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2016年06月18日

第100回(1) 昭和38年8月 広島原爆ドーム保存運動


高校3年になった時、「原爆の投下された8月6日に広島に行こう。」と、高校生会の哲ちゃんや良夫君達と約束していた。
前日の原水爆禁止世界大会は、日本共産党系と社会党・総評系のグループの見解の相違で、大会開催が危ぶまれていることをニュースで知った。
「どうなっているか、行って見よう」と、話し合って出かける。
広島平和公園は人々でごったがえしていて、なにやらマイクで演説しているようだが、ざわついて聞こえない。
「社会党・総評系の人達が、今日集会を開いたらしい。」と誰かが言っていた。
「原水爆禁止協議会が分裂するんじゃないかのー。」と、哲ちゃんが言う。
原爆ドームは思ったより大きく存在感があり、人の少ない所で鳩がよちよち歩いている。
その後、私達は原爆資料館を見学することにした。
今までに見たこともない悲惨な被ばくした人々の写真や、焼け残った衣服・カバン・生活用品を見て、愕然とすろ。
被爆者の方達の痛々しさを感じ、今も苦しい生活をされているかと思うと、言葉も出ない。
おしゃべりの私だが、無口になり、山陽本線の列車に乗り帰宅した。
小学6年の時、広島から引っ越してきた百合さんが、被爆者ではないかと思っていたこともあり、私は原爆反対の活動をしたいと思っていた。
その日、広島で原爆の酷さを見て、原爆反対の気持ちをより強く持つ。
少し前、高校生会に広島から、原爆ドーム保存のための署名用紙が届いていた。
8月6日の数日後、教会学校の先生から、署名用紙と募金箱を受け取る。
外はカンカン照りなので麦わら帽子をかぶって、一人で駅前に出掛けた。
哲ちゃん達は仕事で出勤だったし、高校の友達は田舎に行っていたので、私一人で募金活動を始める。
私は、一人でも署名活動をしたいと思ったのだ。
駅前の商店街は人通りが少なく、商店の中から高校野球のラジオの実況放送が流れている。
「原爆ドーム保存のための、署名と募金をお願いしまーす。」と声を上げるが、ラジオから聞こえるアナウンサーの声と大声援に、私の声は消されそうだっだ。
  

Posted by トンコおばあちゃん at 15:22Comments(0)

2016年06月04日

第99回 昭和38年盛夏 音楽の勉強


高校3年の1学期末、担任が「就職試験受験の会社から、不採用と連絡があった。」と申し訳なさそうだ。
「この数日で状況が変わり、短大保育科に進学することにしました。」と伝える。
担任は、「それはよかった。」と嬉しそう。
次の日、園長先生の勧められた西宮の短大保育科を、受験することに決めた。
日曜学校の先生だったミカさんが、ピアノ教本バイエルと声楽の教科書(コーリュ-ブンゲン)を、週一回教えてくださることになる。
小学の時、ミカ先生は、原爆ドームや被爆少女サダコさんの事を話して下さった。
私が尊敬し憧れている女子大生で、教会の聖歌隊のオルガン奏楽もコーラスもとても上手だ。
ミカ先生宅に伺うと、すぐにおしぼりを出して下さり、扇風機も付けてくださる。
行き届いた心使いに感謝しながら、レッスンを受ける。
学校の音楽の授業で学んだことを思い出し、ピアノの上にまず右の手の指を拡げて置く。
親指を上にあげてから鍵盤をポンと打つことを教わる。
親指・人差し指・中指・薬指・小指に1・2・3・4・5と番号がついていている。
英文タイプのテキストにも、指の番号が書いてあり、番号通りに指を動かすのには、少し慣れていた。
「指を番号通りに動かせるのは、すごいわ。」とミカ先生が褒めてくださる。
英文タイプを3ヶ月習っていたことを話すと、「それはよかったわ。指を1本づつ動かすことは、難しいのにそれが出来るなら、ドンドン進むことが出来るわ。」とミカ先生。
ひろさんが誘ってくれたタイプを習って、本当によかったと思う。
ミカ先生は、良いところを見つけて励ましてくださるので、続けることが出来る。
また、3時頃レッスンの時は、おやつまで出してくださるので、その後も頑張れる。
夏休み中ほぼ毎日、幼稚園のピアノを借りて練習するが、指を一本づつ上げてポンと打って弾くことは難しい。
雨の日は、近くの瞳ちゃんの家のピアノを借りることにした。
瞳ちゃんは、楽譜を見てすぐに弾けるので感心する。
ミカ先生は、手本にバイエルの曲を一回弾いてくださるが、慣れないバイエルの曲を瞳ちゃんも弾いてくれるので感謝もした。
私は長い時間集中できず進み方も遅いので、瞳ちゃんは「大変ね。」と、同情しつつ応援してくれる。
嬉しくなり、頑張ろうと自分を励ましつつ、練習する。  

Posted by トンコおばあちゃん at 21:35Comments(0)

2016年05月17日

第98回 昭和38年夏 幼稚園の先生に? 


高校3年の7月の就職試験の翌日、キリスト教会付属幼稚園の園長先生が、我家に来られた。
「就職試験を受けたのですか?」と、園長先生が質問なさる。
「受けたのですが、定員オーバーで受からないと思います。」と応えると、ホッとした表情になられた。
「実は、幼稚園で働いて欲しいので、お願いに来たんですよ。」
「としこさんは、楽しく遊ぶことが出来るので、幼稚園の先生に適しています。先日の子ども運動会でも、一番楽しく参加していましたよ。」
「是非、考えてみてくださいね。」と、先生が話された。
私は、驚くと共に嬉しくなる。
「嬉しいです。父母と相談して、お返事します。」と応える。
最近、笑顔を褒められるが、アルバイト中は、いつも笑顔でお客さんと接するよう心がけ、良い店員のお芝居をしている感じだ。
また、お世話になっている人には、笑顔で接しようと思っている。
が、遊びやリクレーションの時は、無意識で自然に笑顔で楽しんでいる。
園長先生が、自然のありのままの私を認めてくださったので、私は今までにない嬉しさと勇気を与えられた気がした。
先生が帰られた後、さっそく母に伝える。
「幼稚園の先生の助手に勧められたの、幼稚園で働きたいの。」と、母も笑顔だった。
翌朝、「お父さんは、小学校の先生になるんじゃーなくて、幼稚園の先生だからいいと言ってるよ。」と母。
早速、幼稚園に隣接している園長先生宅に、私は出向いた。
「昨日は、ありがとうございました。幼稚園で働きたいのですが、音楽に自信がないのです。」
「音楽の勉強をしなければと思います。それでもよければお願いします。」と伝えた。
「それは、嬉しいことです。出来れば、短期大学の保育科に行くことを勧めます。」と話される。
幼稚園の先生のほとんどは短大保育科卒業で、幼稚園教諭の免許を持っていることも知っていた。
2年間、保育の勉強をしたいし、特に音楽の勉強をしてから、幼稚園で働くほうがよいと思えた。
家に帰り「短大保育科に行くことを勧められたの。行きたいな。」と、母に伝える。
「お姉さんも短大に行ったんだから、としちゃんが短大保育科に行くことに賛成よ。お父さんに頼んでおくよ。」と母。
父は反対する理由は無かったらしく、賛成した。
歌は下手で、オルガンは「チューリップ」の曲がどうにか弾けるだけの私は、予想外の大きなチャレンジをすることになる。
  

Posted by トンコおばあちゃん at 20:00Comments(0)

2016年05月07日

第97回 昭和38年初夏 就職試験


高校3年7月、元町通りに買いものに行き、帰りにアルバイト先の洋装店に寄る。
店長であるおばさんに挨拶する。
「駅前の運送会社の社長さんが、『としこ君にうちの会社の受付で働いて欲しいんじゃ。あの笑顔を気に入ってな。』と言うちょってよ。」と、おばさんが話しかけた。
その運送会社からの贈答品の届け先や、他からの贈答品を運送会社に届けた時の挨拶が、丁寧で良かったと、大分前に聞いていた。
「私は、としこさんに東京の洋裁学院でデザイナーの勉強をして、うちの店で働いて欲しいと思うちょるんよ。」とも。
以前、店長が留守だった時のアルバイト中の出来事を思い出した。
「店長は留守。」と伝えると、お客さんが「いいのよ。店長には希望を言いにくいから、お姉さんに頼みたいんよ。」と言ったのだ。
おばさんが注文を受ける時を思い浮かべる。
注文表にブラウスの希望の衿と袖を描き、サイズを測り記入して、服地の端切れを貼っておいた。
おばさんが帰って来て、「急ぐようだったから、一応注文表をかいたけど、もう一度確かめて下さいね。」と伝える。
「ちゃんと、衿や袖が描けるんじゃね。」と感心したようだった。
「絵の教室で、よく見て描くように言われていたから、どうにか描けたんよ。」と応えたのだった。
おばさんは、私がデザイナーにと思ったかもしれないが、スタイル画なんてとんでもない。
働く農家の人や美容師さんを描くのは好きだけど、スマートな人を想像して描くのは、苦手で好きでない。
「デザイナーは無理だわー。」と言って、すぐ店を出たが、運送会社には心が少し動いた
家に帰ると、「隣の笠戸ドックの社長さんが、『船で通勤するのが大変だけど、うちの会社で働かんかな。』と言って下さったんよ。」と母が言う。
「無理よねー。」と、私は船酔いの心配があるし、もし事務職ならミスが多いので迷惑をかけるから、気が進まない気持ちを込めて即答した。
「そーねー。」と、母も同感のようだ。
7月の期末試験が終るとすぐに、会社の就職試験が始まる。
私の高校2人採用の会社に、私ともう1人が採用試験に申し込んでいたので、その会社に出向く。
行ってみると、我校の応募者は3人で、他の2人ともよく知っている人で、驚いた。
2人には身内の人がこの会社にいるらしい事がわかり、私の採用は無いだろうと思えた。
すぐに、運送会社が頭に浮かんだので、がっかりした訳ではなくホッとする。
大会議室に机と椅子が並び、50人以上の男女高校生が着席し、試験問題が配られた。
私は、試験を放棄したい気持ちだが、答えは記入する。
が、ミスを調べる点検はしないことにした。
次に、面接試験会場に行くと、会社の面接官らしい数人が前一列に座り、3人の高校生が対面して着席。
初めに、面接官が「順番に自己紹介をして下さい。」と指示し、上から目線で観察しながら、自己紹介を聞き始めた。
3番目の私は、その丁寧な自己紹介を見聞きし感心しつつ、目の鋭い上司いる会社で、働きたくないと感じる。
無表情で自己紹介をし、趣味の「新舞踊」の流派は何かと聞かれたが、思い出せなかったので、「忘れました。」と応えた。
たぶん、不合格と思い、それがいいと気分よく帰宅し、母にいきさつを伝えた。
母は、隣の市への通勤も心配らしく、ホッとしたようだった。  

Posted by トンコおばあちゃん at 10:05Comments(0)

2016年04月18日

第96回 昭和38年6月 子ども運動会


高校3年の梅雨の前、教会の日曜学校で、子ども運動会が開かれることになり、高校生会も参加することになった。
準備体操の後、紅白に分かれて、かけっこ・借り物競争・障害物競走・スタンツゲームなどがあり、私達高校生も道具の出し入れの係を引き受ける。
中でも一番盛り上がったのはスタンツゲームで、私は好きだった。
その頃、キャンプ・親睦会・小運動会などのレクレーションの時、「スタンツゲーム」が流行っていた。
寸劇・ゼスチャー・歌・踊り・演奏など、グループに分かれ決められたテーマにそって短い時間で相談準備し、発表するゲームだ。
その日のスタンツは、新聞紙・人形・風呂敷・ひもなどが用意してあり、仮装をするものだった。
高校生数人の私達赤グループは、背の高い男子をお母さんにして、赤ちゃんをおんぶしている仮装に決定。
新聞紙に穴を開けたりちぎったりし風呂敷も使って衣装を作り、ひもを使い彼に着せた。
次に、大急ぎで人形の赤ちゃんを背中におんぶさせて、やっと出来上がった姿を見ると、背中の人形の赤ちゃんがひっくり返っている。
白組の仮想は、私達に似ているが丁寧に出来ていて、赤ちゃんをおんぶしている。
説明の時間もゲームのうちで、マイクに慣れている私が引き受けることになった。
「ミナサーン。ワタシ、ネパールカラーキマシター。ワタシタチノトコロデハー、コノヨウニーアカチャンヲーセオイマース。」
「シログミーノー、アオジローイカオトーチガッテー、ケンコウテキナーアカーイホッペノーアカチャンヲーミテクダサーイ。」
「コノオンブヲー、ニホンノーミナサンニーオススメシマース。」と、私は考えながらゆっくり話す。
赤組の出来上がった姿を見た時、ネパールの赤ちゃんが背負子におんぶされている姿が目に浮かび、そっくりだった。
急だったので、文章を考えながら、ゆっくりしか喋れなかった。
終るやいなや拍手喝采で、赤組が勝ち、グループのみんなは大喜びで飛び上がる。
その後も、準備や片づけを楽しくスムースにやってのけ、無事小運動会は終る。
私は、愉快で激しすぎない運動やゲームが好きなことを再自覚した。  

Posted by トンコおばあちゃん at 10:36Comments(0)

2016年04月03日

第95回(2) 昭和38年春 就職を考える


3年の新学期が始まりしばらくして、購買部員のひろさんが、「タイプを始めるんよ。一緒にしようやー。」と誘ってくれた。
就職の時、特技にタイプと書くと有利になるらしいが、私には難しいように思える。
よく聞くと、英文タイプもあることが分かり、24文字しかないから、私に出来るかもしれないと気がついた。
英語塾の先生に、「敏子君は易しい言葉で訳すのが良い。」と言われてから、英語を訳すのが好きになった。
教科書は難しくは無いからだが、辞書さえ引けば訳せるから、自信もついてきていた。
英文タイプなら出来るのではないかと、楽観的に考えて始めることにする。
タイプ教室にいくと、大きい和文タイプと小さめの英文タイプが数台づつ並んでおいてある。
AAAaaaBBBbbb・・・・・と決められた指で打っていく。
YYYyyyZZZzzzとどうにか決まった指で打てるようになると、「商業文を打ってみましょう。」と先生がテキストをくれる。
早速、初めてで分からず読めない単語(reshuffie)がでてきたので、辞書を引くことに。
人事異動の書類を作る練習のようだが、テキストの通りにタイプを打てばいいのだが、簡単ではない。
週2日通い、毎回1時間に1枚の書類を、どうにか作成出来る様になった。
「今日は、この後タイプを使う人がいないから、使ってもいいですよ。」と先生。
ひろさんが「ありがとうございます。」と、嬉しそうに和文のテキストを開いて、打ち始めた。
私も見習って打ち始めたが、集中出来ず間違ってばかりで、疲れた感じで仕上がらない。
ひろさんははかどるらしく、早い時間で1ページ仕上げ満足していている様子。
5月末に、ひろさんは就職試験のときの履歴書の特技欄に、「和文タイプ」と書くと話す。
私は特技ではないから、英文タイプ勉強中と書こう決める。
6月になると、大会社や役所や銀行などの就職試験の日時などの報告があった。
私は、知人が働いて、「受付案内係」を頼めそうな会社に、受験することにする。

  

Posted by トンコおばあちゃん at 19:21Comments(0)

2016年04月02日

間もなく次回を掲載致します


遅くなりごめんなさい。
眼の手術は簡単でした。
術後の点眼と抗生物質軟膏の塗布が少々大変でしたが、それも終了し、経過良好で落ち着きました。
間もなく再開致します。
よろしくお願いします。
ラムネ屋トンコ  

Posted by トンコおばあちゃん at 17:24Comments(0)

2016年02月14日

次回は3月末にさせて頂きます


寒暖の差が大きいので驚きますが、皆様お変わりございませんか。
私は、今年に入り眼の調子が悪くなったので、急遽手術することになりました。
短時間の手術ですから、ご心配なく。
3月末には、再開予定です。
どうぞよろしくお願い致します。
ラムネ屋トンコ  

Posted by トンコおばあちゃん at 18:58Comments(0)

2016年02月07日

第95回(1)昭和38年春 就職を考える


通学路の木々のつぼみがほころび始め、高校2年の3学期は終了だ。
春休みに、購買部員の嬉子ちゃんとひろさん達が、中国電力のカード作成のアルバイトに誘ってくれたので、行くことにした。
春休み初日から、となりの市の中電の会社に行くと、近郊の高校の新3年女子が大会議室に集まっていた。
中学3年の時同じ組で親しかった、他の高校の和子ちゃんも来ていて、懐かしく嬉しくなる。
お客様カードの住所氏名などを、4月からの新しい使用量カードに、写す仕事だ。
「簡単な仕事でよかった。」と言って、みんなはさっそくボールペンを握り記入し始めたので、私も見習う。
が、私は、ボールペンに慣れていない。
しばしば書き間違う私は、鉛筆だと消しゴムを使って訂正できるが、ボールペンは訂正しにくいのでほとんど使わないのだ。
さっそく、間違ってしまい、新しいカードに書き換えたが、午前中で数枚も間違う。
みんなも2・3枚書き換えていたが、全く間違えない人もいたので驚く。
昼休みの時間、お弁当を食べながらのお喋りは、楽しく気分転換になる。
午後の作業でも、私は数枚失敗したが、他の人は多くて2・3枚だ。
次の日は、ゆっくり書いて失敗しないように気をつけたが、それでも午前中2・3枚、午後数枚は間違えた。
数日間、私は疲れてきたが、親しいひろさんや砂ちゃんや和子ちゃん達は、失敗は減り気楽になって休憩時間の会話も進む。
進路の話が出て、進学希望者も少しいたが、ほとんどが就職希望だ。
ひろさんや砂ちゃん達は大会社や市役所に希望とのことだが、作業ぶりをみて事務系の仕事に適していると思うし、就職試験に合格するだろうと思えた。
最後の日も、間違えないようにゆっくり書いたが、改善せず午前中2・3枚、午後数枚間違えたので、さすがの私もミスしたカードを隠したくなる。
このアルバイトを通して、事務系の仕事は私には無理と再認識した。
4月の始業式の日に、次の日の入学式の受付係を、新3年生数人と一緒に頼まれたので、引き受ける。
当日は、受付補助の新2年の二人と受付用の長机や椅子を出し、受付と書いた用紙を机に貼る。
2年の二人が、「どのようにしたらいいんですか?」と受付担当の橘先生に尋ねた。
「敏子君を、見習ってやってくれ。」と応え、次に「若い女の先生じゃあなく、敏子君を見習うんじゃぞ。」と耳打ちされるのが、聞こえてきた。
私は、しばしば受付係を頼まれたが、その都度、茶道の先生であるお寺の住職の奥さんの真似をして、挨拶などしてきた。
橘先生は、学校の近くのお寺の住職をしておられる。
私が、他のお寺の住職の奥さんの真似をしているのが、気に入っておられるのかと思う。
式の前、来賓の中には、タクシーで受付前まで乗り付ける人もいたが、山のふもとでバスやタクシーを降りて、50メートル位の山道を、登ってくる方もいた。
「坂道を登っておいでくださり有難うございます。お疲れではありませんか?お席までご案内します。」と特に丁寧に挨拶することにしていた。
待合室に案内して、「どうぞ、ごゆっくりなさって下さいませ。」と椅子をすすめる。
タクシーの方にも、もちろん丁寧に挨拶し、待合室まで案内する。
橘先生の「敏子君を見習って。」という言葉は、私を大いに力付けてくれた。
私には、受付係や案内係の仕事が出来るのではないかと思えたのだ。
私は、おだてに乗りやすく、飛躍しすぎる。
それまでは、事務系の仕事は無理だが、販売の仕事は出来るのではないかと思っていたが、幅が拡がったように思えた。










  

Posted by トンコおばあちゃん at 20:01Comments(0)

2016年01月15日

第94回 昭和38年晩冬 卒業式の頃


2月の購買部の部屋は寒く、利用する生徒が少ないので、余計に寒さを感じる。
そんな時、「番長がけんかをして見つかり、停学処分になって、登校していない。」という噂が届いた。
二・三の3年生に確かめて、番長が登校していないことが分かった。
この前は煙草を校庭で吸って見つかり、今度も校庭でけんがになり、相手をぶん殴り見つかったらしい。
私が言った「隠れてするのは、よくないよね。」に、影響されたのかなと、脳裏に浮かぶ。
下校時、陣中見舞い(この言葉が適しているかどうか分からないが、他に適した言葉が見つからないので)に、彼の家に行くことにした。
すでに、2人の友達が来ていた。
彼は1週間の停学処分で、二度と暴力を振るわないと約束したそうだ。
4人で、しばらくマージャンをして帰宅したが、陣中見舞いが見つかると、お叱りを受けるかもしれないが、4人とも口が硬く他の人に知られることはなかった。
卒業式は3月の初めにあり、私は数名の2年女子と、受付係になった。
来賓の方を、控え室に案内するのだが、秋の体育大会で3年生全員が出場時、代替受付係になり手伝ったので慣れている。
2年生は、在校生代表で卒業式に参列するのだが、受付係の私達は遅れて参加した。
卒業式が終って、番長と卒業祝いをする約束をしていたので、番長宅に出かける。
友達も集まっていて、卒業祝いマージャンを始めた。
「番長が、女友達が出来てヤワ(柔・軟のことらしい)になったから、生意気な2年生をぶん殴れんじゃった。」
「オレらー、去年卒業生に殴られたから、今度はオレらーが卒業式の後、仕返しのつもりで2年生をなぐりたかったのにのー。」
と友達がつぶやいた。
去年の卒業式の後、数人の2年生と新任の男の教師が、2・3人の卒業生に殴られたと聞いた。
数人の2年生とは、今マージャンをしている彼らだと分かり、驚くと共に同情の気持ちなる。
悪い慣習が続いていたようだが、これからなくなると良いのになと思いながらマージャンを続けた。
終ってから、「お母さんの死を乗り越えて、ちゃんと卒業したから、お母さんは喜んじょってよ。」、と番長に伝えた。
番長は、仏壇に手を合わせて、報告したようだ。
卒業式の日の後、彼は高校生会に一度だけ参加したが、高校生会の卒業祝いの会には来なかった。
嬉子ちゃんに「番長、来なかったね。」と話しかける。
すると、「おばちゃん先生がね、『としこさんは、貴方が色々な試練を乗り越えて、ちゃんと働いてしっかり生きていくのを願っているのよ。』と親切心から、番長に話されたんよ。」と嬉子ちゃんが話した。
私は、違和感を感じながら聞き、同じ内容のことを思っていないし、そんな事は言いたくないと思った。
その頃、私は、他の人が言った事を、私の口から言わない事にしていた。
それは、私には聞き間違えや勘違いがしばしばあるので、不確かだから言わない事にしていたのだ。
その時「〇〇さんが、△△と言うちょったよ。」
「AさんがBさんのことを◇◇と言ってたよ。」など、決して言わないことを肝に銘じた。
そして、自分自身が、感じた事思った事だけを、話すことに決めた。
  

Posted by トンコおばあちゃん at 19:56Comments(0)

2016年01月01日

’16年元旦 あけましておめでとうございます



皆様のご健康ご多幸をお祈り致します。
また、反戦平和を願います。
高校卒業までを、ぼちぼち頑張ろうと思います。
よろしくお願いします。
ラムネ屋トンコ  

Posted by トンコおばあちゃん at 10:00Comments(0)

2015年12月30日

第93回 昭和38年冬 家庭科は楽しい


高校2年の3学期をむかえ、山の上の高校は冷たい風が走り、校庭の草木は枯れ寒さを感じる。
鉄筋コンクリートの校舎の床は冷え冷えしているが、教室は賑やかで温かい雰囲気だ。
家庭科被服の授業では、1・2学期にかけて、ゆかたとワンピースを製作。
瞳ちゃんは、縫い物が苦手なので、なかなか仕上がらない。
そこで、珍しく私の出番となり、いそいそと手伝ったのだが、これが上手でなく、縫い目が揃っていない。
中学の時も、ブラウスを手伝ったが、きれいな仕上がりではなかったので、親に手伝って貰った様に見えずうまくいった。
瞳ちゃんは、(私が手伝っても)期限ぎりぎりに仕上げ合格し、今では懐かしい思い出だ。
仕上がったゆかたやワンピースを、着る事が出来て満足。
だが、活発な私には、ワンピースの袖ぐりが小さすぎたので、着用した時は上品に動く事にした。
料理の授業も、味噌汁・鯖のムニエル・マッシュポテト・りんごの酸化予防のための塩水の割合などを学び楽しい。
一番勉強になったのは、家庭クラブの「研究」で、全国高校の連盟組織で研究発表会もあるのだ。
私達のグループは、当時女子高校生用の夏のシミーズがなかったので、欲しい気持ちから、「私達のシミーズ」の研究に取り組む。
その頃は、「スリップ」のことを「シミーズ」と言い、スカートの裾からシミーズが見えると、だらしないという意味で「シミチョロ」と言っていた
「女性の下着の歴史と世界の下着を調べる事から始めて、自分達に適したものを研究しましょう。」と、被服担当の増野先生。
何かはじめようとする時は、「まず歴史的調査と現在の状態を調査し、それらを参考に研究を進める事」の重要さを教えられ、その後の人生に役立つことになる。
また、先生は「参考にしてね。」と言いながら、プロジェクターを使って、黒板の代わりの白い大きなスクリーンに、世界の下着などを写して見せてくれた。
その頃は、今と違って、図や文章をかいた用紙や写真を、プロジェクターに通してスクリーンに写すものだった。
「黒板にかくのが大変なものでも、皆に見せることが出来るから便利よ。」と、度々珍しいものをみせてくれるので、興味深々。
「私達のシミーズ」には夏のステテコの生地に似た、クレープという綿生地が適していると思えた。
汗が出た時には、背中がランニングシャツの形態が良いが、前はシミーズのように胸にレースを付けおしゃれ感覚のデザインにしようと決める。
講堂で、研究発表会や作品展が開かれた。
「乳幼児の手作りおもちゃ」「簡単な手作り弁当のおかず」「和服から、簡単服」など、どれも感心するものばかりだった。
「素敵な高校生用シミーズだから、商品化してもらいましょう。」と増野先生が言われたので、私達は大感激して、跳び上がる。
先生が、カネボウ(その頃は服地などを取り扱っていた)という会社と交渉して下さり、夏までに私達のシミーズが手元に届くとのことで、とても待ち遠しかった。  

Posted by トンコおばあちゃん at 22:13Comments(0)

2015年12月13日

第92回 昭和38年新年 煙草



年末は、近所の美容院で楽しくアルバイトをし、夜は例年通り、テレビを観たり、百人一首を詠んで過ごす。
高校で、古文の授業があり、古い詞に慣れてきたので、内容の意味が分かるようになったので面白い。
三学期が始まり、購買部の仕事をしていると、3年の男子達の煙草の臭いが気になる。
最近、3年男子が便所にかくれて、煙草を吸っているらしいとのうわさを聞いたが、事実だと分かる。
我家では、父は煙草を吸わないが、清涼飲料の仕事をするおじさんや、田舎の祖父が吸っているので、臭いで分かるのだ。
祖父は、刻み煙草を小さく丸めて、細長い煙管(キセル)の頭に詰めて、美味しそうに吸う。
胃がんを患っている祖父は、時々痛みに襲われ胃の辺りを押さえるが、煙草をすって和らいだ顔になった。
貰いもののピースという銘柄の缶入り煙草を、おみやげに持って行くと、祖父は大喜び。
半分に切った煙草をキセルに入れて吸いながら、「安物と違って、ピースはうまいのー。」と言って、ゆっくり煙草をふかしていた。
学校の購買部にくる3年男子の煙草の臭いは、おじさんと祖父の煙草の臭いと同じだから、茶色の紙の袋に入っている「シンセイ」だと思う。
が、たまに「ピース」の臭いがして、少々驚いた。
冬になり寒いせいもあり、購買部の昼食用の牛乳が時々売れ残る。
そこで、ある日、思いついたので、「煙草の臭いを消したい人に、買って欲しいんじゃけどー。伝えてね。」と、度々パンや牛乳を買いに来る顔見知りの3年男子に頼んだ。
彼は苦笑いしながら行ってしまったが、しばらくして、数人の3年男子が牛乳を買いに来てくれた。
その頃は、「若いうちから、煙草を吸うのは体に害があるから吸うな。」と言われていた。
もちろん、学校でも「煙草は禁止」だった。
番長との帰り道、「3年の男子が、便所に隠れて煙草を吸っちょるんじゃね。隠れて吸わんと、家で吸えばええのにね。」
「2年の男子が、校舎の影に隠れて、喧嘩したり暴力を振るったりしたらしいよ。隠れてせん方がええよね。」
「隠れてするんは、なんか格好悪い気がするんよ。」
と、私は頭に浮かんだことを喋った。
番長は、頷いたわけでもなく、何となく聞いている感じだった。
しばらくして、「番長が、煙草を吸っているところを見つかって、教職員室に呼ばれたんじゃてー。」と、うわさが流れた。
下校時、番長に聞くと、「校庭で煙草を吸うちょったら、見つかってのー。『今後、絶対に煙草を吸うな』と、言われたんじゃ。今度吸ったら停学処分らしいんじゃ。」と彼。
「もう、学校では吸われんわー。」とも言う。
私は「びっくりしたー。」と返しただけだったが、良かったかなとも思った。
その後も、3年男子の煙草の臭いは続いたので、牛乳が残った時は完売に協力して貰ったが、なんだか変な気分だった。  

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2015年11月29日

第91回 昭和37年初冬 高校2年のクリスマス


11月末から教会では、緑のひいらぎのクランツにろうそくが4本立ち、クリスマスをむかえる雰囲気だ。
毎日曜、キャンドルサービス(燭火礼拝)とクスマスキャロルのための、クリスマス讃美歌練習の素敵なハーモニーが響く。
高校生会のクリスマス祝会のプログラム・歌・ゲーム・茶菓の準備など、皆で手分けして行うことになり、楽しい雰囲気だ。
一方、JRCでも、毎週木曜に通っている養護施設で、子ども達と一緒に、クリスマス会を開くことになり計画を立てる。
サイクリング気分で養護施設に行き、子ども達とバレーボール遊びや勉強を一緒にして、仲良くなった。
そこで、子ども達の希望もあり、クリスマス会を一緒にすることになったのだ。
教会のクリスマスは例年通りで、平和についての話し合いもあった。
朝鮮戦争の休戦・インドネシア独立戦争・キューバ危機などの話が出る。
哲ちゃんは平和に関心が強く、国際情勢について話し、意見も言う。
私は、テレビのニュースで知っている程度なので、感心しながら聞く立場だ。
戦争と聞けば、子どもや女性が被害に会う姿が目に浮かび、戦争が無いことを祈る事しか出来ないでいた。
25日の午後、何時もより多いJRCのメンバーと自転車をこいで、クリスマス会のため養護施設に向かう。
子ども達が会場に集まったので、「大ーきなツリーの木の下でー、あなたとわたしー」と歌いながら、クリスマス会を始める。
そこに、学生服を着た数名のの工業高校の男子高校生がやってきた。
子ども達とは顔見知りらしく、すぐ打ち解けて歌ったりゲームを楽しむ。
その中に、中学の時、同じく組になったことのある弘君の姿を見つけて、懐かしく嬉しくなった。
片付けが終ってから声を掛けようとしたが、残念ながらみんなと帰ってしまっていたので、がっかり。
秋から、瞳ちゃんは同じ高校のバスケット部の男子と交換日記を始めていた。
時々見せてくれたノートには、クラブ活動の様子などが書かれていた。
羨ましい反面、同じ高校に交換日記をしたい男子はいないので、「相手がいないんだから、まあいいかー。」と思っていた。
が、今日は、弘くんと出合ったとたん、「交換日記が出来たらいいなー。」と、クリスマス会の途中なのに思いついたのだ。
残念ながら、今日は話せなかったけど、今度会うかもしれないから、その時は話そうと決めた。
工業高校のJRCの男子達は、バリカンを使って男子児童たちの散髪に来ていると聞いた。
私は、最近、近くの美容院でアルバイトをしているが、掃除やパーマネント用の髪を巻くプラスチックのロッドと輪ゴムを手渡す手伝いをしている。
カットを見ていて、私には無理のように思う。
母も、「看護婦と美容師は、危ない事が起こりそうだから無理かもねー。」と笑いながら言うが、私も本当にその通りと思っている。
弘くん達がバリカンで散髪することを聞いて、すごいと感じる。
益々、弘くんと親しくなりたいと思い、再会が待ち遠しくなった。
  

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2015年11月05日

第90回 昭和37年晩秋 きつねの嫁入り


秋も深まり、木の葉が色づく。
学校の授業や高校生会が終った時、時々番長と一緒になり、おしゃべりをしながら帰宅する。
間もなく、北の方の花岡で、「きつねの嫁入り」の行列が行われると聞いた。
「私、まだ一度も、『きつねの嫁入り』を見たことないんよ。」と言う。
「そうかー。じゃあ連れて行ってやるわー。」と、番長の返事。
当日、私が自転車で彼の家に誘いに行ってから、見物に行く約束をした。
11月の初めはさほど寒くなく、快い風を感じながら進み、自転車置き場に自転車を置いてから、花岡駅に向かう。
旧山陽道は、見物客でいっぱいだ。
番長は、友達に声を掛けられて、話をしながら進む。
その時、行列が来たらしいが、大勢の人で見えにくい。
白い顔のきつねのお面を被った花嫁と花婿のきつねの姿が目に入った。
きつねの花嫁と花婿は、乗り物に乗っているらしく、他の行列の人より高いので見えるのだ。
みんな行列に付いて行きながら、見物しているので、私も付いて行く。
しばらくして、番長とはぐれた事に気がついた。
前後左右をキョロキョロ見回しても、彼の姿を見つけることが出来ない。
まわりの流れについて行くと、花岡駅に着いた。
道路の端を通って、自転車置き場に帰ることにした。
彼の自転車はちゃんと自転車置き場にあり、30分位待っても、彼は現れない。
探しているに違いないと思ったが、じっとしていたからか寒くなってきたので、帰ることにした。
初めて、約束して出かけたのに、なんということだ!
しかたない。
「先に帰るわ。」とメモを残したかったが、用意していないので出来なかった。
次の日、学校の帰りに校門の辺りを、彼を待ちながらゆっくり歩いていると、彼が大股でやって来た。
「昨日は、先に帰ってごめんね!」と言うと、「俺も友達と話しちょって悪かったのー。」と。
「初めて、きつねの花嫁と花婿を見られてえかったよー。」などと話しながら、ぺタルをこいで帰宅した。
少し残念だった思い出だ。  

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2015年11月01日

第90回が遅れてごめんなさい

パソコンの調子が悪くなりましたが、私は、パソコンに詳しくないのでなおせませんでした。
手助けを得て回復したので、間もなく次の記事を掲載致します。よろしくお願い致します。
ラムネ屋トンコ  

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2015年09月30日

第89回 昭和37年秋 全国高校統一学力テスト


2学期が始まり、例年通り定期テストがあり、文化祭の準備が始まる。
本人の希望の活動が出来る文化祭なので、気に入っているが、みんなもそれぞれに頑張っている。
そんな時、担任の教師の報告があった。
「来月の日曜日、全国統一学力テストが行われるぞ。希望者は申し込むように。」
「県内や全国の成績順が分かるぞ。」と付け加えた。
教室内が少しざわざわした後、隣の友人が「としちゃん、受けるん?」と聞く。
「私は、成績順など興味ないし知る必要もないから、受けんよ。」と応えた。
それに日曜日に登校して、高校生会を休むのは嫌だ。
1ヶ月前に、聖くんが高校生会に参加したので、少しだけ会話した。
「今度、何時来る?」と聞くと、「何時か分からんけど、又来るわー。}と聖くん。
彼は、「愛するとは自分のために相手を愛するんかのー?それとも相手のために愛するんかなー?」と言っていた。
今度会った時、私は彼がどのようなことを考えているのか、聞きたいと思っている。
また、番長も時々、高校生会に参加している。
2人と親しいまさあき君は、受験勉強が忙しいらしく、高校生会を休むことが増えた。
その時、私は2人とおしゃべりをしたいのだ。
しばらくして、担任に「教職員室に来るように。」と呼ばれたので行った。
「全国統一テストの受験希望者がいないクラスは、僕の2年4組だけなんだ。」と担任。
「君は受けないんだな。君の影響力は大きいと思う。どうしてか分からんけどな。希望者はいると思うので、受験するよう勧めてくれ。」とも言う。
さあ、困った。
教室に戻りながら考えた事を、ホームルームの後に、みんなに話すことにする。
「私達のクラスだけ全国学力テストの受験申し込み者がいないそうよ。私は自分の気持ちや考えを大切にしたいと思ちょるの。自分の意思で受験せんのよ。」
「周りの考えに左右されるんじゃなくって、何事も自分の考えで決めることが良い事と思うんよ。受験の事も自分の考えで決めるんが良いとおもうよ。」という風な事を言った。
二三日後、「やっぱり、君の影響力は大きいな。二名の申し込み者があって良かった。」と担任が言う。
私の影響ではなく、元々受けたくて、申し込んだのに過ぎないと思うが、一件落着でホッとした。

  

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2015年09月17日

ご無沙汰しまして申し訳ございません


「ラムネ屋トンコ」を、急にお休みしまして申し訳ございません。
5月中旬から、急病で入院大手術した姉の退院後の手助けに行き、やっと帰ってきました。
皆様暑い夏をいかがお過ごしだったでしょうか?
私は、冷房が要らない姉の所で過ごしたので、例年のように夏バテせず元気にしております。
「ラムネ屋トンコ」を、間もなく再開予定です。
今後もどうぞよろしくお願い致します。 ラムネ屋トンコ
  

Posted by トンコおばあちゃん at 16:45Comments(0)

2015年05月10日

第88回 昭和37年晩夏 高校生会の夏の活動



夏の高校野球は1回応援に行っただけで終ってしまい、夏休みが始まる。
昨年同様、洋装店のアルバイトに行くが、大分慣れて、お中元の届け先の人やお客さんと、顔見知りになった気がする。
日曜日は高校生会に参加し、盆休みには高校生会のキャンプがあり、教会と幼稚園園舎を借りて、一泊二日で行われた。
「高校生らしく生きる」というテーマで、聖書研究や真面目に考えながらの話し合いもあるし、愉快なプログラムもある。
昨年のキャンプの時、2・3年の先輩が忙しそうにみんなの世話をしていたので、今年は協力しようと同級生で話し合っていた。
応援団で一緒だった茂子さんも参加して、手際良くカレーを作りながら、美味しくなるコツまで教えてくれる。
「さすが、家庭科コースの人は違うネ。」とみんなが感心した。
キャンプファイヤーを囲んで、歌ったりフォークダンスやゲームを楽しむ。
その後、輪になって座り、自己紹介や自分の考えていること感じていることを、発表し合った。
信仰のことを話す人もいたが、私は高校生会の運営や、キャンプの準備や活動に興味があり、スムースに進行出来る様に願っている事を話す。
キャンプの後は、文集作りが始まり、私はこれも楽しみだった。
「高校生らしく生きる」と副題の「キャンプの思い出」を載せ、挿絵もある表紙に決まった。
参加者はそれぞれキャンプの思い出などを書いたが、昼間働き夜定時制高校に通っている哲ちゃん達数名の体験談が興味深かった。
毎日曜、謄写版印刷の準備をすることになった。
ヤスリ版の上にろう引きの原紙を乗せ、鉄筆で文字や絵をかくのだが、慣れないので難しく感じるが、丁寧にかくと上手くいき嬉しくなる。
次に、謄写版印刷機に、かき終えた原紙とわら半紙をセットして、インクを付けたローラーで印刷する。
印刷した紙を番号順にならべ、1枚づつ重ねて、最後に綴じれば仕上がる。
出来上がった時の達成感は格別で、みんなで歓声を挙げた。、
一方、友達として付き合う約束をした番長は、平日は運動部の活動があり、日曜日は休みのようだが、約束が出来ないでいた。
「日曜日は高校生会に行っちょるんよ。」と彼に話すと、「俺も行ってみようかな。」と彼。
そのことを、嬉子ちゃんに伝えると、「不良と思われちょる人が教会に来ると、教会が誤解されるからと言って嫌がる人がいるんよ。」と言った。
誰でも来てよいのが教会であり高校生会と思っていたので、嫌がる人のことが理解できながった。
が、高校生会の先生に伝える方がよさそうだと気づいたので、おばさん先生とお兄さんの先生(先輩で青年会のメンバー)と高校生会会長の哲ちゃんに、番長のことを話した。
3人とも歓迎するとの返事だったので、安心して番長を高校生会に誘う。
教会には、いろいろの考えの人がいて、反対意見の人もいることを、改めて知った。
最初の日、番長とクリスチャンホームのまさあき君とが親しくなり、話し込んでいた。
まさあき君と茂子さんやひでお君も応援団のメンバーで、番長は慣れやすい雰囲気だ。
その後、彼は時々参加したが、私とよりもまさあき君と親しくなったようだ。
  

Posted by トンコおばあちゃん at 11:34Comments(0)

2015年04月26日

第87回 昭和37年夏 番長と友達に


1学期の期末テストが終った日、応援練習があるので、購買部で昼食用のパンを、私1人が販売していた。
その時、応援団の3年の先輩が来て、「付き合って欲しいんじゃけど、ええかな?」というような事を言った。
突然、番長と呼ばれている彼が話し掛けたので、驚いた顔で首を傾けた。
「付き合って欲しいんじゃ。」と、もう一度言ったので、理解は出来た。
が、初めてのことで、どう応えたらよいか分からない。
応援団で一緒だから断わると気まずいし、嫌だと言う理由もないので、「友達としてならええよ。」と、頭に浮かんだので、そのまま声に出した。
「ああよかった。じゃあ、またな。」と言って、教室に帰ったようだ。
つい先日、「番長と呼ばれている人は、不良らしいよ。」と、購買部員で親しい嬉子ちゃんが言っていた。
我家で、「不良」と言う言葉を聞いたのは、中学3年の時だ。
古着バザーで、コール天の生地のブルゾンと言うジャンバーを、母が買ってきた。
長い袖を短くしてくれたので、私が試着しているのを見て、父が言った。
「映画の不良少女の様じゃ。かっこよくて似合うぞ!ええじゃあないか。」と。
次の日、元町の映画館の立て看板を見ると、父の言うとおりだと思った。
番長は、応援団のリダー的存在のようで、時々帽子を斜めに被ったり、黒い詰襟の学生服の上のボタンをはずしている時がある。
「不良」については不確かだし、友達として付き合えば、彼のことは分かるだろうと思った。
次の日の下校時、番長が校庭で待っていたので、一緒に帰る。
自転車置き場から、家が同じ方向なので前後に並んで、ペタルを踏んだ。
「家に遊びに来てくれや。」と誘われたので、「いいよ。」と約束して別れる。
次の日、応援の練習が早く終ったので、彼のうちを訪問する事にした。
お母さんは既に亡くなっていて、おばあさんが食事を作ってくれるそうだ。
「おふくろの死がすごいショックじゃった。おふくろの引き出しに入っていた物が、思い出の品なんじゃ。」と言う彼の話を聞いて、辛かったことが伝わってきた。
しばらくすると、3人の友達がやってきたので、たわいないを話しながら、トランプを始める。
楽しくゲームをして終える頃、「マージャンのほうが、おもしろいのー。」と友達の1人が言う。
「マージャンじゃったら出来るよ。役はよう分からんけど。」と、私が言うと、「マージャンが出来るんじゃったら、今度はマージャンをやろうやー。」と友達。
私は頷いて帰宅したが、なんだか数人の男子と私が、グループ交際を始めた様な気がした。

  

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