に頼まれて「お布施」と書いた封筒を持って、切戸橋を渡ったすぐの所にある浄土宗のお寺に届けに行きました。
その時、「としこさんもお姉さんと一緒に、お茶のお稽古にいらっしゃいませんか?」と、住職さんの着物姿の奥さんが言われました。
奥さんは茶道の先生で丁寧な言葉使いなので、私も丁寧な言い方になります。
「はい、母に聞いてみます。」と応えて、挨拶をして帰りました。
2年前から、姉は茶道のけいこに、1人でお寺に行っています。
この前見た「あんみつ姫」の映画を、思い出しました。
学校の生活発表会(学芸会と言わなくなりました)で、昔の女の子の役がある時、上手にできる様にお茶の稽古を始めようかなと、思いながら家に帰りました。
母にお茶の稽古のことを伝えると、「行ってもええよ。」と言います。
私はバイオリンを習っているので、「お金、大丈夫?」と心配して聞きました。
「茶道のお稽古の月謝は、お抹茶やお菓子代だけで300円なんよ。大丈夫よ。」
「それに、お父さんは、お茶の稽古に行くことに賛成よ。」と母。
おてんばの私がお茶の稽古に行って、おしとやかになることを、父母は望んでいるように感じます。
10月になり、母のお古のふくさと小さな扇子と新しい懐紙を袋にいれて、姉と一緒に稽古に行き始めました。
姉がおなつめから茶杓でお抹茶をお茶碗に入れて、お釜から柄杓でお湯も入れて茶せんをふって、「お薄」を立てました。
住職さんのお母さんでお年寄りの先生が「そうですね。いいですよ。結構なお点前でございます。」とおっしゃいます。
私は、秋の花の和菓子を頂きながら、結構なお点前をする姉のことを、すごいなと感心して見ていました。
姉は明日テストがあるので、先に帰りました。
「左右の親指と人差し指をくっつけて膝の前の畳の上に手をついて、ご挨拶しましょう。」と、先生が挨拶をしながら言われます。
「つぎに歩き方を教えましょうね。立って下さい。」と先生。
私は立とうとしました。
しかし、立とうとした足の感覚がなく崩れて、ドッテーンと大きい音をたててひっくりかえったのです。
「足がしびれたのですね。親指を上に曲げると治りますよ。」と、先生が教えて下さいました。
しばらくして、やっとどうにか立てそうです。
「もう大丈夫ですか。今日はこれで終りましょう。よく来ましたね。来週もいらっしゃいね。」と、先生がおっしゃいます。
私はまだしびれが少し残っていたので、そっと立って茶室を出ました。
隣の部屋で、住職さんが、作業服のお兄さんのお坊さんと話されているのが、目に入りました。
私の足がしびれて倒れた音が、聞こえているに違いない。
恥ずかしいので、顔を見られない様に、そっと靴を履いて大急ぎで外に出ました。
お茶の稽古は大変そうですが、きれいな和菓子とお抹茶もおいしいので、続けようと思います。
しばらく稽古を続けて、お菓子の頂き方、お茶の飲み方、襖(ふすま)の開け閉めや床の間の拝見の仕方、歩き方などを教えて頂きました。
「バタンと音がしないように、静かに座りましょう。」
「襖は丁寧に締めましょうね。」と先生が注意なさいます。
一方、「ご挨拶が上手ですね。」とか、「いい姿勢ですよ。」などと、誉めて下さいます。
花や木の葉の形の素敵な茶菓子を頂いて、ゆったり過ごすことに、私はだいぶ慣れてきました。
秋も深まり、ふくささばきを教わった後、「今日はお薄を立てましょう。」と先生がおっしゃいます。
先に、先生が手本に、お薄を立てて下さいました。
「ここで、『結構なお点前でございます。』と言いましょう。」と先生。
先生に、まだ新米の私が言うのは失礼な気がしますが、これがお薄を頂く時の、決まりの挨拶だと分かりました。
つぎは私の番です。
お客さんになって座っていたので、足がしびれたようですが、どうにか立って歩けそうです。
お抹茶の入ったおなつめを持って座る時、音が出ないように気をつけて、そっと座りました。
その時、おなつめをポーンと落としてしまったのです。
若草色のお抹茶が畳に広がりました。
先生が小さなほうきで掃き取って下さいましたが、畳が若草色に染まっています。
乾いた雑巾で拭き取っても、お抹茶は少し残ったままです。
「大丈夫ですよ。このつぎから気を付けましょう。今日はこれで終りますが、来週もいらっしゃいね。」とがっかりしている私に、先生が声を掛けて下さいました。
気を取り直して、帰ることにしました。
玄関に出てみると、住職さんがこの前の作業服のお兄さんのお坊さんに、なにか話しておられます。
「私がおなつめを落としたことを、知っているのかしら? どうして、私が失敗した時いつもいるの?」と、恥ずかしい気持ちです。
あいさつもそこそこ、大急ぎで玄関を出ました。
なんだか疲れたので、隣の本堂の前の石段に座って、休むことにしました。
さっきの作業服のお坊さんが、玄関から出てお寺の門を通って、帰って行きましたが、頭の髪の毛がずいぶん伸びています。
お兄さんはお坊さんを辞めたのかな? それとも、お坊さんではないのかな? 不思議で、なんだか気になります。
帰っていると、お稽古に行く姉に出会いました。
姉に、私の失敗が知れるかもしれませんが、仕方ないなと思いながら家に急ぎました。

  

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2014年03月07日

ごあいさつ


ご愛読ありがとうございます。
次回は、間隔があきますが、3月12日(水)の予定です。
これから、小学卒業まで48話(残り14話)と続きます。
挿絵は、小学生の孫が描いてくれました。
その後、「トンコの中学高校(思春期)時代」の思い出話を、予定しています。
今後共も、どうぞよろしくお願いします。
トンコおばあちゃん  

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2014年03月04日

第33回 昭和31年秋 それぞれ違う


5年生の秋、「明日、国語と算数の学力テストがありますから、復習をしてきて下さい。」と先生が言いました。
全国の小学生の学力を調べるテストに、私達の小学校が選ばれて、5年生と6年生が受けることになったのです。
私は夕飯の後に思い出して、家族みんなにそのことを伝えました。
「ふーん、そう。」と言っただけで、みんなは父の部屋(表の茶の間)で、ラジオを聞き始めました。
花菱アチャコの「お父さんはおひとよし」の番組が始まったので、もう笑い出しています。
私だけが奥の子ども部屋に行き、国語の教科書を開きました。
みんなが大声で笑うので、どうして私だけが復習をしなくちゃいけないのと、うらやましく悲しくなって、目に涙がたまります。
教科書の字が見えないので、復習はやめて、寝床に入って、ラジオを聴こうとしました。
アチャコの「むちゃくちゃでござりまするがなー。」だけは聞こえますが、他はよく聞こえません。
目が涙でぬれていて恥ずかしいので、今さらみんなのところへ行けません。
学力テストのことを言わなきゃよかったと思い、泣き声が出てしまいそうです。
しかし夜に泣くと、つぎの朝、目が腫れて変な顔になった事があるので、我慢しました。
おもしろいラジオが聞けないので、つまらない夜ですが、あきらめて寝ることにしました。
つぎの日の学力テストは、習ったことだけで難しくありませんでした。
しばらくして、先生が90点以上の人に「よくがんばりました。」という小さな賞状を配りました。
驚いたことに私も、算数が90点で賞状をもらいました。
それまで、一番いい点は85点だったので、90点は初めてです。
「100点とったら、おこづかいを100円もらえるんよ。」と誰かが言いました。
「100点じゃあないけど、賞状をもろうたから、おこづかいを貰えるかも知れん。」と友達が言います。
私も家に帰って、話してみることにしました。
友達の中には毎日おやつ代として、5円か10円のおこづかいを貰っている子が多いのです。
我家は学用品を買うために、1ヶ月300円貰って、こづかい帳をつけています。
不足の時は、父がこづかい帳を見て、必要な額をくれます。
おやつを買うお金は貰えず、おやつは母が用意してくれます。
たまには、みんなと一緒におやつを買って食べたいので、もっとおこづかいを欲しいのです。
家に帰って、まず父に小さな賞状を見せました。
すると、「テストは先生の教えたことが、生徒に伝わっているか調べるためのもんじゃ。点が悪い時や分かっていない生徒に、先生が工夫して教えることが大切なんじゃ。」と父が言いました。
つぎに台所に行って、母に賞状を見せて「100点取った友達は、おこづかい100円貰えるんじゃぁって。」と話すと、「テストについて、家によって考えが違うんよ。」
「学力テストはどの位力がついているか、調べるためのもんよ。わざわざ前の日に復習しなくても、ええと思っちょったんよ。」と母。
我家ではテストが100点でも、こづかいが貰えないようです。
「散髪屋さんには、散髪屋さんの暮らしがあって月曜日がお休みよ。」
「うちはラムネの製造がない日と日曜が休みだから、お父さんはその日は遅くまで寝ているんよ。」
「お父さんは、他の家と違っていてええという考えなんよ。」と母が言いました。
母はいつも朝7時に起きますが、日曜日だけは遅くまで寝ています。
母の言い訳のように聞こえましたが、私は母が日曜くらいゆっくり寝ていて欲しいと思います。
病気にならないよう願っているからです。
私もみんな同じにできないのだから、違っていてよいのだと思います。
この前、校庭にいる先生を指差して「あの先生は、自分の組の生徒の家庭教師をしているんじゃって。」と友達が話ました。
「通知表の点が1や2で授業の分からない生徒の家に、教えに行っちょるの? ええ先生じゃね。」と私は言いました。
「ちがうよ! お金持ちが、お金を払って家庭教師に来てもらっちょるんよ。テストの点がようなって、通知表が5になるためによ。」と友達。
私には訳がわかりませんでした。
ずっと前の3年生の時、算数がよく分らない友達がいました。
4年生になる前に、3年生の算数がわかるまで、先生が教えてくれるといいと思いました。
しかし、そのことを話す雰囲気では、ありませんでした。
5年生では、みんなが分るまで、教え合えるといいなと思います。
だいぶ前、「テストの点で人間の価値が決まるのではない。えらい仕事をしている人が偉いのだ。」と、父が言ったのを、思い出しました。
この辺りでは、きつくて辛い仕事を、えらい仕事と言います。
また、仕事で疲れた時「えらいなあ。」「あー、えらかった。」とも言います。
しっかり働く人を誉めて、感謝する言葉でもあり、自分を労う言葉だとも思いますし、ステキな言葉だと思います。

  

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2014年03月02日

第32回 昭和31年秋 おもしろい町内会


5年生の秋、同じ学年の俊君の家の前に、俊君と茂君と瞳ちゃんと私が集まりました。
隣は金原さんの家で、庭のざくろの木の枝が垣根から外に垂れ下がり、実がキラキラ光っています。
去年、母の届け物をした時、金原おじさんが「外のざくろを取ってもいいぞ。」と言いました。
遠慮なくもぎ取って、みんなで食べ始めたのですが、とても酸っぱくておいしいとは言えなかったのです。
ただ1個だけはとても甘く、みんなで分けて少しずつ食べました。
甘いのであれば欲しいのですが、見ただけでは分かりません。
そこで、それぞれのざくろの実から、1粒づつ食べてみることにしました。
甘いのがあったら、おじさんに貰いに行くことにしようと思ったのです。
1粒食べ始めようとすると、垣根の中から「こらー。」とおじさん。
びっくりして「わー!」と声をあげると、「うるさいぞー。」とおじさんの怒った声。
今日のおじさんは、機嫌が悪そうです。
おじさんは仕事に行かないようで、ほとんど家にいます。
にぎやかに遊ぶ私達は、しばしば「やかましーい。うるさーい。」と怒鳴られます。
金原さんの私有地には借家が数軒あり、私道や空き地には桜や紅葉や竹などの木があり、かくれんぼや鬼ごっこに最適です。
我家の前の狭い路地で、毎日のように、年上のごうちゃん達が三角ベースをして遊んでいて、メンバーが少ない時仲間に入れてくれます。
その路地より金原さんの私道の方が広く、三角ベースをするのに好都合です。
しかし、今日は残念ですがあきらめます。
俊君の家の二階の子ども部屋で、遊ぶことになりました。
以前、優しい中学生のお兄さんとお姉さんが、紙に点をたくさん書いてジャンケンで勝ったら点と点を線でつなぎ、三角形を作くるゲームを教えてくれました。
今日は、まだお兄さんとお姉さんが中学校から帰っていないので、弟さんと一緒に三角取りゲームを始め、真剣にジャンケンをして、にぎやかに遊びました。
ゲームの後はかくれんぼです。
弟さんがオニになった時、私達は押入れに隠れてお布団をかぶったので、オニが押入れの戸を開けても見えません。
オニは、二階と階段をひと回りして私達4人が見つからないので、「見つからんので、もうやめた!」とあきらめて探しません。
4人は狭い押入れのお布団の中で身を寄せ合って、ぴったりくっついて息を潜めていました。
窮屈でモゾモゾし始めましたが、オニが見つけてくれません。
私が熱苦しくなって伸びをしたとたんに、ふすまがオニの上に倒れました。
ふすまがへこんで今にも破れそうです。
弟さんは不機嫌な顔をしています。
ふすまを元に戻して、遊ぶのは終りにしました。。
11月になり、子ども会世話人のおじさん達が、「冬休みにお楽しみ会をするから上級生が下級生に何か楽しいことをして下さい。」と言います。
私は「みんなで寸劇をしよう。」と提案したのですが、残念ながらみんなは賛成しません。
男子がなぞなぞゲーム、私が教科書にのっている「どんぐりの一生」のお話を、絵に描いて紙芝居をすることに決まりました。
学校で朗読コンクールがあるので、私は「どんぐりの一生」を何度も読んで覚えているから大丈夫。
紙芝居を作って読んでみましたが、歌があった方が楽しそうなので、歌に自信のないおんちの私は、瞳ちゃんに相談しました。
「みんなが歌うことにしよう。」と言って、「どんぐりの歌」を瞳ちゃんがリードしてくれることになったのです。
夏と同じように冬のお楽しみ会も、男女仲良く愉快に過ごしました。
私は寸劇ができなくても、紙芝居をして、最後に楽しく歌をうたって、とても満足な気持ちになりました。
瞳ちゃんは歌がとても上手で、お琴を習っていて、色々な曲を弾くこともできます。
それからは、瞳ちゃんが学校で習った歌を、一緒に歌ってくれるようになりました。
以前は、音に合わせて歌うのに疲れていましたが、最近は歌うことに慣れて疲れなくなり、歌っていると楽しくなります。
秋になり、俊栄先生は教頭先生の仕事が忙しく、歌のけいこを受けることが出来なくなりました。
これからは、瞳ちゃんが私の歌の先生のようです。
夏休みに、小鳩くるみや松島トモ子という子役のでる映画を観ましたが、可愛らしくて歌も踊りもダンスもとても上手です。
おんちの私には、子役は無理のように思い始めました。
母に、劇に出て「とても上手ね。」と、誉められたいという私の夢は、遠のいたよう思います。
しかし、諦め切れず、学校の研究発表会の劇に出にて夢を叶えたいと、密かに思い続けました。

  

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