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2014年05月29日

第61回 昭和34年冬 真知子ちゃんとクリスマス(1)


中学2年の12月、「日曜学校で、クリスマス会をするの。準備から一緒にしようやー。」と親しい真知子ちゃんが誘ってくれた。
昨年クリスマス会に参加してとても楽しかったのを思い出し、「行きたいわ!」と返事した。
日曜日、教会の礼拝堂の前の方に、緑の葉のついた枝で作った大きいアドベントクランツが目に入る。
立ててある4本のろうそくの内2本に、火が付いていた。
子どもの礼拝が始まり、クリスマスのお話を聞いて、讃美歌を歌う。
同級生のクリスチャンホームの礼子ちゃんと嬉子ちゃんや、幼稚園から一緒の哲ちゃんも来ていて、皆知っている顔だ。
その後、女子大生の優しい美人のミカ先生と私達中学生が一緒に、クリスマス会の準備を始めた。
まず、プログラムを考え、クリスマスの歌、自己紹介、ゲームなど決める。
お菓子やお茶を出すので、来週の日曜に当番が買い出しに行くことになった。
次に、はがきの大きさの案内状を作る。
日時やプログラムを書いて、空いたところに、「ぜひ来てね。」など書き、自分達の名前も書く。
今まで日曜学校に来た事のある中学生や友達に渡すことにした。
遠くの人には切手を貼って出した。
クリスマスの前の日曜日、クランツのろうそく3本に火が灯っている。
子どもの礼拝が終わってから、3年生のきよこさんとさとこさんや、真知子ちゃん達と一緒に買出しに出かけた。
昨年準備したみんなは慣れているらしく、お菓子の卸屋に着くと、大きい袋に入ったビスケットやおかきやあめなどを手際よく買って、小さい袋を貰う。
教会への途中、紅茶も買って帰り、わいわいおしゃべりしながら、小袋にお菓子を分けて入れ、それを大きい缶に保管した。
帰る前に、ミカ先生のオルガンに合わせて、クリスマスやゲームの歌の稽古をして楽しく過ごす。
準備も楽しいが、本番のクリスマスのお祝いの会がますます楽しみになった。
  

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2014年05月25日

第60回 昭和34年秋 母とのおしゃべり(2)


中学2年の秋、次のアイロン掛けの手伝いの時も、父は留守だった。
「としちゃんが生まれた時、仮死状態でもうだめかと思うたけど、生きちょったんよ。戦争が終って、食糧事情がもっと悪くなったの。おっぱいは出んし、牛乳もなかなか手に入らんから、としちゃんは栄養失調で、やせ細っちょったんよ。」
「0才の時、時々米国の偵察機の激しい音がすると、としちゃんは手足をピクピク動かして、安眠できんかったんよ。お腹の中にいた時も生まれた後も、睡眠不足栄養不足じゃったんよ。」
「今は運動してふっくらしてきたけど、体が丈夫な方ではないんよ。身の丈に合った暮らしをするのがええよ。」
「勉強しすぎたり運動しすぎて、体を壊しちゃあダメよ。」と母。
私は、6時間目の授業中、頭が疲れてくる。
授業が終わって、運動や遊びで気分転換しても、帰宅後少しか集中できないから、勉強のしすぎは無いと思う。
しかし、運動や遊ぶ事はすきだから、授業が終って海や山に行き、体が疲れることがあるので要注意だ。
この夏は、バレー部の部活だけでなく、川や海で遊んだので、体重が2キロ減り、ウエストのところでスカートがクルクル回る。
「2キロ夏痩せしても、夕飯の時、ごはんを3杯も食べるからすぐ元に戻るよ。」と母は心配しつつ笑い声だ。
次に、「結婚相手は、長男だと家業を継いだり、親との同居や世話が大変だから、無理と思うよ。」と母が言う。
今から、娘達の結婚の事を心配している。
父は末っ子だが長男に代わり家業を継ぎ、両親と同居で、母は苦労し大変だったようだ
私達姉妹には、長男の嫁になるのはとても無理で、次男と結婚させるのが、母の責任と考えているのだ。
「お父さんは(私の父)、おばあちゃんが年を取って生まれたの。商売が忙しゅうて、小学校に行けん女の子に世話をして貰ろうちょったんよ。」(父の育った大正時代は、小学校に通えない子どもがいたそうだ)
「自分から物事を頼むことなく、我がまま気ままに育ったんよ。無口なほうで、人付き合いがうまく出来んのよ。」と困った顔の母。
父は友達2・3人とだけ付き合い、一番無口らしい。
私の友達が我家に来て、「こんにちわ。」と挨拶しても、父は「オ。」とか「ヤ。」とか一語のことが多い。
おしゃべりが少ない子どものことを、「生まれつき無口。」「おとなしい性格。」と大人達が言うのを聞いた事がある。
父は、生まれつき無口で人付き合いが嫌いな性格で、自分から話さなくてもよい環境で育ったのだと思った。
最近、母は「父との暮らしが、大変。」と言いつつ、回りの人の仕立て物をして小遣いが入り、好きな布地を買えるようになったので、笑顔の時がある。
だから、相手が自分に好きな事をさせてくれる人なら、結婚は良いことと思い、娘に結婚を勧めるのだろう。
私は、父と母の様子や、近所のおばさん達の愚痴を聞いていると、結婚生活はとても大変そうに感じる。
男子に好かれていない私は、結婚相手は見つからないだろうと思うし、家事は下手だから結婚したいと思わなかった。
「としちゃんが1才の頃、私は胸が痛く苦しゅうなったんよ。近くの病院で診てもろうて薬を飲んだんよ。少し痛みが残っちょったけど、周りに気を使こうて完全に治るまで休まんかったんが、いけんかったんよ。」と母が話す。
その後、弟を出産して、また肺が苦しくなり肺浸潤と診断されて、療養する事になったのだ。
「疲れてえろうなったり苦しゅうなったら、まず休む事が大事よ。片付けが残っていても、先に休んでから働くほうがええよ。その方がはかどるんよ。」
「そうしたから、病気が治ったと思うんよ。無理をしたら、かえって皆に苦労をかけることになるんよ。」と自分にも言い聞かせるように話した。
母が、戦争中に子どもの出産や子育てし、病気して大変苦労した事が伺えた。
私も、遊びすぎや運動しすぎで疲れた時、片付けたり手伝いや宿題をしようものなら、失敗をしてしまうので、疲れたときは休むに限るという事に納得した。
また、洋裁学校の時の同級生が、母子家庭になり、洋裁の仕事をして自立している話もした。
母ももっと元気なら、洋裁の仕事をしたいのだろう。
私は、結婚しないで、自分が出来る仕事に就いて自立するのがいいと思うが、それも難しいことと感じる。
「それからね、玉の輿に乗って結婚したい人がおるけど、反対よ。」
「分相応に暮らすのが一番と思うんよ。生まれ育った家と同じ様な暮らし方をしている家の人と結婚すると、不要な苦労が少なくて済むと思うんよ。」と母。
母は、あくまで娘の分相応の家の次男との結婚を、望んでいるようだ。
  

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2014年05月18日

第60回 昭和34年秋 母とのおしゃべり(1)


中学2年の秋の日曜日、庭のけいとうの花を、縁側から眺めていると、母が新しいアイロンの箱を抱え、笑顔で帰って来た。
「このアイロンは、温度が熱くなり過ぎんから、服地が焦げる心配がないんよ。」と、新発売の温度調節付きのアイロンを箱から出した。
「今から、アイロンがけを手伝おて。」と母。
最近、母はおば(母の姉妹)や従姉妹や近所の人達の洋服を仕立てるようになった。
仕立ての途中で、「縫い目に沿おてアイロンを掛けると仕事がはかどるし、仕上げが綺麗になるんよ。」と、母が掛け方を教えてくれる。
初めてのアイロンがけの手伝いなので少し緊張するが、布が焦げる心配が無いので安心だ。
今まで、自分のハンカチとブラウスの衿だけ、古いアイロンで掛けた事がある。
少しだけなのに、アイロン台にアイロンを置きっぱなしにして、アイロン台を焦がしてしまった。
アイロン台に今も、薄いが焦げたアイロンの形が残っている。
「いくら温度調節付きと言っても、アイロン台に置きっぱなしにすると焦げるんよ。」と母に言われてしまった。
「アイロン台に置きっぱなしにしないこと。」と自分に言い聞かせながら、アイロン掛けをする。
次の日曜日も、アイロン掛けの手伝いを頼まれた。
「神戸の洋裁学校を卒業した時、おじいちゃん(母の父)が帰って来いと言うたのよ。」と母が話し始めた。
「島田の田舎に帰ってみると、周りは田んぼと畑と山ばかりで、バス停に缶詰と豆腐やあげを売っている小さなお店が一軒あるだけじゃったんよ。」と続く。
「そうじゃったの。」と私。
母とおしゃべりするのは久しぶりだ。
「しばらくして、町に住むお父さん(私の父)とのお見合いの話があって、ここへ来て見たんよ。駅からこの家に来るまでに、呉服屋時計屋や蒲団屋などの店があって自由な雰囲気じゃったんよ。」
「お見合いでは、仲人さんが話をしただけで、お父さんのことはよく分からんかったの。その後すぐ、仲人さんから強く勧められて、結婚することになったんよ。」
「田舎では、畑仕事の手伝いしかすることが無おて、おりずらかったんよ。20才過ぎたら、嫁に行くのが当然の時代じゃったんよ。」
お父さんの友達の旅館で結婚式を挙げ、家に帰ってから「お袋のする通り言う通りにしてくれ。今までそれで問題が無かったから。」と父が言ったそうだ。
父は三男だが、おじいちゃんのラムネを作る仕事を継いで、仕事のない日や夜は、いつも友達の所に遊びに行っていたらしい。
最近もそうだが。
「お父さんが『女のおしゃべりは嫌い』と言うたのよ。だから私は何も言わんで、周りの様子を見ながら、掃除洗濯をしたり、食事作りの手伝いをしちょったんよ。」
「なにも言わんかったら、なにも文句を言われんで済むと思うちょたの。その内、自由に色んなことが出来るようになると思おちょったんよ。」と、母の話は続いた。
ところが姉が産まれた頃から、戦争が段々激しくなって、食べ物が少なくなって、自由どころかとても困った暮らしになったようだ。
今まで、父が家にいる時、母が父にも私達にもおしゃべりをしない理由が分かった。
  

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2014年05月16日

第59回 昭和34年秋 クラブ活動の応援(2)


中学2年の2学期が始まり、レフトさんのことを、友達のひろこちゃんに話さなくっちゃと思った。
さっそく「レフトさんはレシーブやアタックの時、かっこいいのよ。目があった時ドキドキしたのよ。」と伝える。
ひろこちゃんは、彼の名前だけでなく、家族構成も知っていた。
「お兄さんは、山の高校に行っているのよ。」など話し、住所も教えてくれた。
彼のことを話したり聞いていると、気持ちが落ち着いてきた。
「私は、応援したいだけよ。付き合いたい訳ではないから、このことは誰にも言わないでね。」と念を押した。
紅葉が始まった10月、県の大会にも補欠で行く事になり、万一の出場に備え、私はサーブとレシーブの練習でとても忙しくなった。
1学期の体重より2キロも減ってしまい、体が動きやすくなったが、スタミナが減ったように感じる。
県大会では、試合会場が男女別々で、レフトさん達の応援ができず残念。
女子の試合が始まリ、準々決勝まで勝ち進んだ。
その試合の終り頃、後衛のライトの選手が突き指をしたので、途中退場した。
私が交代する事になり、ドキドキしながら、コートに入って腰を落し両手を構えた。
レフトさんのように、私のところに来たボールは必ず取る意気込みでいた。
ついに、私の2・3歩前に強いサーブが来た。
手から飛び込んで、ボールを受けかろうじて上げる。
センターのキャプテンがトスを上げ、攻撃につながった。
間もなく試合は終了し、次には勝ち進めなかった。
残念と下を向くと、膝を擦りむいて血が出ている。
滑り込んだ時は痛くなかったので、気が付かなかったのだ。
先輩が「よく受けたぞ。」と誉めてくれたので、照れてしまった。
県大会が終ると3年生は高校入試や就職準備で、部活動にほとんど来ないので、レフトさんには会わなくなった。
運動部選手のフアンになって応援する楽しみを、レフトさんに教えて貰った気がしていた。
しばらくして、「今度の土曜、学校のグランドで2年生の選手が、隣の中学の野球部と練習試合をするから応援に来てくれ。」と野球部顧問の担任の馨先生から誘いがあった。
ひろこちゃんやしずちゃんや瞳ちゃん達と、グラウンドに駆け付けた。
小学6年の時同じ組だったかず君や賢ちゃんが出場していて、懐かしく感じる。
しかし、隣の小学からの選手が多く名前も分からない。
ひろこちゃんが、「あの人は修ヤン、あちらは重さんよ。良男くんもいるわ」と教えてくれる。
名前が分かると親しみが湧き楽しく応援できたし、我校の野球部が勝ったので大喜びした。
先生も嬉しそうだったので、勝手に私設応援団のつもりになり、次の対校試合も応援に行こうと決めた。
しばらくして、「次の日曜日、市内の西グランドで対校試合をするから、応援に来てくれ。」と馨先生。
数人の勝手私設応援団はもちろん出かけ、西グランドの3塁ベース近くの柵の外から応援を始めた。
グランドが広すぎて、選手の表情はよく分からないが、顔と名前は分かった。
「フレーフレー、かずくーん。」「いいぞ・いいぞ!しゅうやーん!」「賢ちゃん、ナイス盗塁!」「かっ飛ばせ!重さん。」「良男くーん、かんばれー。」と大声を出した。
選手には遠く離れすぎて届いていないようだ。
賢ちゃんの「イケー・イケー。」と盗塁を促す声が、かすかに聞こえて来る。
この日の試合も勝ったようだった。
選手と直接話したい気持ちは無かったし、選手も私達に声を掛けなかった。
「みんな頑張っていたね。」などとにぎやかにおしゃべりしながら、家に帰った。
応援は大声を出すからか、気分も晴れる気がする。
私はバレーボールの練習をしてもあまり上手にならないし、準備体操のうさぎ跳びも嫌いだ。
3年になって練習量が増えたら、続けられるか心配だ。。
一方、真剣にクラブ活動をしている選手を格好いいと思う。
私は応援する方が好きだと感じ、勝手私設応援団を続けようと思った。


  

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2014年05月14日

第58回 昭和34年5月 2年生の楽しい思い出(2)


2年5月のサイクリングの数日後のホームルームの時間、先生が深刻な顔をして教室に入って来られた。
きのうの校庭の掃除当番の男子達が、サボって掃除をしなかったそうだ。
クラス委員のあきら君が、一人で全部掃除したらしい。
掃除当番の男子が呼ばれて、前に出て横一列に並んだ。
教室全体がシーンとなった。
先生が、昨日の掃除をさぼったことが事実かどうか確かめられると、前に出た男子みんながうなずく。
「1人だけに掃除を押し付けて、サボるとは何と情けないことだ。」と先生。
「だが、僕は1人だけで掃除する行為も好きではない。みんなに声をかけてみんなで掃除をして欲しかった。」
「それがだめなら、みんなと一緒にサボって、一緒に叱られる方が好きだ。」という風なことを話された。
先生は1人ずつ1歩前に出るように言われて、サボった男子とあきら君の頬を順番に平手でバシッバシッと一発づつ叩かれた。
男子の頬が赤くなったが、先生の掌が一番赤いように見える。
「君達も痛かっただろうが、僕も痛かった。今日の事と今の痛さを忘れないようにしよう。」と先生。
先生の目も赤くなっていた。
バシッという音が聞こえた時から、怖くなったらしく手で目をおおう女子がいた。
叩く音が聞こえなくなって、先生の話声が聞こえると、みんなが真剣に聞く。
みんなうなずいていたし、目に涙をためている女子もいた。
さようならの挨拶をした後、女子は数人ずつ集まった。
「始め怖かったけど、先生の話分ったわ。」
「先生の考えはいいと思う。先生のこと好きになったわ。」
「その通りだわ。私もよ。」と大体同じような内容のことを話している。
私は「もっと以前から好きになっていたわ。」と心の中でささやいた。
私は、サイクリングに連れて行ってもらえることや、朗くんのことを悪く言わなかったので好きになっていたが、もうひとついいことがある。
それは、先生が「昼の休憩時間、みんな教室で過ごしているようだが、校庭で体を動かす方が健康的だ。みんな外に出よう。」と言ってくれたことだ。
その後、みんなは外に出るようになり、私はボールで遊んだりして体を動かすと、気分がスカッとした。
それまでより、午後の授業に集中できるようになったのだ。
先生も英語も、以前より好きになった。
1年の時は、担任の言葉が嫌味に聞こえて、英語の授業が楽しくなかったのだ。
これからは、前もって教科書の英文をノートの左頁に写し、右頁に訳を書いていくことにした。
初めての単語などは、辞書で調べて下欄に記入することにした。
宿題が出た時、すでに出来ているので慌てなくてよいし、英語の授業が楽しみになった。
また、先生が教えてくれた英語の歌も、ノートに写した。
数学も、教科書通りに順番に問題と解答を書いていくことにした。
平日は、運動部の練習後帰宅して、疲れて宿題をできないことが多いので、日曜にやればよい。
これで急に教科書の問題の宿題が出ても大丈夫な訳だ。
2年生になって、勉強のやり方が少し分ってきたし、運動も出来て、友達も増えたので、充実してきた気がする。

  

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2014年05月11日

第59回 昭和34年夏 クラブ活動の応援(1)


中学2年の夏休み、校舎の側のホプラの木の葉が、午後の強い陽射しに少し疲れているようだ。
運動場のバレーボールのコートに、ミイーンミイーン・ジイージイーと蝉の声が聞こえ、より暑さを感じる。
バレー部では、対校試合に備えて3年生と2年生の部員が一緒に練習することになった。
3年生部員は9名で、怪我をして試合に出られない時、2年の補欠部員が試合に出るそうだ。
その頃は、前衛と中衛と後衛それぞれ3名づつの9人制だった。
試合に出たい練習熱心な2年部員がいたが、自信がないので出たくない2年生もいた。
サーブはコートに入らないし、強い攻撃のボールを受けられない私は自信がない。
練習前に氷屋で氷を買って来てかち割り氷を作ったり、大きなやかんに氷水を作るのは、2年生の役目だった。
私は練習前の準備をしながらおしゃべりする方が、練習より楽しかった。
卒業した元バレー部の高校生の先輩が来て、サーブの打ち方やレシーブのやり方を教えてくれるようになった。
ずっと以前から、夏休みに先輩が後輩に教えに来ることが、続いているそうだ。
こうやって部活動が受け継がれ、後輩が上手になり強くなることを知り、すごいことだ思う。
隣のコートで、先輩3人が攻撃して、3年男子選手がレシーブの練習を始めるようだ。
「見学して勉強しよう。」と先輩が女子部員に声を掛けたので、コートの傍に座った。
先輩のサーブとアタックのボールはとても強く、襲ってくる感じだ。
男子選手は、必ず受け取ってアタックしようとの気構えだ。
その中で、中衛のレフトの小柄な選手が、滑り込んで膝を擦りむいてボール受けているのに、気が付いた。
また次に、素早く高くジャンプして攻撃する姿に、見入ってしまった。
思わず「ナイスアタック!」と大声を挙げた。「すごい!」とみんなも拍手。
次の日、「今日は男子と女子で練習試合をしよう。」と、またやって来た先輩が提案した。
さっそく、3年の男女選手が練習試合を始め、2年部員は応援だ。
男子選手の攻撃はとても強く、女子選手は真剣にボールを受けている。
私は、また中衛のレフトの選手のレシーブに見とれてしまい、「ナイスレシーブ!」と声が出る。
もちろん、他の選手にも、「ナイスサーブ!」「ナイストス!」と声援を送った。
2年部員みんなも声を出して応援していた。
コートの中で、先輩が失敗した選手に「ドンマイ!ドンマイ!」と声を掛けた時も、「ドンマイ!ドンマイ!」と続いた。
すぐに大きな声を出したり大拍手をして応援してしまう私は、応援するのが楽しくて好きなんだと気づく。
練習試合は予想通り男子が勝った。
女子選手は疲れたらしいが「ありがとうございました。」と笑顔だ。
氷のかち割りや氷水を「お疲れさま。」と言いながら、選手みんなに配って、2年生部員も楽しそう。
8月になり、他の中学と対校試合の日程が決まったようだ。
「としこは応援がうまいし、チームの気が沈んだ時、気分転換して盛り上げるのが上手じゃから、補欠に入れて対校試合に連れて行こう。」と、先輩が女子キャプテンに話しているのが聞こえる。
サーブやレシーブに自信がない私は驚いた。
だが、レフトさん(名前を聞くのが恥ずかしいので、心の中でレフトさんと呼ぶことにしていた)の応援をしたいので、対校試合に行きたくなった。
補欠で出場するかもしれないので、サーブなど真剣に練習するので疲れるが、対校試合が楽しみだ。
対抗試合当日、特に上手な2年女子2人と私の3人が補欠に選ばれ、3年の選手と一緒に汽車に乗って出発した。
席に座って斜め向こうのレフトさんの方を見ていると、目が合った。
頬が熱くなって、胸がドキドキする。
汽車から降りて、対校試合のある中学校に着き、初め男子次に女子の対校試合が始まった。
今まで以上に、レフトさんやみんなに大声援を送り、胸がドキドキする。
相手チームの好アタックにも「ナイスアタック!」と声を出しそうになる。
冷静になるよう自分に言い聞かせながら、応援を続けた。
炎天下、拍手する手も喉も頬も胸も体も熱くなり、熱射病になったようでとても疲れた気がする。
男女とも対校試合に勝って、みんなも熱気に包まれたまま汽車に乗り、にぎやかに帰路に着いた。
これからとても暑い中、胸が熱いまま部活を続けたら、どうなるかしらと一瞬心配になる。
しかし、クラブ活動は盆休みになり、熱射病の心配はなくなった。
  

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2014年05月08日

第58回 昭和34年5月 2年生の楽しい思い出(1)


中学2年の4月下旬、「5月の始めの休みに、みんなでサイクリングに行こう。」と担任の馨先生が誘ってくれた。
みんなウキウキした表情で聞く。
それまで、そろばん教室の先生が、大好きなサイクリングに連れて行ってくれるので、私は教室に通っていた。
サイクリングの日は休んだことはないが、教室は休みがちだった。
そろばん教室を止めることにして、馨先生とのサイクリングを楽しみにした。
サイクリングの日の朝、クラスの全員ではなかったが、男子も女子も自転車に乗って校庭に集合する。
馨先生の親しい先生3人と、そのクラスの数人も一緒だ。
風薫る5月晴れのもと、国道に向かって一列になって出発した。
国道に入りずいぶん走ってから海岸通りだ。
磯の匂いのする風を感じながらぺタルを踏んで進む。
「青い山脈」という映画のサイクリングのポスターを思い出し、こんな風だったのかと、爽やかで嬉しい気分だ。
やがて、灯台のある松林の海岸に着いた。
おにぎりだけの弁当だったが、お腹がすいていたのでとても美味しい。
食べ終えた男子達が、白い灯台のむこうのやさしく輝いているさざなみの海に、小石を投げて飛ばし始めた。
「1段跳び!」「2段跳び!」と自慢しあっている。
クラスの中には、ふざけ合ったり、いたずらしたりとやんちゃな男子が多い。
勉強に取り組んでいるお兄さんタイプの男子も何人かいる。
むこうの方で、強そうな男子が言い合いを始めたが、すぐに終わったようだ。
それを見ていた1人の女子が「朗くんは怖い感じがするわー。」と言う。
「そうよー。私も怖いわ。」と他の女子が言った。
私は、従兄弟の激しい兄弟げんかを見ていたので、少々けんかをしても、クラスの男子を怖いと思ったことはなかった。
「そうかなー? 朗は本当は優しいんだがなー。」と先生が言われた。
「同感。」と私はうなずく。
朗くんは、小学低学年の時は女子にいたずらをしていたが、高学年になったらいたずらしなくなった。
家ではお母さんの手伝いやお使いをしている姿を、朗くんの近くのしずちゃんの家に行った時見たことがある。
先生はクラスの生徒をよく見て分っておられる気がするし、受け持つ生徒を悪く言われないので、嬉しくなった。
そこで、先生がハーモニカを吹き始められたので、みんな集まってきて一緒に歌い始めた。
おんちの私は、上手に歌えないが愉快で楽しい。
何曲か歌った後、みんなでペダルを軽ろやかに踏んで帰路に着いた。
  

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2014年05月05日

第57回 昭和34年晩春 しずちゃんと友達に(2) 


我家では、友達が来て挨拶しても、父は「やあ。」とだけ、母は「いらっしゃ。」と応えるだけだ。
食事中は「おしゃべりしないでよく噛んで食べなさい。」と言われてきたし、他の時も会話が少ない。
小学の時から、父から私に話しかけることは殆どなく、私が話しかけたり質問した時、応えるだけだった。
父と話す機会が少ないので、話した事はみな覚えている気がする。
姉は無口なほうで、父は姉にだけは自分から、たまに何か話しかけている。
弟は母に時々何か文句を言っている。
父と母の会話はほとんど無く、用事がある時一声かけたら終わりだ。
父は、家族の健康と仕事の事だけを気にしているらしい。
中学生になっても、以前から続けている週1回のトランプの日の水曜日の夜だけは、父は在宅だ。
いつもは、友達の家にテレビを見に行っているらしいが、水曜は好きな番組がないようだ。
トランプをしながら会話が弾む訳ではなく、父姉弟と私も、それぞれゲームに勝とうとかなり真剣に取り組んでいる。
母は、家族を見て、なんとなく分っているようだ。
姉弟私は自分のことが精一杯で、家族のことを気にするゆとりはなく、きょうだい同士で話すことも少ない気がする。
家族みんなが何を思いどのように考え感じているかは、あまり知らずに暮らしているが、さほど困っていない。
私は家族に話したい事は、あまりないので平気だ。
2年の今、以前から親しい瞳ちゃんと真知子ちゃんや礼子ちゃん、中学になって友達になったひろこちゃんと、また最近はしずちゃんと、話しているからだ。
次にしずちゃんの家を訪ねた時、子ども連れのお客さんがあり、みんなで会話して冗談も飛び交うのでつい笑ってしまう。
今まで聞いたことのない親子関係や近所付き合いの内容で、とてもおもしろい。
会話の少ない我家と随分違うと感じた。
しかし、「勉強しなさい。」と言われないところと、「無理をして体を壊さないようにしよう。」ということが同じだ。
また、トランプなどのゲームを好きなところも似ている。
しずちゃんのお母さんやお兄さん達とも、気楽に話せそうで嬉しくなった。
今まで、大人で親しく話せたのは学校の先生だけだったし、両親から教えられることも少ないので、私は知らないことが多いと気づく。
これからはしずちゃんの家で、大人から話を聞けそうで楽しみだ。

  

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2014年05月03日

第57回 昭和34年晩春 しずちゃんと友達に(1)


中学2年の担任は、歌の好きな英語担当の馨先生だ。
最初のホームルームの時間、「クラスのことはみんなで話し合って決めてやっていこう。」と先生の提案があった。
話し合いになると、議長と書記が必要だ。
ひそひそ声が聞こえた後、私の名前が出て、すぐに賛成の声があがって決まってしまった。
私の性格を知っている男子が、予想外の意見を言うと話し合いが長引いて困るから、早く私を議長か書記に決めようとしたのだ。
議長や書記には、発言権がないらしいのだ。
1年の話し合いの時に、何度か議長や書記になって慣れていたが、しばしば勘違いや聞き間違えをするので、私は適していないと思う。
しかし、その度にみんなが笑いながら訂正してくれるので、私はどうにかその役をしてきた。
1年のホームルームや道徳の時間は、担任が一方的に指導するやり方だった。
「僕の立場を考えて、もっと良い成績を取ってくれ。」
「立身出世のために勉強しなさい。」
「良い行いをして、人に褒められるように。」などとしばしば話す。
「2月11日は紀元節だ。建国2600年祭の時は盛大にお祝いをしたんだぞ。」とか「乃木大将」の話などをする担任に、古い感じがして馴染めなかった。
若々しい新しい感じの馨先生が担任でよかったと、なんだか安心だ。
みんなで話し合い色々なことを決めてクラスが楽しくなるのなら、議長や書記を引き受けてもいいという気分になる。
議長や書記役は、まず人の意見をよく聞く事が大事だ。
次に、その意見を短くまとめて記録して発表し、皆に再度確かめる必要がある。
この事が、私には訓練になり、自分自身の助けになることをその時はまだ分かっていなかった。
ホームルームや道徳の時間の話し合いが早く終わると、先生は「みんなで歌をうたおう」と、黒板に歌詞を書いて教えてくれた。
フォスターの「オールドブラックジョー」や、「ともしび」や「コロラドの月」の歌だ。
みんなで歌っていると、だいぶ前にテレビで見た「うたごえ喫茶」のような気がして楽しい。
明るいクラスになったからと思うが、女子同士はみんな親しくなったが、穏やかで大人しい女子が多く、男子に話しかけることはあまりなかった。
同じ組のしずちゃんが、切戸川河口の切戸橋を渡ったところに引っ越して来た。
さっそく約束して日曜日の午後に遊びに行った。
しずちゃんのお母さんはお兄さんの仕事を手伝っていて、帰るのが遅くなるので、彼女が夕食を作り始めていた。
お父さんはしずちゃんが幼い時亡くなったそうで、学生のお兄さんも2人いる。
「夕食を作るの!すごい!手伝いたいな。」と感心して言うと、「ねぎとお豆腐を切って。」としずちゃん。
我家では、あまり料理の手伝いをしたことがないので嬉しくなり、上手ではないが細かく切った。
彼女は、七輪に火をおこして魚を焼き、ほうれん草のおひたしと味噌汁をてきぱきと調理する。
窓から夕凪の海と大島山が見え、いつの間にか夕日が空を紅く染めていた。
お母さん達が帰って来るまで待つことにした。
中学に通い始めた頃から、父はいつも早く夕食を済ませ、すぐ出掛けて留守なので、少し遅く帰っても叱られないからだ。
しずちゃんのお兄さんとお母さんが帰ってくると、私に話しかけたり、家族みんなで話が弾むので、驚きつつ楽しく聞き入った。
その後、足取り軽く小走りで家に帰った。
  

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2014年05月01日

第56回 昭和34年春 ひろこちゃんと親しくなる(2)


中学1年の3学期の終業式の日、「どうしたらテストの点がよくなって、成績が上がるんかなー? 私ね、小学の時より成績が下がったの。」と仲良しの真知子ちゃんから相談された気がした。
真知子ちゃんや同じ小学校の友達と成績の話をするのは初めてだ。
親しくなったひろこちゃんに聞いてみようと思いつき、「友達に聞いてみるわ。」と応えたことを思い出した。
桜の木の下で、「テストの点がどうしたらよくなるか?って、友達から相談されたんよ。どう思う?」とひろこちゃんに聞いてみた。
即座に「それはテストに出そうな問題を勉強して覚えるんよ。」と返ってきた。
「なるほどね。」と私はすぐの返事に、少し驚いた。
「成績のよい友達と、テストに出そうなことを紙に書いて教え合っちょるんよ。今度見せちゃげるわ。」とひろこちゃん。
「すごいね。よろしくね。」と、私は納得してほんとうに感心した。
「2年になって、同じ組になれるとええね。元気でね。」と言って別れた。
始業式の日、ひろこちゃんと同じ組になり大喜び。
ひろこちゃんの家に行くことが増え、新しいことや風景に出会って楽しくなった。
1学期の中間テストの前に、約束どおりテストに出そうな問題を書いたレポート用紙を、見せてくれた。
その上、色々な記憶カードまで教えてくれた。
みんなが大事なことを覚えるために工夫していることを知り、またまた感心する。
テストに出そうなことをレポート用紙に写して、真知子ちゃんに渡した。
「これを写して勉強して覚えるわ。」と、真知子ちゃんは真面目な顔。
色々な記憶カードは知っていたようだ。
次の日、レポート用紙を返してくれた。
私は、バレーボール部のクラブ活動を続けていて、2年生なるとボール拾いが減って、レシーブやパスの練習が多くなり、きつくなったと感じていた。
帰宅して、夕食と入浴を終えて宿題をするだけで精一杯だった。
テスト前はクラブ活動がお休みだから、テストのための勉強をすればいいのだが、私は体を動かすことが好きだし、そうしないと落ち着かない。
ひろこちゃんや他の友達に誘われたら、サイクリング気分で自転車に乗り、喜んで遊びに出かけた。
いつも遠くへ行きすぎたり、体を動かしすぎて疲れてしまい、家に帰ってから勉強はほとんど出来ない。
テストのためのレポート用紙は、机の上に置いたままだった。

  

Posted by トンコおばあちゃん at 09:41Comments(0)