› ラムネ屋トンコ › 2018年04月

PR広告

  

Posted by at

2018年04月28日

第110回 ご挨拶 と 第35回

ごあいさつ
長い間ご愛読ありがとうございました。目標の高校卒業にやっと辿りつきました。
途中何度かお休みしましたが、皆様が応援下さいましたので、続けることができました。
先日、第35回が抜けていたことに気付き、子どもの頃と同じく今だにパーヘクトは無理だと再自覚し、苦笑しています。
今回、載せますので、よかったらお読みください。 ラムネ屋トンコ

第35回 昭和31年冬 おじいちゃんの思い出
母が病気になった時(私が3才の時)から、私は父方のおじいちゃんと同居していたのですが、その頃のことはほとんど覚えていません。
5年生の冬、そのおじいちゃんの七回忌があった時、幼稚園の年中組に通い始めた頃のことを思い出しました。
おじいちゃんは中風という病気を患っていて、片方の手足が少し不自由でした。
ほとんどの時間、布団の上に座っているおじいちゃんに、私は幼稚園でのことをいつも話しました。
「毎朝、背の低い園長先生が、背伸びしてブランコの板に付いているクサリを、セットしてくれてんよ。」
「ブランコをこいじょると、空で白いお月さまが一緒に動いちょったよ。」
「今日はお月さま、いなかったんよ。どこに行ったんかな?」
「なくなったと思っちょった、カバンが出てきたんよ。」など話すと、おじいちゃんはニコニコ顔で聞いていました。
その頃、私はおじいちゃんのそばで、絵を描いて遊ぶことが多かったのです。
おじいちゃんも嬉しそうだし、みんなも私が外に出ると、池や溝に落ちるので心配だけど、家にいると一番安心していることが分かったからです。
夜になると、いつもおじいちゃんのお客さんが来て、なんだか難しい話をしていました。
お客さん達はおじさんで政治の話をしていたようですが、おじいちゃんはほとんど聞き役でした。
おばあちゃんが用意した徳利に入れたお酒とおちょこを持っていくと、おじいちゃんがとても喜んで、私を膝に抱っこしてくれます。
だから、お客さんが来ると、いつもお酒を運ぶ手伝いをするので、こぼさない様気を付けました。
その頃、父はいつも夜になると出かけていました。
お酒も政治の話も苦手と言っていた父は、友達の所に好きなラジオ番組を聞きに行っていたのです。
年中組の冬、おじいちゃんはだんだん座れなくなり、とうとう寝たきりになって亡くなってしまいました。
葬式にたくさんの人が来ました。
おじいちゃんの思い出はこのくらいしかありません。
「おじいちゃんが子どもの時、家業の商売がうまくいかんようになって、おじいちゃんは明治時代の小学校3年までしか通えんかったんじゃって。」
「その後、お店の丁稚奉公や道路工事などのえらい(辛い)仕事をして、両親を養っちゃったんよ。大人になって、おじいちゃんはラムネを作る仕事や他の商売を始めて、薄利多売の考えじゃったんよ。」と母が話してくれました。
また、「おじいちゃんは、小学校を卒業できんじゃったから、東京の学校の通信教育で勉強しちゃったんよ。その時学んだ『自由と平等』の考えを好きになって、屋号を「自由堂」に決めたんじゃって。その考えを取り入れて、商売や生活をしようとしちゃったんよ。」と母。
昭和10年頃、おじいちゃんが働けなくなり、父が「自由堂」の清涼飲料(ラムネとサイダー)製造業を引継ぎました。
父はおじいちゃんのことをほとんど話しませんし、他のこともあまり話しません。
しかし、おじいちゃんが書いた字やお墓のことだけは、自慢します。
おじいちゃんは山からかっこいい大きな石を、リヤカーで運んできたそうです。
「惧会一処」(くえいっしょ、と読み、ここでみんな一緒に会いましょう、という意味)と自分で書いた字を、専門の人に彫って貰いました。
私の家は隣の町内の浄土宗のお寺の檀家で、そこにあるお墓はみな四角です。
おじいちゃんのお墓だけは、他のお墓とちがって、自然の大きい石です。
そして、家には木を切った平板に、「一期一会」(いちごいちえ、と読み、人とは一度の出会いかも知れないと思って、誠意を尽くして接しましょう、という意味)と、おじいちゃんが書いて、鴨居(ふすまの上の横に長い木)にかけています。
おじいちゃんも父も自然が好きで、他と違うという事も好きで自慢のようです。
おじいちゃんとは短い間ですが、親しくできてよかったと思います。
みんなの話を聞いていると、家の中の細々した事はおばあちゃんの言ったようになり、子ども達が外で学校へ行ったりスポーツや音楽などの活動をする時は、おじいちゃんの言う通りにしていたことが分ります。
「自由と平等の考え」は、家族の中には生かされていなかったよう感じましたが、孫の私は自由にのびのび育った気がします。。

  

Posted by トンコおばあちゃん at 10:38Comments(0)

2018年04月03日

第109回 昭和39年春 高校卒業


高校3年の3学期になってすぐ、2年生女子のクラス委員達が、「女子の制服のブラウスが、市販のカッターシャツでもよいことになったらいいな。」と、伝えにきた。
白のブロード地のブラウスは、アイロンを掛ける必要がある。
その頃、ノーアイロンのカッタ―シャツが売り出され、それを着る男子がていて、親も楽だった。
女子は、本人がアイロンを掛けることが多く、大変に感じがちだ。
2月末、各クラス委員がみんなに聞くと、賛成意見が多い。
生徒会規則変更は秋に経験したので、3年生クラス委員は慣れていて協力したので、トントン拍子で進む。
1・2年の女子がとても喜んだ姿を見て、ホッとした。
2月末、卒業式の予行演習が行われることになった。
その前に、担任が「ひろさんの担任が、ひろさんをライオンズクラブ奉仕活動生徒の表彰に推薦したんだ。僕も君を推薦したい。」
と言う。
ひろさんと一緒に、JRCで養護施設の子ども達のための活動・校内で清掃活動や、購買部活動をやっていたかららしい。
「表彰されるためにではなく、自分が好きで楽しいから活動したのだから。」と固辞した。
「ひろさんは受けるのだよ。僕のクラスからも表彰者を出したい。僕のために受けてくれ。」とのことだ。
後日又担任が「ロータリークラブの同じ趣旨の表彰も受けてくれ。」と言う。
ひろさんに相談し、世話になった担任の頼みだからと受ける事にした。
ひろさんが卒業式の日に、校長から表彰状を受け取ってくれることになったので、やれやれとホッとした。
予行演習の日、家庭科の御手洗先生が、「家庭クラブの会長をしてくれたから、卒業式の日表彰状授与があるから、受け取ってね。」と。
昨年の卒業式の時、家庭クラブ会長が表彰されたことを思い出し、しかたなく「はい。」と返事する。
3月初めの卒業式当日は、就職先や進学先など進路が決まっている者だけの出席だ。
国公立大学などの受験者は欠席で、空席が多い。
父兄(保護者のことをそう言っていた)の参加も多くなかったが、私の母は参加していて、私が表彰されたことに驚いていた。
私が、前もって知らせていなかったが、「悪い事ではないから。」と苦情は言われなくてよかった、
私にとっては、印象の少ない卒業式だった。
それより、ぬのちゃんに「お別れ会に来てね。」と誘われたので行って見ると、かんちゃんとシンちゃんが来ていて、楽しく過ごしたことを思い出す。
そこで私もと、親しくしてくれた又会いたい友と、お別れ会をすることに。
ひとみちゃん・二人のれいこちゃん・嬉子ちゃん・ひろさん・ひろこちゃんと楽しく過ごし、再会を楽しみにした。
和子ちゃんにはライオンズクラブの昼食会で会えたし、えみちゃんとは秋に小旅行が出来、いい友と親しくできた私は幸せだった。
後日談だが、新2年生になった弟が、新しい生徒手帳をもらったので見せてくれた。
「外出時制服着用(みんな守っていなかったが)などの項目を、先生たちが勝手に削除したらしい。
「規則変更」などの経験は、「公民」「自治」などの体験学習になるのに、勉強の機会を奪う残念な高校だと思った。
  続きを読む

Posted by トンコおばあちゃん at 15:46Comments(0)