› ラムネ屋トンコ

PR広告

  

Posted by at

2018年04月28日

第110回 ご挨拶 と 第35回

ごあいさつ
長い間ご愛読ありがとうございました。目標の高校卒業にやっと辿りつきました。
途中何度かお休みしましたが、皆様が応援下さいましたので、続けることができました。
先日、第35回が抜けていたことに気付き、子どもの頃と同じく今だにパーヘクトは無理だと再自覚し、苦笑しています。
今回、載せますので、よかったらお読みください。 ラムネ屋トンコ

第35回 昭和31年冬 おじいちゃんの思い出
母が病気になった時(私が3才の時)から、私は父方のおじいちゃんと同居していたのですが、その頃のことはほとんど覚えていません。
5年生の冬、そのおじいちゃんの七回忌があった時、幼稚園の年中組に通い始めた頃のことを思い出しました。
おじいちゃんは中風という病気を患っていて、片方の手足が少し不自由でした。
ほとんどの時間、布団の上に座っているおじいちゃんに、私は幼稚園でのことをいつも話しました。
「毎朝、背の低い園長先生が、背伸びしてブランコの板に付いているクサリを、セットしてくれてんよ。」
「ブランコをこいじょると、空で白いお月さまが一緒に動いちょったよ。」
「今日はお月さま、いなかったんよ。どこに行ったんかな?」
「なくなったと思っちょった、カバンが出てきたんよ。」など話すと、おじいちゃんはニコニコ顔で聞いていました。
その頃、私はおじいちゃんのそばで、絵を描いて遊ぶことが多かったのです。
おじいちゃんも嬉しそうだし、みんなも私が外に出ると、池や溝に落ちるので心配だけど、家にいると一番安心していることが分かったからです。
夜になると、いつもおじいちゃんのお客さんが来て、なんだか難しい話をしていました。
お客さん達はおじさんで政治の話をしていたようですが、おじいちゃんはほとんど聞き役でした。
おばあちゃんが用意した徳利に入れたお酒とおちょこを持っていくと、おじいちゃんがとても喜んで、私を膝に抱っこしてくれます。
だから、お客さんが来ると、いつもお酒を運ぶ手伝いをするので、こぼさない様気を付けました。
その頃、父はいつも夜になると出かけていました。
お酒も政治の話も苦手と言っていた父は、友達の所に好きなラジオ番組を聞きに行っていたのです。
年中組の冬、おじいちゃんはだんだん座れなくなり、とうとう寝たきりになって亡くなってしまいました。
葬式にたくさんの人が来ました。
おじいちゃんの思い出はこのくらいしかありません。
「おじいちゃんが子どもの時、家業の商売がうまくいかんようになって、おじいちゃんは明治時代の小学校3年までしか通えんかったんじゃって。」
「その後、お店の丁稚奉公や道路工事などのえらい(辛い)仕事をして、両親を養っちゃったんよ。大人になって、おじいちゃんはラムネを作る仕事や他の商売を始めて、薄利多売の考えじゃったんよ。」と母が話してくれました。
また、「おじいちゃんは、小学校を卒業できんじゃったから、東京の学校の通信教育で勉強しちゃったんよ。その時学んだ『自由と平等』の考えを好きになって、屋号を「自由堂」に決めたんじゃって。その考えを取り入れて、商売や生活をしようとしちゃったんよ。」と母。
昭和10年頃、おじいちゃんが働けなくなり、父が「自由堂」の清涼飲料(ラムネとサイダー)製造業を引継ぎました。
父はおじいちゃんのことをほとんど話しませんし、他のこともあまり話しません。
しかし、おじいちゃんが書いた字やお墓のことだけは、自慢します。
おじいちゃんは山からかっこいい大きな石を、リヤカーで運んできたそうです。
「惧会一処」(くえいっしょ、と読み、ここでみんな一緒に会いましょう、という意味)と自分で書いた字を、専門の人に彫って貰いました。
私の家は隣の町内の浄土宗のお寺の檀家で、そこにあるお墓はみな四角です。
おじいちゃんのお墓だけは、他のお墓とちがって、自然の大きい石です。
そして、家には木を切った平板に、「一期一会」(いちごいちえ、と読み、人とは一度の出会いかも知れないと思って、誠意を尽くして接しましょう、という意味)と、おじいちゃんが書いて、鴨居(ふすまの上の横に長い木)にかけています。
おじいちゃんも父も自然が好きで、他と違うという事も好きで自慢のようです。
おじいちゃんとは短い間ですが、親しくできてよかったと思います。
みんなの話を聞いていると、家の中の細々した事はおばあちゃんの言ったようになり、子ども達が外で学校へ行ったりスポーツや音楽などの活動をする時は、おじいちゃんの言う通りにしていたことが分ります。
「自由と平等の考え」は、家族の中には生かされていなかったよう感じましたが、孫の私は自由にのびのび育った気がします。。

  

Posted by トンコおばあちゃん at 10:38Comments(0)

2018年04月03日

第109回 昭和39年春 高校卒業


高校3年の3学期になってすぐ、2年生女子のクラス委員達が、「女子の制服のブラウスが、市販のカッターシャツでもよいことになったらいいな。」と、伝えにきた。
白のブロード地のブラウスは、アイロンを掛ける必要がある。
その頃、ノーアイロンのカッタ―シャツが売り出され、それを着る男子がていて、親も楽だった。
女子は、本人がアイロンを掛けることが多く、大変に感じがちだ。
2月末、各クラス委員がみんなに聞くと、賛成意見が多い。
生徒会規則変更は秋に経験したので、3年生クラス委員は慣れていて協力したので、トントン拍子で進む。
1・2年の女子がとても喜んだ姿を見て、ホッとした。
2月末、卒業式の予行演習が行われることになった。
その前に、担任が「ひろさんの担任が、ひろさんをライオンズクラブ奉仕活動生徒の表彰に推薦したんだ。僕も君を推薦したい。」
と言う。
ひろさんと一緒に、JRCで養護施設の子ども達のための活動・校内で清掃活動や、購買部活動をやっていたかららしい。
「表彰されるためにではなく、自分が好きで楽しいから活動したのだから。」と固辞した。
「ひろさんは受けるのだよ。僕のクラスからも表彰者を出したい。僕のために受けてくれ。」とのことだ。
後日又担任が「ロータリークラブの同じ趣旨の表彰も受けてくれ。」と言う。
ひろさんに相談し、世話になった担任の頼みだからと受ける事にした。
ひろさんが卒業式の日に、校長から表彰状を受け取ってくれることになったので、やれやれとホッとした。
予行演習の日、家庭科の御手洗先生が、「家庭クラブの会長をしてくれたから、卒業式の日表彰状授与があるから、受け取ってね。」と。
昨年の卒業式の時、家庭クラブ会長が表彰されたことを思い出し、しかたなく「はい。」と返事する。
3月初めの卒業式当日は、就職先や進学先など進路が決まっている者だけの出席だ。
国公立大学などの受験者は欠席で、空席が多い。
父兄(保護者のことをそう言っていた)の参加も多くなかったが、私の母は参加していて、私が表彰されたことに驚いていた。
私が、前もって知らせていなかったが、「悪い事ではないから。」と苦情は言われなくてよかった、
私にとっては、印象の少ない卒業式だった。
それより、ぬのちゃんに「お別れ会に来てね。」と誘われたので行って見ると、かんちゃんとシンちゃんが来ていて、楽しく過ごしたことを思い出す。
そこで私もと、親しくしてくれた又会いたい友と、お別れ会をすることに。
ひとみちゃん・二人のれいこちゃん・嬉子ちゃん・ひろさん・ひろこちゃんと楽しく過ごし、再会を楽しみにした。
和子ちゃんにはライオンズクラブの昼食会で会えたし、えみちゃんとは秋に小旅行が出来、いい友と親しくできた私は幸せだった。
後日談だが、新2年生になった弟が、新しい生徒手帳をもらったので見せてくれた。
「外出時制服着用(みんな守っていなかったが)などの項目を、先生たちが勝手に削除したらしい。
「規則変更」などの経験は、「公民」「自治」などの体験学習になるのに、勉強の機会を奪う残念な高校だと思った。
  続きを読む

Posted by トンコおばあちゃん at 15:46Comments(0)

2018年02月28日

第108回 昭和39年2月 保育科入学試験


高校3年の2月初め、入学試験の前々日夕方、夜行列車(新幹線はまだなかった)に乗り神戸駅へ向かう。
早朝神戸駅に到着、楠公さん(湊川神社)の境内を通っておばの家に行く途中、小学3年の時訪れた楠公さんと同じだと感じた。
あの時は母と姉と弟の4人で、桜の下を歩いたが、今は水仙が目に入ってきた。
又、中学2年の時、従兄のよしおさんが我が家を訪ねてくれた時のことも思い出す。
ラジオで活躍の「花菱アチャコ」の物まねが上手なよしおさんが、家族を笑いに包んでくれた。
叔母の家に着くと、洋裁学校で和裁を教えている叔母が笑顔で迎えてくれる。
午前中はのんびり過ごし、午後になると路地から紙芝居のおじさんの拍子の音が聞こえてきた。
あの時、おばさんに小銭をもらい、あめを買って紙芝居を楽しんだこと思い出す。
あの時と比べると、集まる子どもの人数は少ないようだ。
リラックスして過ごし、床に入り熟睡して朝を迎えた。
阪急電車に乗り、西宮の保育短期大学に着く。
受験科目は少なく、音楽の実技テストは無かった。
「自分のおいたち」と題しての作文が受験科目に含まれている。
「屋号が自由堂という製造業の家に生まれた私は、落ち着きのない子どもだった。」と、書き始めた。
「私はよく遊びよく遊び、そして学ぶという感じで、のびのび育った。卒園した幼稚園の園長先生に幼稚園の先生を勧められて、受験することにした。私が、とても楽しそうに遊ぶので、保育者に向いているとのことだ。しかし、私は歌もピアノも下手なので不安だった。そこで、ピアノと声楽の勉強を始めたが、上手とは言えない。音楽のテストを受けたかった。保育者になるための音楽の素地があるかどうかテストを受けたかった。テストがないのは不安だが、万一合格したら、精一杯努力したい。」と言う風なことを書いた。
学校の建物は落ち着いた雰囲気で、校庭は木々が多く明るくさわやかだ。
2年間、この短大で学びたいと願いつつ帰宅した。
2月下旬「合格通知」が届く。
出来るかどうか分からないが、初めて難しいことに挑戦することになった。
が、やりたい気持ちが強くなり、入学が楽しみになり待ち遠しくなった。
  

Posted by トンコおばあちゃん at 19:21Comments(0)

2018年01月10日

107回 昭和39年1月 すべってころんでさあ大変


高校3年の年賀状が特等に当選したことで、「今年は良い年になるだろう。」と、私はウキウキしていた。
1月下旬の夜中から冷え込んだ翌朝、小さな庭の松の枝や石灯篭や垣根の上に、雪が降り積もっている。
庭の地面も真っ白で、前の路地も20センチ以上つもり、銀色に輝いていた。
愛犬がしっぽを振って呼んでいるので、私は長靴をはいて外にでる。
「初雪を、踏む嬉しさや、愛犬と。」と、頭に浮かんだ句を口にしながら、まだ足跡のついていない美しい雪の上を、気分よくサクサクと歩く。
その時、なんということでしょう、滑って転んでしまってさあ大変。
そして、雪で隠れていた花壇のレンガの角で、膝を強く打ってしまいとても痛い。
玄関にもどり、ズボンのすそをめくってみると、1センチ角の皮膚が深くめくれて、下の肉が真っ赤だ。
恥ずかしいのだが、しかたなくいつもの病院で診てもらう。
「ひさしぶりじゃのう。」と、先生の顔は笑っていて、テキパキ消毒して薬を塗ってくれ、看護婦さんが包帯を巻いてくれた。
私は苦笑いしながら、「今日はすべったけど、受験はすべらないだろう。」と思うことにする。
化膿止めの飲み薬をもらい、お礼を言って病院を出た。
帰宅し「二度あることは三度ある」ということわざを、思い出す。
もう一度すべったら、短大保育科受験をすべるかもしれないので、二度とすべらない様に注意することにする。
母は、昨日届いたダブルベットの上に置く、ベットパットらしきを作り始めた。
私のすべったことなど気にしていない様子で、「またなのー。」と思っているようだ。
その冬は雪が多かったので、担任が「雪の俳句をつくろう。」と提案する。
「・・・・・ 窓辺でおどる、雪ん子よ」までは思い出すが、上の句は不確か。
「トントンと」「こんこんと」だったかな?
その後、すべることなく、受験することができて胸をなでおろした。
  

Posted by トンコおばあちゃん at 07:25Comments(0)

2018年01月01日

明けましておめでとうございます


あけましておめでとうございます。
ご愛読ありがとうございます。
あと数話で、高校卒業。
春まで頑張りたいと思います。
よろしくお願いします。
ラムネ屋トンコ  

Posted by トンコおばあちゃん at 12:37Comments(0)

2017年12月01日

第106回 昭和39年冬 高校3年のクリスマス・お正月


高校3年のクリスマスキャロリングとキャンドルサービスも例年通り。
だが、岩国基地で働く青年ダンさんの参加は新しいことだった。
夏休み高校生会活動中に、ダンさんがナナハンオートバイ(大型750cc)でツーリング途中に立ち寄ったのだ。
その後、彼は毎週のようにやってきて、高校生会の活動に参加した。
英文科志望の礼子ちゃんは、英語を使っておしゃべりをしている。
私は、ダンさんの片言の日本語に付き合い簡単な日本語で返事をし、時には日本語を教えることになった。
親しくなった高校生会のみんなともダンさんとも、春にはお別れになるので、本当にひさしぶりに新年かるた会を開くことにする。
隣接する叔父一家が住んでいた家(借家にしていたが当時は空き家)に20人位集まった。
その頃は、二つの部屋の間の襖を取り除けば広間になったので大丈夫。
百人一首は一回だけだが、ゲームをしたり歌ったり楽しく過ごす。
私は、高校生会で有意義な時を過ごせた感謝の気持ちを伝えた。
その後も、昨年同様ピアノの練習を続け受験に備えた。
1月15日に、年賀状の当選番号の発表があり、和子ちゃんから来た年賀状の番号が特等(ダブルのフランスベット)と同じ番号だと発見。
見間違えかもしれないと思い、家族に確かめてもらい、当選が確定し大喜びする。
次の瞬間、ダブルベットをどの部屋に置くかの相談が始まった。
が、和子ちゃんのお父さんは、長年病気で床の上で過ごしておられることを思い出す。
そこで、和子ちゃんの家に「ダブルベットが当たったのよ。使いませんか?」とたずねに行く。
「ベットは軟らかすぎるし大きすぎるから。」と遠慮されてしまった。
そこで、表側の客間に置くことに決めて、当選した和子ちゃんからの年賀状を、郵便局に持っていく。
すると、母方の叔父が出てきて、当選証書を手渡してくれた。
郵便局の責任ある立場になっていた叔父は、自分のことのように喜んで、「近いうち届くぞ。」と言う。
数日後、地方紙の新聞記者が来て、「誰からの年賀状ですか?」など聞き、「写真を撮らせてくれ。」と。
2・3日後、年賀はがき特等当選者3人の写真入りの記事が載った新聞が届いた。
自分の写真が載るのは初めてで恥ずかしいが、小さい記事で目につきにくいので、よかったと思う。
今だったら、個人情報保護で考えられない記事だが、昔はのんびりしていた。

  

Posted by トンコおばあちゃん at 07:28Comments(0)

2017年10月31日

第105回 昭和38年秋 ケネディー暗殺と差別問題


高校三年の少し寒くなってきた11月22日、「日米間初のテレビ宇宙中継」が明日早朝行われる事を、テレビニュースで伝えていた。
23日は土曜日勤労感謝の日で学校は休みで、目覚めたのは8時頃だ。
9時頃、2回目の宇宙中継があり、初の宇宙中継はケネディー大統領暗殺のニュースだったことを知り本当に驚く。
今日は「高校生会の24日の行事の準備日」になっていたので、教会へ向かった。
てっちゃん達数人が集まっていて、「ケネディー暗殺」について、驚きの声や残念な声で話している。
ケネディー大統領については、高校生会で時々話題にのぼっていた。
「黒人差別撤廃」「キューバ危機時、第三次世界大戦を回避」「核実験停止、軍縮提唱」「平和部隊の創設」に取り組んだケネディー大統領を知っていた。
私達は、ケネディー大統領を尊敬していたし、好きだった。
暗い気持ちで行事の準備をした。
終わってから、卓球台の置いてある教会学校小学生科の部屋で、卓球をすることにする。
私は卓球が大分上手になっていたので、てっちゃんや靖くん達とラリーやゲームをした。
が、左側に飛んできた玉を、バックハンドで上手く返球できないのが残念だった。
その後、結婚差別や就職差別を受けている人の話を聞き、身近なところで差別があることを知り悲しくなる。
昔のことではなく、今でも隠れたところで差別を受けている人のことを思うと、胸が苦しい。
アメリカでは、大ぴらに黒人差別があり、反対運動も表だって行われている。
どちらの差別も無くなることを願うばかりだった。  

Posted by トンコおばあちゃん at 20:16Comments(0)

2017年09月30日

第104回 昭和38年晩秋 ひとみちゃんの下宿


高校3年の秋、近くに住む親しいひとみちゃんの両親が、仕事の関係で引っ越された。
ひとみちゃんは、引っ越し先から遠くて高校へ通学出来ない。
そこで、知り合いのおばさんの家へ下宿することになった。
おばさんは独り暮らしで働いていて、時々出張があり留守になるそうだ。
「おばさんが留守の時、としちゃん泊まりに来てね。」とひとみちゃんが言う。
「ひとみちゃんと一緒に勉強するから、泊まりに行くね。」と家族に伝えて、翌朝の通学の用意をして泊まりに行く。
ひとみちゃんの両親と下宿先のおばさんを、両親はよく知っているので心配していない様子。
時々映画上映をやっている市立公民館の近くに下宿先がある。
常設の映画館が遠くにあるが、観たい映画をなかなか上映しない。
テスト前にかぎって、話題の観たい映画「雨にうたえば」「なぎさにて」などを公民館で上映していた。
テスト前勉強は早く終え、映画を観に行きとても嬉しかった。
この時の楽しみが忘れられず、先になって、てっちゃん達と「映画同好会」を作った。
「ベンハー」などの観たい映画の上映会を開くことになり、前売り券を売りさばくのが楽しかったが忙しかった事を思い出す。
校則で、「外出時は制服着用」と決まっていたが、目だつので私服で公民館に出掛けた。
制服を着ていない男子学生を見かけたが、互いに見て見ぬふり。
ひとみちゃんも短大を受験するとのことだが、勉強はほどほどにしている様子だった。
お琴や映画などの楽しみや、交換日記などを大切にしているようだ。
泊まりに行った時、交換日記のページをパラパラとめくって見せてくれる。
私は養護施設で弘君と再会して、交換日記をしようと願っていた。
ひろさん達と毎週休まず施設に通っているのだが、残念ながらまだ会えず、交換日記は実現していない。
私はにが手な音楽(声楽とピアノ)、毎週施設に行って子ども達と遊びその後一緒に勉強すること、そして高校生会と割と忙しかった。
保育科の受験科目は少なかったので、高校生活をエンジョイ出来た。
  

Posted by トンコおばあちゃん at 10:07Comments(0)

2017年08月30日

第103回 昭和38年初秋 国民体育大会


高校3年の秋、国民体育大会が私の県で開かれ、山の高校でハンドボールの開会式と競技が行われることになっていた。
2学期になり、国体ハンドボール開会式入場行進時の出場団体名を書いたプラカード持って行進するために、2・3年女子の背の高い順に数十名が呼び集められた。
私もその中の背の低い方の一人だ。
早速、姿勢を正してプラカードを持って行進の練習が始まる。
まだ暑い放課後だが、ベレー帽をかぶってかっこよく行進することはめったのないことだと、みんな納得して数日間練習する。
国体開催のため、毎年ある体育祭は開かれないので、体育祭を好きな男子は残念がっていた。
いよいよハンドボール開会式当日、背筋をのばしいつもより上手に行進だ。
競技が始まると、プラカードを持った県の代表チームを応援する。
勝ち残ったチームのプラカードを持った女子は、応援で忙しかったが嬉しかった。
そんな時、「県立競技場である国体閉会式に行かんかのー?生徒会役員は皆行けんから。」と、生徒会長が話しかけてきた。
そして、閉会式案内状と国鉄の往復乗車を2枚手渡された。
「ありがとう。家庭クラブ役員を誘って行くわ。」と応えると、「役員でのうてもええぞ。」と彼が言う。
きっと、生徒会役員達は、受験勉強や模擬試験で忙しいのだと想像した。
家庭クラブ役員を誘ったが、みんな都合が悪いと断った。
高校入学時から、私は中学3年のクラスメイトのえみちゃんと親しくしようと決めていた。
が、えみちゃんは庭球部(テニス部)で忙しく、なかなか親しく出来なかった。
2年になって、私が女子クラスに移動したので、会うことも少なくなった。
これはチャンスだと、早速えみちゃんを誘うと喜んでくれ、一緒に行くことになる。
庭球部も他のクラブも、3年秋から部活はしないで、進学などの準備期間に入るようだ。
また、えみちゃんは就職先も決まって暇とのことで、私は大喜び。
当日朝、モクモクと煙をはく蒸気機関車D51(デゴイチ)に乗車する。
下車してから陸上競技場まで徒歩で向かった。
閉会式(記憶がうすい)が終わり、小学2年の時、県庁の近くに引っ越した従妹(お姉ちゃん)宅へ。
別れた時、高校生だったお姉ちゃんは、大人のきれいな働くお姉さんになっていて、あたたかく迎えてくれた。
次の日、秋吉台に3人で出掛ける。

石灰岩のカルスト台地は壮大だったが、ロバの観光用乗り合い車に驚く。
小学5年の時の郊外学習で、同級生みんなは秋吉台を訪れていたが、私だけ参加できなかった。
長距離バスで行くので車酔いが心配で、朝になって微熱頭痛が出たようだ。
親しくしたいえみちゃんと、観光したかった秋吉台で、楽しくすごせてよかった。
クラブ活動のことやクラスのことなど、おしゃべりを続けた。
いつも一緒のクラスメイトとの芦ノ湖の高校修学旅行に負けない、たのしい小旅行となる。
あとで知ったのだが、えみちゃんのお姉さんと私の従妹のお姉ちゃんは、中学高校の時親しくしていたことがわかり、不思議な縁を感じて嬉しくなった。  

Posted by トンコおばあちゃん at 17:45Comments(0)

2017年08月22日

残暑お見舞い申し上げます


とても暑い中、皆様いかがお過ごしでしょうか?
暑さと冷房に弱い私ですが、朝晩公園に出掛け工夫して、気分よく暮らしています。
目が疲れやすく、パソコンがスムースに進みませんが頑張ります。
長らくお待たせしましたが、まもなく再開です。
よろしくお願いいたします。
ラムネ屋トンコ  

Posted by トンコおばあちゃん at 09:41Comments(0)

2017年04月14日

桜満開ですね


右目の再検査を受けましたが、1月より悪くなっていないので、様子を見ることになりました。
視力は手術前より回復(老眼鏡不要)しましたが、右目が歪んで見えるので、両目でも少し歪んで見えます。
チャンと見ようとすると疲れるので、ボーと見ることにしています。
再開は7月の予定です。よろしくお願いします。
皆様のご健康をお祈りしています。  ラムネ屋トンコ  

Posted by トンコおばあちゃん at 11:10Comments(0)

2017年02月09日

寒さの中いかがお過ごしでしょうか


2月初めの眼科検査の結果、9月末手術した右目の状態が良くないことが分かりました。
4月に再検査してから、再開したいと思います。
よろしくお願い致します。
ラムネ屋トンコ  

Posted by トンコおばあちゃん at 12:09Comments(0)

2017年01月01日

新年のご挨拶



ご無沙汰してごめんなさい。
皆様、良いお正月をお過ごしのことでしょう。
私は、11月の第102回の後、目の疲れや肩や手の疲れが出たり、目まいがおこるので、パソコンに向かえませんでした。
整体(鍼・マッサージ・ストレッチ)を受け、体調良くなってきました。
昨年は、3回の目の手術を受け、体力が落ちた気がしますが、今年は取り戻したいです。
ぼちぼち、「ラムネ屋トンコ」を再開したいと思います。
頼りない私ですが、お付き合いくださいますよう、どうぞよろしくお願い致します。
ラムネ屋トンコ  

Posted by トンコおばあちゃん at 19:16Comments(0)

2016年11月04日

第102回 昭和38年初秋 生徒会会則変更


高校3年の2学期が始まり、私は、家庭科クラブの全国大会参加の報告をすることになる。
衣食住や、地域社会・高校生活の問題点を取り上げ、調査・研究・改善実施の発表があったことを、報告した。
その時、高校2年の冬の困った問題を、思い出した級友がいた。
古い木造校舎から、鉄筋の新校舎に移動した時のことで、教室の窓もドアも壁も何もかも新しく清潔なので、みんな喜ぶ。
ところが1ヶ月経った頃から、困ることが出てきたのだ。
寒くなり窓を閉めるのだが、密閉された感じで息苦しい。
時々早弁するクラスメイトがいるのだが、臭いが教室内こもり、教師にバレてしまう。
「後ろの人、ご飯粒が口の周り付いているぞ。」と、教師に注意される。
本当は、ご飯粒は付いていないのだが、早弁をしていた人は大慌てだ。
それよりも、もっと大きい問題がでたのだ。
木造の校舎よりも、鉄筋校舎の床からの冷えがひどく、椅子に座布団を敷いた上に、正座をして授業を受けねばならない。
また廊下を歩く時、木造より鉄筋の方が冷え冷えするので、分厚い靴下を履く人が増えた。
上靴をちゃんと履けず、つっかけるだけだ。
「分厚い靴下を履いて、上靴をつっかけている人がいるが、危険だから上靴をちゃんと履いて下さい。」
「生徒会会則を守って、上靴をちゃんと履ける厚さの靴下を履きなさい。」などと、スリッパを履いている教師に、注意された。
「生理中は特に冷えた感じで、生理痛が酷くなった。」と、言うクラスメイトが増えた。
「冬の冷える時は、分厚い靴下を履いてスリッパを履きたい。」という声がでていた。
冷え始めた秋になり、再び「スリッパを履いてもよいことにしてほしい。」という声があがる。
「寒くなる前に、スリッパを履いてもよいことに、生徒会会則を変えて欲しい。」という意見も多くなった。
生徒会会則は、全校生徒の3分2の議決で変更できると、会則に明記してあったのだ。
家庭科クラブの委員会で議題になり、女子クラスで話し合った結果、生徒会(男子クラス・男女クラス・女子クラスの全校生徒が含まれる)に規則変更を申しこむことにした。
男子クラスにも男女クラスにもスリッパを履きたい人がいて、とんとん拍子に進む。
生徒会総会が開かれ、寒くなる前に、スリッパを履いてもよいことに決めることが出来た。
自分たちの意見を出して、会則をより良く変更するために、考えたり話し合ったりすることは楽しい。
教科書を読んで理解する学習より、家庭クラブの研究や生徒会活動のほうが、よほど勉強になる気がした。
  

Posted by トンコおばあちゃん at 22:18Comments(0)

2016年10月29日

11月から再開致します


ご心配をお掛け致しましたが、目の手術を無事終えました。
1ヶ月のんびり過ごし、「ラムネ屋トンコ」を再開出来るようになりました。
今後もどうぞよろしくお願い致します。
ラムネ屋トンコ  

Posted by トンコおばあちゃん at 12:22Comments(0)

2016年09月27日

入院のため、1ヶ月位お休みさせて頂きます


右目の網膜に不要な膜があるので、月末除去手術を受け1週間入院することになりました。
すでに左目の同様の手術を受けたので、慣れています。
が、手術後毎日4回、3種類の目薬の点眼が、少々大変でした。
視力低下がゆっくりになるとのことですが、以前より視力が良くなった気がします。
体力が戻ったところでの手術で、よかったかなと思います。
申し訳ありませんが、よろしくお願いいたします。
ラムネ屋トンコ
  

Posted by トンコおばあちゃん at 22:14Comments(0)

2016年09月22日

第101回 昭和38年晩夏 家庭クラブ全国大会


高校3年の8月下旬、高校家庭クラブ全国大会が錦帯橋のある岩国で開かれた。
家庭科教師の御手洗先生と増野先生と、家庭クラブの会長の私ともう一人の計4人で、参加することになる。
実は、4月に家庭クラブのクラス委員を引き受けたところ、その中から会長などの4役を決めることになった。
私は、「書記なら引き受けるよ。」と言った。
が、会長を引き受ける人がいないので、私が会長を引き受ける。
会長の仕事は、行事の司会役や会議の議長役で、書くことはなく楽ではあった。
例年の通り、秋から冬にかけて研究発表会や展示会と、夏の校舎裏の草ひきや高校野球応援の協力などの、活動計画を立てる。
岩国で開かれる全国大会参加も決めていた。
6月には、私達が2年の時研究した「シミーズ」が出来上がって、カネボウから届き、クラスみんなで大喜び。
高校野球の応援団では、私は目立たないようにしていた。
弟が、同じ高校に入学していたからだ。
1回戦で敗退して残念だったが、私は内心ほっとする。
3年女子は練習日にカレーライスを作ったりして、野球部を応援していたので、くやしがっていた。
家庭クラブ全国大会の会場は、古い旅館風な大きい建物だった。
主なプログラムは、全国の優秀な研究発表だ。
布の種類別に粉石鹸・モノゲン(当時、羊毛の衣類の洗剤として販売されていた)固形石鹸・液体せっけん(当時珍しかった)で洗濯後の状態を調べるものがあった。
木綿・麻・絹・ウール・その頃増えてきた化繊の衣類を、それぞれの洗剤で冷水・ぬるま湯で洗い、汚れの落ち方や縮ぐわいなどを調べている。
他にも、農村主婦・商家主婦・専業主婦のそれぞれの労働時間・家事時間を調べ、問題点・今後の工夫点などの発表もあった。
学校生活を快適に能率的に送るための、調査・研究・実施の報告もあった。
どれも本格的なもので、実際役立つので感心しつつ、私も見習いたいと思いながら聞く。
私の母は、石油コンロを買う時、温度調節付きアイロンを買う時など、「暮らしの手帖」という雑誌を買ってきて、商品検査の結果を参考にしていた。
家庭クラブの研究発表は、その雑誌と同じように、とても素晴らしい内容だと思った。
また、私達の発注した「シミーズ」も紹介され、全国の女子高校生の希望者が着用することになり、嬉しくなる。

  

Posted by トンコおばあちゃん at 10:18Comments(0)

2016年09月20日

まもなく再開いたします


お休みごめんなさい。
団地の最上階の私の住まいは、夏の間室温30~35度以上になるので、冷房を付けっぱなしにしています。
私は暑さと冷房に弱く、温度差にも弱いので、しばしばフラフラでした。
やっと睡眠中エアコン不要になり、元気に目覚めることが出来ます。
どうぞ、今後もよろしくお願い致します。
ラムネ屋トンコ  

Posted by トンコおばあちゃん at 11:57Comments(0)

2016年07月29日

暑中見舞い申し上げます


あまりの暑さに、24時間冷房を入れっぱなしの生活です。
朝夕は、公園に出掛けています。が、少々夏バテです。
しばらくお休みさせて頂き、涼しくなったら再開致します。
よろしくお願いします。
ラムネ屋トンコ   

Posted by トンコおばあちゃん at 12:25Comments(0)

2016年07月10日

第100回(2) 昭和38年8月 原爆ドーム保存運動


高校3年の8月、原爆ドーム保存のための署名用紙と募金箱を持って、駅前にいた。
大きい声で呼びかけていると、驚いたことに通りの向うから、小学生の時広島から越してきた百合さんが、ゆっくり歩いて来た。
中学卒業後初めて会った百合さんは、「としちゃん、ありがとう。少しだけど。」と言って、募金と署名をしてくれる。
「帰りに角のたばこ屋に寄ってね。」と、百合さんは駅前のたばこ屋を、指差した。
「署名と募金をありがとう。必ず寄るね。」と、私は応えた。
次に父が様子を見に来て、署名と募金をしてくれたので、少々驚く。
原爆ドームのことは詳しく話していなかったのに、来てくれたので嬉しい。
暑いのと高校野球のラジオ放送のためか、やはり人通りは少なく、数人の募金と署名だけだった。
帰りにタバコ屋に寄ると、百合さんはホウキを持って、掃除をしている。
手を休めて、奥から手さげ袋を持って来て、その中から手帳を出した。
「これは私の被爆者手帳なの。いじめられたり差別されるから、絶対他人に見せたらダメと、お母さんが言ったの。」
「でも、としちゃんにだけには見せるわ。」と手帳を見せながら、百合さんは話す。
「私は疲れやすいから、高校に行けないし人並みに働けないの。ここのお店のおばさんは親切な人で、私を働かしてくれるのよ。」
「食事を食べさせてくれるし、お小遣いもくれるの。」と百合さん。
私はやはり百合さんは被爆していたんだと思いながら、「それは大変ね。体を大事にしてね。」としか言えない。
そして、疲れやすくても頑張って働いている百合さんのことを、すごいなーと感心するばかりだった。
家に帰ってから、町内の病院の先生・散髪屋・ふすま屋・美木さん達の家にお願いに行くと、快く署名と募金をしてくれた。
私の町内の人が戦争のことを話すのを、あまり聞いたことがない。
「戦争時余りにもひどい状態だったので、話したくないし思い出したくないようだ。」と、以前父が言っていた。
原爆ドーム保存の署名募金活動を通して、町内の人達の平和を願う気持ちと、原爆反対の気持ちが伝わって来て、嬉しくなる。
しかし、被爆して苦しんでいる人が、いじめられたり差別されることを知り、悲しくなりずっとが心から離れないままだった。  

Posted by トンコおばあちゃん at 07:24Comments(0)