› ラムネ屋トンコ › 2014年02月

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2014年02月28日

第31回 昭和31年晩夏 町内子ども会 


5年生の夏休み、日曜の早朝です。
子ども会の皆で、バス通りの掃き掃除をすることに決まっていました。
東側の切戸橋から西側の玉鶴橋まで100メートルもない通りなので、切戸橋から玉鶴橋を見ると、渡っている人が誰だか分ります。
男女に分かれて、通りの半分ずつ掃くことにしました。
しかし、男子達はすぐにほうきでチャンバラごっこや鬼ごっこを始めて、どこかに行ってしまいました。
日曜の朝でも時間が経つと、通りを自動車が走るので掃除するのは危険です。
男子が、はき終えるのを待っていると、遅くなります。
結局、女子みんなが、さっさと全部掃除をして、無事終えてホッとしました。。
土曜の夜は「火の用心。マッチ一本火事の元。」と言いながら、カチカチと拍子木を叩いて、子ども会のみんなが夜回りをします。
男子が「男女分かれてしよう。その方が早く終わる。」と言います。
こんたんがあったのです。
男子が暗い曲がり角に隠れていて、「ワァー。」と驚かします。
女子が「キャー。」と声を出すと、男子は大喜び。
負けてはおれないので、私達女子も、小道の曲がり角で驚かしました。
だんだんエスカレートして、暗い所で男子が待っていて、懐中電灯を顔面にだけ当てて怖い顔で、急に現れて襲って来ました。
低学年の女子が泣き出したので、夜回りは中止です。
6年生がお休みでいないので、私達5年生の女子が、子ども会担当の隣の町内に住んでいる妙子先生の家に、報告に行きました。
男子のいたずらがひどいので、伝えようとしましたが留守でした。
帰り道「五十歩百歩」を思い出しました。
「しまったー。私達も驚かしたから失敗じゃね。」
「次からは、男子が隠れそうな暗い所へは行かんで、暗い所の夜回りは男子に任せようやー。」
「私達女子は暗い所は大まわりして、明るい所だけを夜回りしようやー。急がば回れじゃわ。」と女子みんなが話し合いました。
瞳ちゃんの家にはテレビがあって、お客さんがない時は見せてもらえるので、私達は早く夜回りを終えたいのです。
男子達は物足りなかったようですが、無事、夏休みが終りに近づきました。
最後の土曜の夜、子ども会の世話役のおじさん達が、「お楽しみ会」を開いてくれるそうです。
その日の夜、「いなばの白ウサギ」とゆかいなマンガの幻燈の後、怖いお化けの話にゾクゾクしたり、リーダー探しや伝言ゲームなどに夢中になりました。
お楽しみ袋に、明治ミルクキャラメルや前田のクラッカーが入っていて大喜び。
みんなとても仲良しで楽しい夜になりました。
私達女子は夜回りの時、先生や子ども会世話役のおじさん達に、男子の悪口を告げ口しなかったので、楽しい会になったよう思います。
おわりに「9月には、運動会の町内別リレーの練習をしよう。」と世話役のおじさんが言いました。
おじさんは戦争の時、鉄砲の弾が脚に当たり、まだ脚に弾が残っているけど、走るのが大好きのようです。
リレーの練習を一緒にしてくれるおじさんを、みんな大好きです。
町内のバス通りに平行して、海側に国道が走っています。
その国道は車も少なく、人通りが少ない幅広の歩道があり、そこでリレーのけいこです。
はじめは週一回でしたが、運動会が近づくと、毎日学校から帰って、まず走る練習をします。
夕方になると、おじさんが会社から帰って来るので、バトンタッチのけいこを何回もしました。
運動会当日、町内別に決まった観覧場所のゴザの上に、町内のお年寄りから幼い子達みんなが座ります。
みんなの盛んな応援があり、私達は町内会別リレーで、三等賞をもらいました。
「小学校区内で一番子どもが少ない町内じゃのに、三等賞をもらうとはすごいぞ!」と町内会のみんなが大歓声です。
私達の町内は、バス通りの北70メートルの所に鉄道が東西に走っています。
南の80メートル位先の国道の向こうには塩田と製塩場があり、その先は海岸ですぐ瀬戸内海です。
鉄道から国道までの間に、四十軒位の家があり、何人家族かまでみんなが知っている小さな町内で、小学生は20人位でした。
おじさんが毎日練習を見てくれて、男女仲良しでチームワークがよく、バトンタッチもうまくいったから三等賞になったのだと思います。
学校では5年生の男女は仲良しではないけれど、私達の町内の男女は仲良しでよかったです。
5年生の瞳ちゃんと私は遊んだり走ったりすることは、6年生より大好き。
6年生のかわりにリレーに出て2人とも大活躍して、三等賞になったように思えて大得意でした。
上級生が下級生のかわりに出ることはダメでしたが、下級生が上級生のかわりに出ることは、よいことになっていたのです。
  

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2014年02月26日

第30回 昭和31年盛夏 助け合うことは幸せ 


5年生の夏休みの暑い日、「アツイアツイ!ただいまー。」と買い物に行った母が、汗を拭きながら帰って来ました。
「小児麻痺にかかって、手と足が不自由な男の子を、おんぶしているお母さんに会ったんよ。」
「病院に薬を貰いに行くんじゃって。」
「2人が汗をかいちょっちゃったんで、日傘をさして送って行ったから、遅くなったんよ。」と言います。
「『お兄ちゃんは、暑いから留守番の方が、ええんじゃあないの?』と聞くと、『この子は出かける方が好きなんよ。いろんな所へ連れて行きたいけど、もう乳母車は窮屈で乗れんようになったの。』と、男の子のお母さんが言っちゃったんよ。」
「本当にえらいお母さんよ。あの頑張っている親子に、元気をもろうたわ。」と母。
以前、窮屈そうに乳母車に乗った大きい男の子と、それを押しているお母さんに会ったことがあるので、私はすぐあの2人と分かりました。
母は水を飲んでひと息ついて、そうめんを湯がき始めました。
家の中が、もっと暑くなったように感じます。
風の通る涼しい北側の廊下に飯台を持って行き、干し海老でだしを取った汁かけそうめんを、おいしく食べました。
食べ終わって、「今日はとっても暑いから、おやつはアイスキャンデーにしようかな。」と母が言いました。
「ヤッター!」と弟と私は大喜び。
東隣の町内の肉屋さんが、アイスキャンデーを作って売っています。
私は母の日傘をさして、買いに行きました。
「小児麻痺の男の子とお母さんが、一番はじめにアイスキャンデーを食べるのがいいわ。」と思いました。
帰りに、病院から帰る2人に出会ったら、プレゼントしようと思って、キョロキョロしましたが、会いませんでした。
翌日、1人で田舎のおじいさんの家に、行きました。
おじいさんに、昨日の小児麻痺の男の子とお母さんのこと、日傘をさしてあげた母のことを話しました。
おじいさんは「体の不自由な子どもを、神様から授かった宝として、大切に育てる家族は、幸せになるんじゃ。」
「尊敬し合って助け合って暮らすことが、幸せなんじゃ。」と話しました。
「そんけいって?」と質問すると、「としこのお母さんは、小児麻痺の男の子とお母さんや、としこやみんなを、大切な人と思って尊敬しているんじゃ。」とおじいさん。
尊敬し合って大切にし合い助け合うことは、ステキなことと思いました。
2泊して家に帰ると、目の不自由なおじさんが来ています。
夏はラムネ作りが忙しくて疲れるので、しばしば父はおじさんに体を揉んで貰い、疲れが取れて元気に働くことができます。
終わったので、おじさんを家の人に迎えに来てもらうために、母が電話をしましたが留守のようです。
いつもは、小学生の息子さんか娘さんが迎えに来ます。
「としちゃん、送って行きなさい。車に気を付けてね。」と母。
どうしたらよいか分からないけど、ついて行きました。
おじさんは、白い杖を突きながら、歩くのが上手です。
バス通りに出ると、おじさんは私を道路の端に押して、立ち止まりました。
後からスクーター(オートバイのような二輪車)がやって来て行ってしまうと、また、おじさんは杖を突いて歩き始めます。
私より早くスクーターに気が付き、歩くのが上手なおじさんに、私が連れて行って貰っている気がします。
治療院の看板と魚屋さんの看板のある家に着きました。
内から、おばさんが出て来て「どうもありがとうね。」と言って、小あじの干物を紙に包んでくれました。
私はちっともお世話をしていないし、役にも立っていませんが、遠慮なくあじを貰って帰りました。
以前、近くに住んでいる足の不自由な美木お姉さんが、爆弾穴に落ちた私を助けてくれました。
その後、美木おばさんにもずっとお世話になっています。
美木おじさんは工夫して歩きやすい補助足装具を、お姉さんの足が大きくなるたびに作り替えています。
美木さんの家族は息子さんと娘さん2人の5人家族で、私の家族は親切な美木さん家族にお世話になっています。
私は体の不自由な人がいる家族の人達は、助け合うのが上手だと感じます。
また時々、我家で醤油などが急に切れた時、近くの散髪屋さんやふすま屋さんに借りに行きます。
でも、すぐに返しに行ったことはなく、借りっぱなしです。
たまに、我家にも近所の人が、借りに来ることがあります。
私のまわりには、「助け合う暮らしがある。」と思いました。
しかし、助け合うことで1つだけ、嫌なことがあります。
私は雨傘を学校に忘れて帰り、急に雨が降った時助かるのです。
そんな時、友達のお母さんが、傘を持って迎えに来てくれるのを見て、羨ましく思います。
だから最近は、学校に傘を置き忘れないようにしているのです。
急の雨の時、母に傘を持って迎えに来てほしいと、思っているからです。
ところが、急に雨が降り出した時、近所の友達のお母さんが、ついでにとわざわざ我家に寄って、私の傘を学校に持って来てくれます。
ですから、残念なことに、母が傘を持って迎えに来たことは、一度もありません。
近所の人は、母が長いこと病気だったので、親切心から私の傘を持って来てくれます。
ですが最近、母は元気になったので大丈夫なのです。
いつか、母が傘を持って迎えに来てくれるのを、私は楽しみにしています。

  

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2014年02月24日

第29回 昭和31年夏 笑顔のほうが七難隠す


5年生の夏休みが始まり、いとこのとしえちゃんの家に行くことになりました。
下りの汽車に乗り、すぐ次の櫛ヶ浜駅で岩徳線に乗り換え、高水駅で降りました。
坂道を登って行くと、段々畑が続き、わらぶきの農家が、時々目に入ります。
庭々の大きなひまわりや足元のかわいい松葉ボタンの花が、暑くても元気に咲いています。
夏の日差しをとても強く感じます。
急いで歩くと汗が出るので、たまにある木陰で休みながら歩きました。
日陰が少ないここでは、誰でもが日焼けして色黒になりそうです。
夏休みに、私は近くの切戸川で泳いで日焼けしているので、毛深いのが目立たないかなと腕を見ました。
いつもの様に、毛が夏の風にゆれています。
としえちゃんの家に着くと、おばあさんが笑顔で、梅酒を山の冷たい湧き水で薄めて出してくれました。
「ウワー、おいしい。家のラムネよりおいしい!」とつい言ってしまいました。
ほんとうは同じ位おいしいのですが。
「そりゃーよかったのう。もう一杯持って来ちゃげよう。」と、おばあさんが嬉しそう。
「酔っ払うから、麦茶にしようね。」と今度はおばさんが麦茶を持って来ました。
山の湧き水で冷やした麦茶も、同じようにおいしく感じました。
早速、「おばさん。色が白いとそばかすとほくろが目立つんよ。それに冬は、頬にしもやけができて、おてもやんのように目立つんよ。」と私は話し始めました。
「それから日焼けしてヒリヒリして皮がむけるんよ。」
「それよりも、腕や脚の毛深いのが目立つことがいやなんよ。この前、軽石でこすって取ろうとしたら、赤くなってヒリヒリして痛かったんよー。」と続けました。
おばさんは、「それは大変じゃったね。」とにこにこ顔です。
私も思い出して、おかしくなって笑ってしまいました。
「としちゃんは、笑顔がかわいくていいね。」とおばさんが言います。
「笑う角には福来たるよ。」と付け加えました。
その時、笠戸ドックの社長さんのことを思い出しました。
我家の隣の家のいとこ家族が引越ししてから、隣は空家になりました。
その家を、「笠戸ドックの社長さんが借りてくれたので、家賃が入るのでとても助かるんよ。」と母。
だから、私は、学校へ行く時や日曜日の朝出会った時、社長さんにいつも笑顔で「おはようございます。」と挨拶します。
この前の日曜、バス通りに出たところで、にっこり挨拶すると、社長さんがハイヤーの中から「いつも笑顔でいいですね。どこへ行きますか?」と声をかけてくれました。
「日曜学校へ。」と返事すると、「それは感心ですね。」と言って、途中まで乗せてくれたのです。
また、社長さんの食事などのお世話をするお手伝いさんが「社長さんが、いつも笑顔のとしちゃんを好きらしいよ。『テレビを見たい時、いらっしゃい。』と言っちょってよ。」と伝言です。
「笑う角には福来る。」って、このことかなと思いました。
私は学校の工作で使う和紙を、ふすま屋のおばさんに貰ったり、毛糸の残りを編物の好きな散髪屋のおばさんに、何回も貰らっています。
また、近くの病院の先生や瞳ちゃんの家族や他の皆さんにお世話になっているので、みんなにニコニコ顔で挨拶します。
これからも、続けようと思います。
笑顔のほうが七難隠すように思えるし、いいことがありそうな気がします。
そこへ、としえちゃんが登校日だったので、学校から帰って来ました。
「ヤー、まっ黒!」が2人の挨拶がわりです。
すぐに、家の裏の小川で遊ぶことにしました。
切戸川の河口の海の水と違って、とても冷たく気持ちいいのです。
川魚が泳いでいて一緒に遊べるので、つい長く水の中にいすぎて寒くなり、唇が紫色になってしまいました。
川から上がって、としえちゃんは、弟さんの耳のそうじを優しくしてあげるので感心します。
としえちゃんは長女で弟が2人いてお姉さんなので、同い年の私にとってもお姉さんのようです。 
私は弟とけんかばかりで、お姉さんになるのは難しいと思います。
夕ご飯の時「野菜も漬物も、とってもおいしーい!」と笑顔で言うと、おばあさんが山ほどお皿によそってくれます。
帰る時、畑や山で採れる野菜などのおみやげが、多すぎて重いので大変ですが、おいしいので遠慮なく貰って帰ります。
私は、としえちゃんやみんなのことが大好きです。
そして、来るたびに、家族みんなが寒い時も暑い時も、畑仕事に精を出しているので、すごいなあと感心します。
そして、もう一つ感心することがあります。
繕い物をした後、針に糸が少し残った時、玉結びして雑巾用の手拭に、数目縫い玉止めします。
残りの糸も全部利用しているのです。
雑巾に幾つも玉止めがあって、きれいに見えます。
糸がもったいないからと、おばあさんが昔から続けているそうです。
私も見習おうと思いました。  

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2014年02月22日

第28回 昭和31年初夏 色の白いは七難隠す? 


5年生の6月、ほとんどの子が半袖の服を着ます。
周りの皆と比べて、私だけ腕や脚の毛が多い事に、気がつきました。
私の腕や脚の毛が多いのは、前から分かっていましたが、私のだけ多くて濃いので気になり始めました。
みんなに聞いてみると、「ほんとに多くて黒いね。」「毛深いね。」と、うなずきます。
家に帰って窓から外を見ると、田植えの終わった田んぼに、海からの風が吹き、稲の苗がゆれています。
その風が窓から入って来て、私の腕の毛も同じようにゆれます。
父や母や姉弟の腕や脚を、じっと見ましたが、みんなに毛は見えません。
「としちゃんは、お姉さんと似ちょらんね。」とよく言われます。
「おまえは切戸橋のたもとで泣いていたのを、拾われたんじゃ。」と近所の腕白っ子が言ったのを、思い出しました。
「私だけ、どうして毛深いの?」と母に聞きました。
「としちゃんがお腹の中におった時、栄養不足で小さく弱いんで、温かくなるように毛を増やして、体を守ろうとしたんじゃあないかしら。生まれた時から毛深いんよ。」と母は言います。
ほんとうかな?お腹の中にいた時のことは、私には分りません。
その夜、布団の中でまだ眠っていない姉に「私、毛深いのが嫌で、気になって眠れんの。」と話し掛けました。
「あんたは嫌なことがあると、いつでもすぐ眠くなるくせに?」と、姉が不思議そうな顔です。
エッ、そうかなーと思っていると、「軽石でこすると、毛がすり切れて取れるらしいよ。」と教えてくれました。
「そうかー。明日やってみよう。」と、私は解決策が見つかったので、安心です。
姉はテストが気になって、眠りにくそうですが、私は先に寝入ってしまいました。
明くる日のお風呂の時、さっそく軽石で脚をすり始めましたが、ちっとも毛は取れません。
少し力を入れてこすると、ほんとうに毛が取れてきました。
ヤッター! 左脚の見えるところの毛が、ほとんど取れました。
つぎは右脚です。
手が疲れてきましたが、ここで止める訳にはいきません。
力の加減がうまくいかず、力が入りすぎて右脚が赤くなってきました。
お湯ですり切れた毛を洗い流すとピリピリします。
水を掛けてもヒリヒリ。
大急ぎでお風呂から上がって、薬を塗ることにしました。
赤チンは目立って恥ずかしいのでやめて、メンソレータムをやさしく塗ったのですが、ピリピリしてもっと痛くなりました。
お風呂場に行き、手ぬぐいを水でぬらし叩くようにして、メンソレータムを拭き取ろうとすると、ますますヒリヒリします。
乾いた手ぬぐいで、そっと拭いてもヒリヒリ。
日焼けの時の様に、初めからアロエの汁をぬるとよかったのに、後の祭りです。
腕の毛を取るのは、やめました。
お風呂場に長くいたからか、のぼせて疲れたので寝ることにしました。
「どうしたの?」と姉が、早く床に入った私に聞きました。
「軽石で脚をすったら赤くなったの。 メンソレータムを塗ったら、よけいヒリヒリするの。アーア、もう眠くなったの。」と返事をしました。
「やっぱり嫌なことがあっても、すぐ眠れてええね。」と姉。
私はがまん強くないから、痛いのはすぐ治したいし、いやなことは早く忘れたいのです。
それには眠るのが一番と思うし、眠ることがあってよかったなーと思います。
今夜は疲れて眠くなったのですが、姉にそれを話す前に寝入ってしまいました。
我家に時々訪ねて来る高水のおばさん(母の妹)は、来るたびに「としちゃんは色白でいいね。色の白いは七難かくすよ。」と言います。
おばさんの娘のとしえちゃんは、私と同い年で、私のほうが色白だからと、おばさんが羨ましそうです。
最近「七難」の意味が「欠点」と分りました。
私の場合は、鼻が低くて空を向いていること、出っ歯と目が小さいことと、そばかすなどが欠点らしいのです。
以前から「鼻が空向き。」と言われていましたが、悪口に聞こえなかったし、下向きよりいいと、思っていたのですが、残念です。
冬に、頬にしもやけができて赤くなり「おてもやん」のようになることや、毛深いことも欠点だと分かってきました。
色が白くて七難隠すどころか、赤いほっぺや毛深いのが目立つように思います。
鼻のことや出っ歯も、目が小さいことやおてもやんも、小さい時から鏡にうつるので、見慣れています。
しかし、いつも自分の顔は見えないので、気になりません。
腕と脚の毛深いのは、半袖を着た6月からは毎日目に入るので、とても気になります。
夏休みに、いとこのとしえちゃんの家に行くので、「色白は冬はおてもやんが目立つし、夏は腕や脚の毛が目立って嫌よ。」とおばさんに話そうと思います。


  

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2014年02月20日

第27回 昭和31年春 音楽のけいこ 


4年生の終り頃、私のおんちをなおすために、父母はどうしたらよいか考え始めました。
おばあちゃんが音楽ぎらいで、音楽のない家で育ったから、私がおんちになったのではないかと、父母は思ったようです。
母は、弟の担任で音楽が得意な俊栄先生に、相談しました。
俊栄先生は、親しい満喜子ちゃんのお父さんで、音楽が得意で、新学期から教頭先生です。
5年生になって週1回給食の後、ピアノの置いてある講堂で、俊栄先生から歌のレッスンを受けることになりました。
私のおんちを知っているクラスの皆は、「がんばって。」と送り出してくれました。
ドレミファソラシドの音を私が覚えるよう、俊栄先生は色々工夫してくれます。
しかし、私はピアノのドレミの音を聞いても、同じ高さの音が分からず、出せないのです。
覚えるどころではありません。
私が歌のけいこを始めようとしたのには、訳があります。
2年生の学芸会で、私は「さくらさくら」の踊りに出ました。
父母は「上手じゃったよ。」と、誉めてくれました。
その後、「6年生の『鶴のおんがえし』の劇に出た、つう役のお姉さんはとっても上手じゃったね。」と、母はとても感心したようです。
私もそう思いました。
その時から、私も女の子の役で劇に出て「とっても上手じゃね。」と母に誉められたいと、思うようになりました。
4年生の学芸会の相談が始まる時、「劇の主役に1回なったんで、私はもう主役も台詞のある役もできんらしいよ。」と舌切りすずめの主役をした裕子ちゃんが言いました。
「としちゃんも台詞のある役は、できんと思うよ。」と裕子ちゃん。
私のクラスは「京都弁の劇」に決まり、私は通りすがりの、台詞のないおばさん役に、選ばれました。
ちょうどその頃、「緑はるかに」の映画を観ました。
浅丘ルリ子という女の子がとても上手に演じていて、私は笑ったり涙を流して感動し、感心もしまた。
その浅丘ルリ子という女の子は「子役」と呼ばれていて、歌も上手です。
学芸会で台詞のある女の子役ができないのなら、「子役」になって「とっても上手じゃね。」と母に誉められることが、私のひそかな夢になりました。
子役は、歌を上手に歌わなくてはならないので、歌のけいこをしようと思ったのですが、難しそうです。
しばらくして、俊栄先生がバイオリンを勧めて下さり、母は大賛成です。
バイオリンは値段が高いので、「お金は大丈夫?」と母に聞きました。
「最近、ラムネを1箱ずつ買ってくれる家があるんで、仕事が忙しくなったんよ。お金のことは心配せんでええのよ。」
「それにお父さんは、たばこやお酒を飲まんからと言って、本屋さんで毎月文学全集や美術全集を買うちょるのよ。」と、本屋さんの請求書を、見せてくれました。
「ちっとも読まんで、本箱に飾ってあるだけなんよ。バイオリンやおけいこ代に使う方がよっぽど有意義よ。」とも言いました。
そういえば、父が文学全集を読んでいるのを見たことはないし、美術全集をたまにながめているだけです。
読むといえば、以前時々私達に童話を読んでくれていました。
弟と一緒に、月2回土曜に隣の市のバイオリン教室に、通うことになりました。
バイオリンの音を聴くと、音がよく分かるようになるらしいのですが、音がなかなか出なくて、「キーキーギーギー」ばかりです。
私は4年生の秋まで、土曜日は休まず絵の教室に行っていました。
絵の教室の敏春先生は、夏休みのキャンプの時訪ねて来た笑顔がステキで優しそうな人と、秋に結婚しました。
私はなんだかつまらない気分になり、絵の教室を休みがちだったのです。
だから、バイオリンのけいこが、ちょうどよかったのです。
しばらくして学校の音楽部の先生が誘ってくれたので、音楽部に行ってみました。
合奏の時、先生が「まわりのバイオリンの人の弓の動きに合わせて、ソばかりを弾きなさい。」と言いました。
弓を合わせてソの音を弾くだけでも、難しく疲れるので、長続きしませんでした。
音楽部には、満喜子ちゃんも瞳ちゃんもいて、みんながとても上手なので、感心するばかりです。
次の年、西日本合奏コンクールで最優秀校に選ばれました。
音楽の授業の時、私は「ドレミー。」と歌ってみても、オルガンのドレミの音と違っているようで、がっかりしてばかりです。
そこで、私はすこし遅れるけど、オルガンの音や、みんなの歌声をよく聴いて合わせて歌うと、時々合うような気がしてきました。
「音を楽しむと書いて音楽。」と聞きましたが、私にはよく聞いて合わせることが難しく、まだ楽しめません。
しかし、たて笛は気をつけて吹けば、きれいな音が出るので嬉しくなり、好きになりました。
また、歌うことは音を合わせるのに疲れるけど、歌や音楽を聴くことはとても楽で、好きになりました。
  

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2014年02月18日

第26回 昭和31年初春 5年生は男女別


4年生の3学期に、4月から新5年生だけ、男女別クラスになるといううわさが流れました。
4年生の先生達が、PTAの役員のお父さんやお母さん達に、相談したらしいのです。
男女別にしたら、おてんば過ぎる女子がおとなしくなると、先生達は考えたのでしょうか?
私達はどうなるのかと、興味津津でした。
始業式の日、学校に行ってみると、うわさ通り1組と4組は男子ばかりの組で2組と5組は女子ばかりの組です。
3組だけは男女混合組です。
私達女子組は、4年の時よりおしゃべりでにぎやかな組になった気がします。
先生が、教室や廊下をきれいに掃除することを提案してからは、掃除の時間が一番静かになりました。
お掃除の好きな女子が、教室の教壇や廊下を、ぬか袋でみがき続けます。
だんだん女子組の廊下がピカピカになって、男子組と差がついてきました。
女子組は先生に誉められて、ごきげんになり、ますますみがきます。
気分が悪いのは、男子組です。
掃除が終わる頃、男子達が廊下のゴミを女子組の廊下に掃き入れて、知らん顔をします。
私達女子が掃き返すと、男子は自分の教室の中のゴミまで、女子組の廊下に掃き入れました。
担任の先生が教室にいないので、学年主任の先生の所に訴えに行きました。
事情を話すと、「男子がゴミを掃きいれたので、女子も掃き返したんだね。」
「そういうことを『五十歩百歩』と言うんだ。多い少ないの差はあるけど、どちらも同じことをしているんだ。解決法を自分達で考えなさい。」と、先生が諭すように話します。
私達は、分ったような分らないような感じでしたが、「五十歩百歩ネー」と言いながら教室に帰って、ゴミを掃き取りました。
次の日は校庭で、男子組も女子組も、竹を割って作ったガンザキと言うほうきや竹笹で作った竹ぼうきで、桜の花びらやゴミなどを掃き集めていました。
今度も、男子が集めたゴミを、女子の掃除の場所に掃き入れるのです。
数回そんなことが続きました。
私達女子組は、男子組との境は男子組の掃除が終わってから、掃くことにしました。
小使いさん(用務員のおじさんのことを、その頃はそう呼んでいました)が石油缶で作ってくれたちり取りがいっぱいになりますが、男子ともめないほうが、そうじが早く終わります。
「男子は女子にちょっかいを出したいんよ。」
「ちょっかいやいたずらを、見て見ぬふりをしようやー。」
「負けるが勝ちでいこうやー。」と言いながら、ゴミを焼却炉に持って行きました。
小使いさんが「ご苦労さんじゃったのー。」と言って、ゴミを焼却炉に入れて、燃やしてくれます。
4年生の時あんなに仲良しだったのに、なんだか変です。
6月のある日、「つぎの土曜日、小学5年生の交流会があるので、代表で行って下さい。遠い小学校なので汽車で行きますよ。」と担任の先生が私に伝えました。
「お弁当を持って来てね。男子の代表の聖君も行きますよ。」とも。
私はとても楽しみになり、家に帰って、そのことを母に話ました。
つぎの土曜日、授業が終わって職員室に行くと、「小使い室の隣の家庭科室で、お弁当を食べてね。」と先生が聖君と私に言いました。
家庭科室の長机にお弁当を出すと、小使いさんがお茶を持って来てくれました。
私はお弁当を開いて、少し驚きました。
いつものお弁当と違って、白いご飯のはしにソーセージと私の好きなしょうがの甘酢づけが一列入っているだけです。
だいたい、ご飯の上に塩こんぶか黒ごまがふってあり、おじいさんが持って来てくれた卵で作った、卵焼きも半個分入っています。
そうだ!以前、「聖君が、お弁当をかくして食べるんよ。」と、母に話したことを思い出しました。
母がそのことを覚えていて、聖君のお弁当と似たように作ったのだと、気がつきました。
聖君は新聞紙を開けて、お弁当を隠さないで、食べ始めました。
聖君と同じようなお弁当と思うと、親しくなった気がします。
聖君の方が早く食べ終わり、「今、これ読んでるんじゃ。おもしろいんぞー。」と、字の小さい大人の文庫本を、見せてくれました。
「すごい。難しい本が読めるんじゃね!」と、私は感心して言いました。
表紙の「坂本」の字は見えましたが、下は見えません。
たぶん「龍馬」だったのでしょう。
先生と一緒に汽車に乗ってからも、聖君はずっとその本を、読んでいました。
交流会のある田舎の小学校に、着きました。
初めに、自己紹介と自分の学校のことについての発表です。
次に、壁に貼ってある、その小学校のクラス新聞や学年新聞を、見て回りました。
聖君は、つぎつぎ新聞を読んでいきます。
早く読めるので、またすごいと驚きました。
私達の学校の5年生クラス新聞はうまく作れそうですが、学年新聞は男子組と女子組の仲が良くないので、作るのは難しいと思います。
帰る汽車の中で「市内の違う小学校へ行ったことあるん? 」と聖君に聞くと、「隣の小学校に行ったことあるぞ。」と、応えました。
「まだ行ったことないんよ。」と言うと、「今度、連れていってやるわー。」と聖君。
今日は4年生の時と同じように、聖君と仲良くできて嬉しくなりました。  

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2014年02月16日

第25回  昭和30年冬 盗人にも三分の理 


4年生の11月末の夜中の事です。
「火事だー! 角の家が火事だー!」と大声が聞こえます。
「バンバンバーン」と、ブリキのバケツを棒で叩くような音も、響きわたりました。
誰かが、ダダダダアーと前の路地を走っています。
父が寝巻きのまま出て行きました。
我家の斜め前の角の家は、おじいさんとおばあさんの二人暮らしです。
すぐ近くのなので、私も見に行こうとしましたが、足がガタガタ震えて下駄が履けません。
「火は消したぞー! 火事場泥棒に気をつけろー! 帰って戸締まりをして下さーい!」と隣のおじさんが叫んでいます。
「放火らしい。縁側の下に新聞紙と木の枝の燃えカスがあった。」と、帰って来た父が言いました。
「見かけん男がうろついちょったらしい。年寄りの家じゃから、近所のみんなが消しに行くから、その間に泥棒に入ろうとしたに違いない。悪いことをする奴じゃ!」と怒った声です。
父は、我家の窓や戸のカギを点検して「もう大丈夫じゃ。明日は仕事じゃ。睡眠不足になるから、ひと眠りしよう。」と言って、寝床に入りました。
私はすぐには落ち着かず、なかなか眠れません。
外では足音がして、話し声も聞こえます。
やがて、なにも聞こえなくなり、いつの間にか眠ってしまいました。
翌朝、角の家の垣根から中をのぞくと、おまわりさんが来て調べています。
縁側が少し燃えたらしく、焦げた臭いが漂っています。
火事を知らせるために叩いたバケツと箒も、見えました。
近くの人が集まり、「大事にならんでえかった。」と口々に言っています。
その日の夕方は早くから、父は戸締りを始めました。
「『盗人にも三分の理』と言うて、盗人が盗みをするのにも、それなりの理由があると言う諺がある。」
「『罪を憎んで、人を憎むな』と言う諺もあるが、放火は絶対に許す訳にはいかん!」と父の厳しい声です。
「戸締りをちゃんとしちょけば、泥棒はできん。これで大丈夫じゃが、用心が大事じゃ。」と言って、太目の長い棒を枕もとに置きました。
その日は好きなラジオ番組がないので、父が「トランプをしよう。」と言います。
「七ならべ」の後、「ばばぬき」をしていると、「火の用心。」の声と、拍子木を打つカチカチという音が外から聞こえます。
町内の若いお兄さん達が、夜回りをすることになったのです。
「火の用心の夜回りは、放火も泥棒も防ぐことになるんじゃ。これで安心じゃ。」と、父が言います。
トランプの後、父が2年生の弟に、小刀で鉛筆の削り方を教え始めました。
私には、2年生の終わり頃、ラジオを聞いた後に何回か教えてくれたので、だいぶ上手になりました。
そうこうしていると、みんな眠くなったので、寝床に早くつきました。
しばらく何事も無く、町内は静かでした。
年末が近くなり、我家では毎年お正月に家族写真を撮るので、カメラが話題になりました。
さあ大変! 表の間に掛けてあった、カメラが見当たらないのです。
火事の翌日には確かにありました。
我家は夜の戸締りは、ちゃんとするようになりました。
昼間はラムネを製造する手伝いの人が来るし、ラムネを運ぶために軽自動車が来るので、いつも父か母が必ず家にいます。
ですから、表の玄関も縁側も、製造場の大戸も開けっぱなしです。
寒くなったので戸を締めても、昼間はカギをかけません。
何時からカメラがないのか、分からないので、父はがっかりしています。
以前は隣の中学生のいとこが、お正月の家族写真を写してくれていました。
しかし、いとこ達が引っ越したので、1年前に父がカメラを買って来たのです。
掛けていたカメラが、外から見えて、泥棒に取られたに違いありません。
「念のため、警察に届けよう。」と、父は出かけました。
「盗まれた物は、ほとんど返ってこんらしい。」と帰って来て言います。
そして家中を見回し、「これで金目の物は無(の)おなった。泥棒が入ることはないじゃろう。」と落ち込んだ様子はなく、むしろホッとしているようです。
「泥棒がカメラを質屋に出して、年越しの金にしたんかもしれん。」と、もうあきらめたようでした。
しばらくして「泥棒が捕まり、我家のカメラを盗んだことを白状した。」と警察から連絡がありました
泥棒がカメラを知らない人に安く売ってしまったそうで、もう帰ってこないことが、明らかです。
お正月に、いとこ達がカメラを持って来たので、家族写真を撮って貰いました。
毎年正月に、我家では、父が百人一首のかるた会を開いています。
いとこや近所の数人の子ども達が、集まりました。
中学生の従兄が1番たくさん札を取り、みかん10個のほうびを貰い得意顔です。
年末から、私は「大江山生野の道の遠ければ、まだ文も見ず天の橋立」などを覚えました。
8枚の札を取れて、みかんを3個もらっていい気分です。
その後、いとこと私達姉弟が「一年の計は元旦にあり」の言葉通り、「一年の計」を発表します。
私は「今年は忘れ物をしないようにします。」と言い、父からお年玉を貰いました。
カメラがあった方がいいのですが、値段が高いので当分の間、父は買いそうにありません。
お年玉を貯めても、なかなか買えそうにありません。
従兄が来年のお正月も、カメラを持って来て、家族写真を撮ってくれるので、よかったと思います。  

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2014年02月14日

第24回 昭和30年秋 おじいさんと柿


4年生の10月、田舎のおじいさんが、たくさんの柿と卵を持ってやって来ました。
おじいさんの家には、5本の大きな柿の木があり、毎年家族みんなが楽しみに柿を待っています。
「おじいさんに、お風呂を沸かして頂だい。」と、母が私に頼みました。
まず、五右衛門風呂の釜に水が入っているか、確かめました。
実はついこの前、気を利かせて、焚き始めたのですが、風呂釜に水が入っていなかったのです。
その上、あわてて、熱い釜に水を入れたので、ビーンとひびが入りました。
ですから、ひびにセメントの接ぎが当ててあります。
今日はちゃんと水は入っているので、大丈夫です。
お風呂の焚き口に、新聞紙を丸めて入れ、その上に細い木の枝を置いて、マッチで火をつけました。
竹筒でフーと吹くと、紙が燃え枝に火が移り、薪を入れると燃え始めます。
つぎに、空気が入るようにすき間を作りながら、薪を加えていくとドンドン燃えて、20分位でお風呂が沸きました。
「おじいさん。お風呂にどうぞ。」と声をかけました。
おじいさんがお風呂に入った時、おばあさんのまねをして「おじいさん。湯加減いかがですか?」と聞きました。
「ちょうどいい湯じゃ。ありがとう。」とおじいさん。
おじいさんはお風呂からあがって、「としこが湯加減を聞いてくれた。気が利くええ子になったのう。」と父に話しています。
これからは、お客さんの時、お風呂の湯加減を聞こうと思いました。
夕食後、父が「一手お願いします。」とおじいさんに言って、厚い木の碁盤と碁石を出しました。
2人はずいぶん長い間向かい合って、パチパチと碁石を置いていましたが、父が「参りました。」と言ってやっと終わりました。
私はこの前の夏休みから、おばあさんよりおじいさのほうが好きです。
その夜は、おじいさんの隣に布団を敷いて寝ました。
あくる朝早く、おじいさんは「畑仕事があるからのう。」と言って、帰りました。
今日はおじいさんが届けてくれた、大きい立派な柿が30個もあります。
母が、私達子どもに「4個ずつね。」と分けてくれました。
私の家はいつも、サツマイモやジャガイモやメリケン粉の薄焼きパンなど、母の手作りおやつです。
たまに鶏がらでスープを作った日は、鶏がらもおやつです。
骨に身が付いていて、塩をかけてしゃぶると、とてもおいしいのです。
果物やキャラメルもたまに買いますが、誰からか貰った時は、それがおやつになります。
友だちの家に行くと、カステラなどの珍しいおやつが出ることがあり、感激します。
私は、いつも突然友達を連れてくるので、おやつの用意がないのです。
製造場でラムネ玉が上がらない、少し気の抜けた甘いラムネを出していました。
だけど、今日は違います。
1年に1回の、とっておきの自慢の大きくておいしいおじいさんの柿があります。
今までに、珍しいおやつをもらった友達を、招待できるのです。
瞳ちゃん達に「遊びに来てね。今日はとてもおいしい柿があるんよ。」と誘います。
半分でもお腹一杯になる柿を食べて、おしゃべりして幸せな時を過ごしました。
おやつの後、前の路地で遊んでから、みんな帰って行きました。
「としちゃん、散髪屋さんにおすそ分けと言うて、柿を持って行ってね。」と母が、使い済みだけどきれいな包装紙に、柿を三つ包みます。
私はそれを持って行き、「これはおじいさんが持って来たおいしい柿よ。おすそ分けです。どうぞ。」と言って差し出しました。
「つまらない物ですが。」と言わなかったので、よかったと思いました。
時々、近くの人や遠くの人が、「つまらない物ですがどうぞ。」とお菓子や卵や野菜を持って来てくれます。
母は、「結構な物を、本当にありがとうございます。」と、お礼を言います。
届けてくれた人が帰ってから、「すごくええもんよね、つまらない物って言わん方がええのにね。」と母。
私もそう思うので、「つまらない物。」と、言わないことに決めていたのです。
夜、お布団に入って「おじいさんありがとう。来年も届けてね。」と、心の中で願いました。
夏にバスにお肉を忘れたことを、思い出しましたが、おじいさんが口に出さなかったので、私もそのことを話しませんでした。
冬休みになり、おじいさんのところに行きました。
今度はおみやげのお肉を、ちゃんと届けました。
おばあさんが野菜など用意をして、おじいさんが七輪に鉄鍋を置いて、すき焼きを作ってくれました。
産みたての新しいプリプリの卵をといて、お肉や野菜を付けて食べました。
ほんとうに大ご馳走のおいしいすき焼きで、忘れられない味です。
翌日、いつもは作業服を着ているおじいさんが、着物と袴を着ています。
おじいさんは舞と謡(うたい)が上手で、近くの人に教えているのです。
近所のおじさんとおばさんがやって来ました。
おじいさんが「たかさごやー、この浦舟のー」と謡ながら腰を少し落として、舞い始めます。
おばあさんも鼓を持って「ポンポン」と打ちながら、「イヨ」などと声を出しています。
おじさん達が新年早々、娘さんの結婚祝いの時「高砂」という能を、謡って舞うので、手本を見せているのです。
次におじさん達が日頃のけいこの、仕上げをしました。
しばらく、「ポンポン、ポポポンポン」と鼓のよい音が、庭じゅうに響いていました。
おじさん達のおけいこが終わってから、私はいい気分で、我家に帰りました。
お肉をちゃんと届けたことと、夏にお肉をバスに忘れたことを母に伝えました。
「夏におじいさんが『としこは無事着いたが、お肉は無事着かんかったぞ。としこがごめんなさいと言うたぞ。』と、電話で誉めちょったよ。」と母が話したので、私は照れてしまいました。
そして「おじいさんは謡と舞がとても上手なんよ。敬老会に招かれて、おじいさんより若い還暦祝いの人に、鶴亀の能を披露しているんよ。」と母。
おばあさんも鼓と合いの手で協力しているので、みんなからおしどり夫婦と思われているようです。
しかし、おじいさんとおばあさんは、言い合いのけんかをよくします。
おばあさんは14才でお嫁にきて、2人で苦労したそうです。
おじいさんは75才になりましたが、畑仕事や庭の掃除や手入れを全部します。
また、自分の靴下を編みますし、穴があいた時、ちゃんと編み目に棒をとおして、上手に編み足したり、編み直しています。
60才のおばあさんは私達にセーターなど編んでくれますし、いつも着る和服を解いて、洗濯して縫い直すことに精を出しています。
また、夏は暑いと言って、おじいさんの麻の縮み地の前あきシャツのように、ゆかたを縫い直して着ています。
今で言うリフォームです。
おじいさんもおばあさんも、いろいろ頑張っているので、感心します。

  

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2014年02月12日

第23回 昭和30年夏 初めての一人旅


今までは長い休みの時、田舎のおじいさんの家に、必ず姉と一緒に行っていました。
ところが、姉が中学生になりクラブ活動があるので、4年生になった今年の夏は、私1人で行くことになりました。
母は、私が持っている物や袋を、グルグル回さなくなったので、安心しているようです。
駅まで送り切符を買ってくれて、おつりの10円玉を私のさいふに入れながら「これはバス代よ。」と母が言います。
「2つ目の島田駅で降りるんよ。」
「駅前の肉屋さんで牛肉を100匁(もんめ)買うんよ。」と、100円札もさいふに入れました。
ホームに黒い大きな機関車が列車を引っ張り、ガタゴト入って来て止まりました。
「お肉を忘れんでね。バスの停留所は安田よ。」と母。
「はーい。行ってきまーす。」と汽車の窓から、手を振りました。
間もなくトンネルです。
窓を閉めたのに、隙間から機関車の煙突から出る黒い煙が、中に入ってきます。
なんだか顔や鼻の穴が、黒くなったような気がします。
1つ目の駅を過ぎると、すぐに2つ目の島田駅に着きました。
駅前の肉屋さんで、お肉をちゃんと買いました。
お店のおばさんが、ハランの葉を乾かしたものに包んでひもをかけて、持ちやすいように先を輪にしてくれました。
宿題の『夏のとも』と着がえの入ったバッグの中に、さいふもあります。
「安田に止まりますか。」と確かめて、バスに乗ったので安心です。
バスの窓から外を見ると、田んぼの青々とした稲が、風に吹かれて波のように揺れています。
春休みにおじいさんの家の近所の男の子と遊んだこと、にわとりに餌をやったことなど思い出しました。
そして、おじいさんに叱られたらしいことも、頭に浮かびました。
おじいさんの家で、夕ご飯の時、私がおしゃべりをしている間に、おじいさんがおかずのお皿を取って、隠したのです。
私は気づかずに、ご飯とお汁を食べて「ごちそうさま。」をしました。
あとで姉が教えてくれても、おかずのことを思い出せませんでした。
次の日は、おしゃべりばかりして夕ご飯を食べないので、「としこはお行儀が悪いから、押入れで考えなさい。」とおじいさんが言って、私を押入れに入れて、戸をピシャリと閉めました。
しばらくして、「おじいさんに、『ごめんなさい。』と言いんさい。そうしたら出してくれるから。」と戸の外から、おばあさんの声が聞こえました。
でも、遊びすぎて眠いので、ウトウトとそのまま眠ってしまったようです。
翌朝、目が覚めて「あら、いやだー。 こんなところで眠って、寝ぼけたんかな。」と言いながら、井戸端へ行きました。
冷たい井戸水で顔を洗って、おじいさんとおばあさんに「おはよう。」と、挨拶しました。
お腹が空いていて、朝ご飯を黙ってたくさん食べたので、叱られませんでした。
「きのう、お行儀が悪いんで、押入れに入れられたんを、覚えちょらんの? 」と姉が聞きましたが、私はすっかり忘れて、思い出せません。
お行儀がよい姉は、いつも誉められますが、私は誉められたことはありません。
しかし、卵が毎日食べられるし、楽しいことがたくさんあるので、おじいさんのところは大好きです。
その時、「まもなく、安田です。」と車掌さんの声が聞こえました。
「はーい、おりまーす。」と、私はバッグを持ってバスから降りて、バス停のお店に飛び込みました。
だって、バスの排気ガスが、大嫌いだからです。
ところが、お肉が無いのです。
私はあわてて排気ガスを気にせず、走り出したバスを追いかけました。
「バスまってー。お肉まってー。」と、必死で走っても、追いつくはずがありません。
それでもバスが見えなくなるまで、走りました。
夏の太陽がまぶしく熱く照っていて、汗だくです。
着くのが遅いので、おじいさんが心配して、迎えに来ました。
お店のおばさんが、バスセンターに電話をしてくれました。
終点まで行って帰ってくる時、バスにお肉をそのまま乗せて、届けてくれるそうです。
「届いても暑いので、腐って食べられんじゃろう。」とおじいさんとお店のおばさんが、話しています。
私は悲しくなり涙が出そうでしたが我慢して、おじいさんの家に向かいました。
家に着くと、おばあさんが冷たい井戸水を、汲んでくれました。
水を飲んでから、小さい声でおじいさんとおばあさんに「お肉をバスに忘れたの。ごめんなさい。」と言いました。
「としこがバスから降りるのを忘れんで、無事着いてよかったのう。」とおじいさん。
たまった涙が、目から流れ落ちます。
「今夜は卵を産まんようになった鶏を、食べることにしよう。」と、おじいさんは、縁側の下に作った鶏小屋から、鶏を1羽取り出して、首を締めたようです。
羽を全部とった裸の鶏を、おばあさんに渡しました。
おばあさんは、おじいさんが畑で作った玉ねぎと鶏肉とたっぷりの卵で、オムレツを作って「きょうは大ごちそうじゃ。」とニコニコです。
私は、バスを追って走りお腹がすいたので、黙ってよく噛んでたくさん食べました。
「今日は行儀よく、しっかり噛んで食べたのう。感心じゃ。」とおじいさん。
私は初めて誉められたので、びっくりしましたが嬉しくてたまりません。
つぎの日、私は「きのうの鶏がかわいそう。」とおじいさんに話しかけました。
「もう卵を産まん鶏は、みなすぐに食べられる運命じゃ。」
「感謝して食べるとええんじゃ。粗末にせんで食べることが大切じゃ。」とおじいさんが応えました。
おばあさんが、昨夜の残りの鶏肉を甘辛く煮てから、爪楊枝にさしています。
私は心の中で「ありがとう」と言って、おいしいので何本も食べました。
「しっかり食べたなあ。いいぞ。」とおじいさんが、また誉めてくれました。
近所の男の子と朝も夕方も遊び、もう一泊しました。
そして、幸せな気持ちで無事に我家に帰り、バスにお肉を忘れたことを、まったく思い出しませんでした。

  

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2014年02月10日

第22回  昭和30年夏 絵の教室のキャンプ


4年生の夏休み、楽しみにしていた絵の教室のキャンプの日です。
リュックに絵の道具と着替えとお米2合を入れて、みんなが船着場に集合しました。
連絡船に乗り、水しぶきを受けながら、甲板に座って揺れていると、あっという間に笠戸島の船着場に着きました。
近くの小学校へ歩いていき、私達は荷物を置くと、すぐ校庭で遊ぼうとします。
敏春先生が「集合!」と、よく通る声です。
「笠戸ドックへ行って絵を描くことと、危険についての話」が終わったら、さっそくドックへ出かけました。
とても大きな船が出来上がり、明日の進水式の準備中です。
「すご―い。」とみんな歓声を上げ、少し離れたじゃまにならない所に座って、船を描き始めました。
今日は、ねずみ色の一本線で、船の形やマストなどを、詳しく描くことになっています。
私は大きい画用紙だから船全体が描けるはずなのに、大きく描きすぎて船の後の方が入りませんが、船先やマストやロープなどは、詳しく描けました。
以前、牛を描いた時、顔と前足や体を大きく描きすぎて、しっぽなど描けなかったのですが、「いいぞ、もっと詳しく毛も描こう。」と先生は言いました。
だから、船が大きすぎて船尾が描けなくても、よいことにしました。
下描きを終えて、みんなと一緒に学校に帰り、校庭のタイヤの遊具などで遊び始めました。
これもキャンプの楽しみです。
もうひとつの楽しみは、肝だめしです。
3年生の時は、笠戸島のもうひとつの小学校で、キャンプがありました。
その時「墓場への肝だめし」の前に、敏春先生が墓場で火の玉が飛んでいる話をしたのです。
私達女子はみんな怖くて、途中で帰って来ました。
「今年は怖い話は絶対に聞かないで、肝だめしに行こうね。」と、女子みんなで話し合っていました。
夕飯は近所のおばさん達が作ってくれたカレーライスを、美味しく食べました。
夕食後、「今日一本線で描いた船に、明日は色を付けて仕上げよう。仕上げたら、泳いでもいいぞ。」と敏春先生。
みんな海で泳ぐのが楽しみなので、リュックに水着を忍ばせていたので、「やったー。」と嬉しい声をあげました。
「ところで、船着場のむこうの砂浜に、するめイカが開いて干してあるのを見たかい。並んだイカに月の光があたってきれいだから、今夜はみんなで見に行こう。」と先生が誘いました。
「肝だめしはせんの?」とみんなが口々に聞きます。
「忘れるところだった。みんな肝だめしをしたいんだな。」
「ヨーシ、それでは一人ずつ行こう。砂浜まで行って、石ころを探して拾って来るんだぞ。」と先生。
「さっき僕がするめイカを見た時、『うらめしやー、僕は切られて痛かったー。』と言って、小さい青白い火の玉がボーと出ていたぞ。」
「『そうだそうだ、人間が来たら、うらめしやーと声を掛けよう。』と、イカ達が話していたぞ。」と先生が付加えました。
「さあ、ひとりずつ出発だ!」と先生。
「しまった。アーア。」またしても、先生の策略に引っ掛かってしまいました。
女子は船着場までは行けるのですが、その向こうの砂浜に行けないので、みんな立ち止まって、どうしようかと話し合っています。
結局、女子は肝だめし失敗でした。
先生は留守番をしていましたが、しょんぼりして帰った女子達を見ると、にんまり笑います。
6年生のお兄さん達は「青白い玉は、見えんかった。」と言いながら、青白い顔をして、丸い石をしっかり握って帰って来ました。
私達女子は、きっとお兄さん達は火の玉を見たに違いないと思い、背筋が凍るのを感じます。
「するめイカを見に行かんで、えかったね。」と話しながら、怖いので便所に行く時、6年の洋子さんについて行きました。
その夜は、涼しい浜風を感じ、窓の外の夜空の星を見ながら、ホッとして眠りにつきました。
次の日、ドックには大勢の人が集まって、進水式が始まりお祭りのようです。
夏の空で、万国旗が拍手をしているように羽ばたいています。
万国旗を絵に付け加えた友達もいました。
先生は一人ひとりが絵を描いている所を見てまわり、「しっかり描いたな。」「いい絵だ。」「ごくろうさん。」と声をかけます。
私達はとても楽しい雰囲気のなかで、絵を仕上げました。
その後、みんなは青い大空に入道雲を見ながら、船着場から少し離れた海辺で、賑やかな海水浴です。
みんなと一緒に学校に帰った時、きれいな日傘を差した白っぽいワンピースの女の人が、敏春先生を訪ねて来ました。
笑顔がステキなスマートな人です。
2人で楽しそうに話していますが、私は気になります。
婚約者かな? 私はますます気になって仕方ありません。
「トンコ」とあだ名を付けてくれた時から、私は特に敏春先生に親しみを感じてきました。
しかし、先生には婚約者が出来たらしいので、少し遠い人になった気がします。  

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2014年02月08日

第21回  昭和30年晩春  茂君と友達に


4年生の5月のある日、学校から帰った時、ハンチング帽を深くかぶり黒っぽい背広を着た2人のおじさんが、来ていました。
父の学生時代の経済などと書いてある古い重たい教科書や本や雑誌を、父とおじさんが蔵から運び出して、出入り口に並べました。
次に、おじさんが、1冊ずつ表紙や目次などを調べます。
父は黙って腰に手を当てて、じっと見ています。
全部調べ終えて、「おじゃました。」と言って、おじさんは帰って行きました。
父はその通りという顔で、見送りました。
「こうあんけいさつらしい。何ものおてよかったのう。」と、製造場の手伝いの人たちが、小声で言いホッとした様子です。
警察の人が、父の学生時代の教科書や本などを、調べに来たことに驚きました。
なぜなのか気になったのですが、父がふきげんなので、聞くことができません。
次の日曜日、父は蔵の出入り口の古い重たい本を、縄で束ねて5束作りました。
「玉鶴川のそばの廃品回収をしている茂君の家に、この本を持って行って、買うて貰いなさい。」と、弟と私に言います。
木材で作った一輪の手押し車に、本を乗せて、2人で出かけました。
我家の横の小道を切戸川と反対側に行くと、れんげ畑と菜の花畑があり、すぐ玉鶴川につき当たります。
川にそった道を川下の海の方へ行くと、茂君の家があります。
「ごめんください。」と声をかけると、茂君とお父さんが出て来ました。
「この本を買おて下さい。」と言うと、お父さんが天秤ハカリの先のクサリを縄に掛けて、おもりを目に合わせて重さを計りました。
そして「ありがとうございます。」と言って40円くれたのです。
お礼を言って家に帰ると、父が「お駄賃じゃ。」と言って20円ずつくれたので、2人は大喜び。
「朝鮮の人を悪う言う人がおるけど、茂君のお父さんは正当な取引をするええ人じゃ。」
「もっと本があるから来て下さいと、頼んで来なさい。」
と言ってから、父は蔵に入りました。
茂君の家に頼みに行って帰ってみると、多くの古い本を、父と弟が運び出しています。
おじさんが、ひもとハカリを持ってやって来ました。
父と話しながら、おじさんは慣れた手つきで、本を紐で結わえて重さを計ります。
「ありがとうございます。」と、父にお金を渡しました。
そして「リヤカーを持ってきます。」と言って、おじさんは本を置いたまま、帰って行きました。
間もなくして、茂君が三輪のリヤカーを、押して来ました。
古本の大きい8束を積んで、押してみると重そうです。
「手伝おうか?」と言うと、「大丈夫じゃ。」と茂君は元気な声。
我家の横のまがり角のところだけ手伝いつつ、「お駄賃もらえる?」と聞きました。
「うん。」と返事したので、よかったと思って、見送りました。
父が「日本が占領していた朝鮮は、戦争に巻き込まれて、ひどい目におうた様じゃ。戦後は北半分はソ連、南半分はアメリカに占領されて、分断されたんじゃ。南北の行き来はできんようじゃ。兄弟や親戚の人に会えんそうで気の毒じゃなー。」
「日本は戦争に負けたけど、北と南に分けられんで、本当にえかった。」と、しみじみ言いました。
これを機会に茂君とも親しくなり、我家の前の路地でカン蹴りやかくれんぼや縄とびなどを、楽しみました。
その頃、草花で作るお弁当ごっこが流行っていて、瞳ちゃん達と庭から誘いましたが、茂君は「それだけはいやじゃ。」と、垣根の外から見ているだけでした。

  

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2014年02月06日

第20回  昭和30年春 4年生は男女仲良し


4年生になって、担任の先生が代わりましたが、クラスの子ども達は同じで、3年の時よりみんなが仲良しになりました。
お手玉やおはじきやゴムとびを男女一緒に遊びます。
男子の遊びに、女子も入れて貰いました。
まず、2階から1階への階段の手すり滑りは、スリルもあり楽しいので流行しました。
すると、「今年の4年生女子は、おてんばすぎる。」
「手すり滑りは危ないから、やめましょう。」と先生達の声です。
茂子ちゃんと母里子ちゃん達と「これが滑りおさめよー。」と言って、先生の目を盗んで滑りました。
「怪我をしたら大変。」と、先生にきびしく叱られてしまいました。
校庭では、桜の花は散ったけれど、若葉が輝いている木のそばで、男子が馬乗り遊びを面白そうにしています。
さっそく、私達女子は馬乗り遊びに加わりました。
まず女子が校舎の板壁を背に脚を広げて立ち、男子がその脚の間に頭を入れて馬になります。
馬になった男子のお尻に、つぎの女子が頭を入れて馬になります。
その次は男子というふうにして、10人の長い馬ができました。
もう一方のグループが跳び箱のように、長い馬に乗っていきます。
全員が乗ったら、前に立っている女子と乗っている一番後の子がじゃんけんをして、負けたほうが次ぎに馬になります。
「あー、なんてことを!」「女子が馬乗りをするなんて!」「危ないからやめなさい!」と先生達はあきれ顔。
しかし、私達女子は手すり滑りや馬乗りで怪我をしたことは、一度もありません。
しかたなく、あきらめました。
また時々、男子が、私の家に遊びに来るようになりました。
我家の製造場の裏にあるラムネビン捨て場で、ラムネ玉を拾うためです。
裏のビン捨て場からガラガラという音がすると、「危ないからやめるよう言いなさい。ラムネ玉を分けてあげなさい。」と、いつも決まって、父が私に言います。
10個ずつ男子達に渡すと、いつも決まって「ラムネ玉ゲームをしようやー。」と言います。
まず、それぞれがラムネ玉を、大きい石に落として遠くへ飛ばします。
一番遠くまで飛んだラムネ玉の持ち主が、その玉で他の玉に当てます。
当たるとその玉が貰えて、当たらない時は、次に遠い玉の持ち主が、他の玉を狙います。
手持ちのラムネ玉が無くなったら負けで、玉が多い方が勝ちです。
また、三角形を地面に描いて、その中にラムネ玉10個位入れて、自分の持っている玉で投げ当てます。
ラムネ玉を三角の外に出したら、その玉が貰えるゲームも、みんな好きでした。
私はいつもラムネ玉で遊んでいるので、上手だから必ず勝ちます。
「左手でしようやー。」と、誰かが言います。
やっぱり、私の勝ち。
ゲームを楽しんでいると、ラムネ作りの手伝いのおばちゃんが、炭酸ガスが不足してラムネ玉が上らない、不出来のラムネを持って来てくれます。
売り物にならない少し気の抜けた甘いラムネは、男子に人気がありました。
「ラムネ飲み競争をしようやー。」と、また男子。
やっぱり私が勝ちます。
それでも男子は、ごきげんで帰って行きます。
我家にラムネ玉を取りに来たのが分かると、お母さんに叱られるからか、ラムネ玉を持って帰りません。
我家のラムネ玉は増えこそすれ、減ることはありませんでした。
後で分ったのですが、ラムネ玉のゲームで、男子はわざと私に、負けていたらしいのです。
姉にそのことを話した後、「でも、ラムネ飲み競争は、わざと負けたんじゃあないよ。」と、付け加えました。
「ラムネを早く飲めることは、自慢にならんよ。」と、姉はピシリと言いました。
私はちょっとがっかり。
一方、4年生の先生達は、女子のおてんばがどうすればなおるか、頭を抱えているらしいのです。
先生達は何度も学年会議を開いて、対策を考えているようでした。

  

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2014年02月04日

第19回  昭和30年初春 聖君はすごい!


3年生3学期のある日、下校途中「自由党」と書いてあるポスターを見つけました。
「じゆうどうと書いてあるけど、おまえの家のポスターか?」と、同級生の則夫君がポスターを指差して、私に聞きました。
我家の屋号は「じゆうどう」ですが、ポスターのことは聞いたことがないので、「わからんわ。」と応えました。
「これは選挙のポスターじゃ。もうすぐ選挙があるんじゃ。」と、後から来た聖君が言います。
「としこの家は、じゆうどうに入れるんじゃろうなー。親戚じゃろー。」と則夫君。
自由党のたぬきに似たおじさんを、私は好きになれません。
少し離れた所に「蝶々夫人」と書いてある、きれいな女の人のポスターが貼ってあります。
私は「ふじん」しか読めません。
「私じゃったら、あのきれいな夫人に入れるわ。」と思いながら、大急ぎで家に帰りました。
すぐ、ラムネの製造場の入り口の、大きな看板を見ると、「自由堂」と書いてあり、ポスターの「党」の漢字と違っているようなので、少しホッとしました。
自由堂のことを母に聞きました
「おじいちゃんが、東京の学校の通信教育を受けちょった時、『自由と平等の考え』が好きになって、屋号を『自由堂』と決めたんじゃって。」と話します。
「選挙のポスターの『自由』の次の漢字はなんて読むの?」と聞くと、「あれは『じゆうとう』と読むんよ。」と母。
私はあのおじさんと親戚でないので、胸をなで下ろしました。
選挙が終わって、「自由党」のポスターは外されましたが、きれいな「蝶々夫人」のポスターはそのままです。
学校の帰りに、「このポスターは、どうしてまだ貼ってあるの?」と聖君に聞きました。
「これはちょうちょう夫人の映画のポスターで、もうすぐ映画館で上映するから貼ってあるんじゃ。」
「俺は観たいんじゃけど、入場料が高いから無理じゃ。」と聖君。
聖君はむずかしい漢字が読めるし、物知りなのですごいと感心しました。
もうすぐ4年生になります。
私はなんだか嬉しくなり、教室でにぎやかになりました。
つい授業中におしゃべりしすぎて、通知表に「授業中、おしゃべりが多い」と書かれてしまいました。
「先生が右を見なさいと言えば、言われたとおり、ずっと右を見ちょるよりはええ。」
「しかし、人の話はよう聞くことが大切じゃ。」と、父が通知表を見ながら言います。
4年生になったら、先生の話をよく聞こうと思いました。
次に通知表の裏の健康欄に「良」と書いてあるのを見て、「えかった。」と父は安心の様子です。
3年生の初めの頃、風の強い日、「ラムネ屋ポッキン、風吹きゃ飛ぶぞ。」と聖君や数人の男子が、少しだけ心配して、歌うように言っていました。
私は切戸川の土手から風に飛ばされて、川に落ちないように気を付けました。
風のない時でも、落ちそうになったことがあるからです。
そういえば最近「ポッキン」と言われなくなりました。
母が栄養に気をつけて食事を作ってくれるので、健康状態が良くなったように思います。
それに給食の時、脱脂粉乳のミルク嫌いな級友のミルクを、半分ずつ飲んであげるので、少し太ってきたようです。
母の母乳の出が悪かったので、私は牛乳や粉ミルクを飲んでいたので、ミルクに少し慣れています。
好きではないけど、ミルク嫌いの級友がとても喜ぶので、私は毎日ミルクを2人分以上飲んでいます。
そのおかげで、私は太ってきたし、友達が増えました。
ミルクをたくさん飲むと、どうしても給食のパンが残りますが、心配いりません。
仕事のないお父さんと二人暮しの孝君が、パンを食べてくれます。
給食当番の時、孝君に夕ご飯が時々無いことを知っている聖君や私達が、孝君におかずをアルミの食器にたくさん入れました。
孝君はパンを全部食べることができない時は、ちゃんと持って帰ります。
それを見て私たちは安心します。
戦争の後だったので、1年生の頃は食べ物がまだ不足していましたが、この頃はお店に食品が増えました。
しかし、家で食事を充分摂れない子達がいました。
話は変わりますが、聖君のことで、分からないことがあります。
学校でたまのお弁当の日、包んできた新聞紙を少しだけ開いて、頭をその中に入れて、お弁当を隠して食べます。
2回目の時、何故かなと見ていると、ちょうど開いた時、白いご飯がぎっしり詰めてあり、端っこに魚のソーセージが一本全部、輪切りにして入っていました。
新発売の魚のソーセージはきれいな薄もも色で、フライパンで少し焼くととても美味しいのです。
我家ではいつも1本を、子ども3人で分けていました。
「どうして隠すのかな?」と疑問に思ったのですが、聖君にお弁当のことは聞きにくいので、分からないままです。

  

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2014年02月02日

第18回  昭和30年初め 母は仕立てが上手


3年生の1月の朝、目がさめてみると、なんと寒いことでしょう。
窓際のガラスの花瓶の水が、凍っています。
昨夜、屋外の水道管に藁の縄を巻いていなかったので、水道管の中が凍って水が出ません。
お布団の中に入れていた湯たんぽのお湯がさめていますが、それで顔を洗うと温かく感じます。
きのうの夕食後、母はだしを取るために煮干とお水をなべに入れていたので、それで味噌汁を作りました。
私は、田舎のおばあさんが編んでくれたカーディガンを着ることにしました。
去年小さくなったセーターをほどいて、毛糸を足して大きいカーディガンに編み直してくれたのです。
その上に、母が古着を仕立て直してくれた上着を着て、学校に行きました。
アメリカ人の古着バザーが幼稚園で開かれた時、大人のコートを安く買ってきて、私用に仕立て直してくれたのです。
「日本のウールは戦前の生地より質がよくないんよ。アメリカのウールは軽くて温かいよ。」と言って、母は自慢げに買って来たのでした。
学校へ行く途中、テイラーの成一君のお母さんが、「いい生地の上着を着ちょるね。」と言います。
「お母ちゃんが仕立ててくれたんよ。」と、私は得意顔で言いました。
「ほんと!すごくええね。」と、おばさんは感心したようです。
私は、とても温かい気持ちで、学校に着きました。
学校では、「寒いから4枚着て来たんよ。」と女子が言うと、「僕はシャツとセーターと上着の3枚じゃ。」と薄着を自慢げに言う男子もいます。
「俺は2枚じゃ!」と、1人の男子が言ったので、皆は驚いて「2枚なん?」と聞き返しました。
「俺の家は貧乏じゃから、毛糸のセーターないんじゃ。でも大丈夫じゃ。かわりに新聞紙を入れちょるから。」と上着をめくって、新聞紙を見せてくれました。
触ってみると温かいのです。
「かしこいなー。」「本当じゃ。」とみんなは口々に誉めました。
お父さんが戦地から負傷して引き揚げて来たり、病気で仕事ができなかったり、お父さんが戦死していたりで、家計が苦しい家が多かったのです。
そして、貧乏を堂々と口にする子がいました。
一方、大きい工場に勤めている人の中には、給料の多い人がいて、「最近、ラムネを買ってくれる人が、だいぶ増えたので助かるのー。」と父が言っています。
フリルのついたワンピースや毛皮の付いているコートを着ている人や、たまのお弁当の日に、エビフライが入っている級友の家が、お金持ちと思います。
しかし、そういう人は少ししかいません。
私の家は金持ちではなかったので、ラムネの製造場の裏の畑で、野菜を作っています。
おやつはさつまいもやじゃがいもやメリケン粉の平焼きなどの手作りです。
そして、お風呂と夕飯は明るいうちにすませて、なるべく電気を使わないようにしていました。
夕食後は、茶の間だけ電灯を点けて、父の机や火鉢を囲こみ、家族みんなでラジオを聴きます。
ラジオを聴きながら、父が私達の鉛筆を小刀で削ります。
ラジオが終わってから、削り方を教えてくれます。
私は、だいぶ上手になりましたが、弟はまだ削れません。
母はラジオを聴きながら、繕い物をします。
昨年の夏休みに、母は姉と私にワンピースを作ってくれました。
ラムネ作りの手伝いに来ているおばちゃん達が、「すごいよ。売っているワンピースより素敵じゃわ。」と褒めちぎりました。
母はその人たちの娘さんのために、布地を買いに行き、「お盆が過ぎたから半額市をしていて、安く買えてえかったわ。」と帰って来ました。
黒い足踏みミシンを使って、ワンピースをせっせと作り始め、「夏服は裏地を付けんでええから簡単じゃ。」と言って、二日間で仕上げたのです。
「これで、病気の時にお世話になった人に、お礼ができるから、えかったわ。」といって、プレゼントしたのです。
母が夏にワンピースの布代にたくさん使ったので、私達の冬の服は安い古着を買って、仕立て直していると思いました。
しかし、古着のほうが軽くてよい生地で暖かいので、母の工夫に感心します。
周りの人も、上着の肘が破れたりズボンの膝が破れたら、ツギを当てていますし、靴下も穴が空いたらツギを当てます。
また、少しの土地にでも春菊やねぎなどの野菜を植えて、豊かな食事になるようにしています。
お金持ちでない家の人達は、上手に工夫して暮らしていると思いました。

  

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