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2015年04月13日

第86回 昭和37年初夏 高校野球の応援団


高校2年の梅雨の晴れ間、山の高校のグランドは大きくないが、野球部・庭球部・陸上部・籠球(バスケットボール)部・排球(バーレーボール)部などが、所狭しと活動している。
卓球部の活動の前後に、体育館を兼ねた講堂の窓から、グランドの運動部の男子はかっこいいと思いつつ、私は時々眺めている。
生徒会の委員会が開かれるので、3年の教室にクラスの委員が集まった。
「議題は高校野球の応援についてです。」と、議長が告げた。
毎年、生徒会と応援団が中心になり、1・2年生を半強制的に集めて応援の練習をし、県大会当日応援に行く。
昨年のように7月の昼休憩時と放課後、講堂で応援の練習をすることに決まった。
「今年は、応援団に女子が加わるといいな!」と、3年男子が発言したので、「賛成。」と私は手を挙げた。
すると、議長が期待を込めて、「是非、君達が応援団に加わって下さい。」と、私の方に投げかけたが、周りの女子は手も首も横に振る。
急の事で戸惑ったが、私は応援団に参加してくれそうな友達の顔が浮かんだので、「参加者を探してみます。」と応えた。
議長は、「よろしく。」とにこやかな声だ。
すぐ、幼稚園も小中学校も一緒だった茂子さんのいる、女子クラスに向かった。
「野球の応援団に、女子が参加してほしいんじゃって。私も参加するから、一緒にしようやー。」と伝えた。
「ええよ。一緒にやるわー。」と、茂子さんは笑顔だ。
友達も誘ってくれたので3人になったが、スポーツが好きであっさりしていて女っぽくない性格の様に思う。
普通科男女クラスの教室の男子集団は苦手だが、購買部で買い物をする男子には慣れてきたから、私は応援団も大丈夫と感じた。
応援団の3年男子と2年男子10数人位が、私達を笑顔で歓迎してくれて、さそっく応援のやり方を教えてくれる。
両手を上やななめに上げたり下ろしたり、ぐるっと回したりで、手旗は持たないが、手旗体操のようだ。
動きは簡単のようだが、順番を覚えたり皆と合わせることに注意しながら、夏休み前の全体の応援練習の準備をした。
中間テストの前、「欠点を取ったら、再テスト受けるのに1科目1、000円必要じゃから、親の機嫌が悪いんよ。」
「テスト勉強を一緒にしようやー。」と級友に誘われたので、放課後教室に残り、数人で数学・英語など教えあったり、予想問題を書き出して覚えることにした。
幸い私も思ったより良い点が取れたし、欠点を取る友達がいなかったので、期末テスト前も数人で頑張る。
「欠点なかったから、小遣いを貰えそうなんよ。誕生会をすることにしようやー。」と、級友から提案があったので、楽しみが増えた。
期末テストが終った日から、数日間全校生徒の野球応援練習が続くことになる。


  

Posted by トンコおばあちゃん at 12:00Comments(0)

2015年03月28日

第85回 昭和37年春 高校2年生に


高校1年年の間、授業中は聞き間違えや勘違いに気を付けたので、テストでは欠点を取ることなく無事進級。
放課後の週1回のJRCの活動はのんびりしていて気楽だったし、卓球部の練習では、ラリーらしきが出来るようになりよかった。
土曜は、近くのしずちゃんと踊りの稽古やマージャンなどをして愉快に過ごし、進学のための英語塾は休むことにする。
日曜は、教会の高校生会にほとんど休む事なく参加し、楽しかった。
いよいよ2年生。
クラス名簿の名前を探し教室に入ると、小・中学の同じ学校だった人が、50人中半数位いた。
その中の半数の人が、親しみをこめて声を掛けてくれたが、小学の頃着せ替え人形をして遊んだり、嫌いと言う給食ミルクを貰った友達だ。
やわらかい雰囲気が流れているのでホッとした気分になり、女子クラスに変わってよかったと思う。
そんな時、生徒会の委員を決めることになり、推薦された人に挙手をして、私が選ばれてしまった。
1年の時、委員を見ていたが、あまり忙しそうではなかったし、嫌ではなかったので引き受けクラスに馴染もうとした。
「料理も和裁も洋裁も下手じゃから、習いとうて男女クラスから替わってきたんよ。」と公言していたが、家庭科の授業は初歩からなので安心だ。
姉は、和裁・洋裁などとても丁寧に仕上げ上手で、先生に褒められていたが、妹の私は下手だが、先生達も歓迎して下さるのが分かり嬉しい。
おんちだからこそ、高校生会や音楽の授業で歌っていると、少しはうまくなるかと思え、楽しく歌えるようになった。
音楽の先生も教会のコーラスの先生も、「おんちはいない。正しい発声をすれば大丈夫。」と言っていたが、私は不確かでもあまり気にならなくなった。
瞳ちゃんとは同じ組ではないが、1年の時より登下校が一緒やおしゃべりが増え、以前より親しくなる。
2年生に慣れた頃、家庭科の増野先生は購買部の担当も兼ねていて、「購買部員になって下さい。」と頼まれた。
男女コースの嬉子ちゃんや、ひろさんも一緒だし、販売する事にはアルバイトで慣れていたので引き受けた。
購買部は朝始業前と昼食後、時々放課後開くので忙しい。
卓球部の活動は、上手になり強くなって試合に出るための練習になり負担になってきたし、忙しいので退部することにした。
ペンホルダーラケットでフォアハンドの素振り練習後、ラリーがどうにか出来るようになったので充分だ。
日曜日に高校生会の後で、卓球が以前より楽しく出来るようになり満足した。
後になって分かったのだが、次の段階のバックハンドの練習はしておらず、今だにバックハンドは下手なので残念だが仕方なかったと納得。

































  

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2015年03月09日

第84回 昭和37年初春 男女クラスから女子クラスへ


高校1年の3月初め、暖かい風がひろがり、通学路の梅の花が急にほころび始める。
「2年になる時、普通科の男女クラスから女子クラスに移動を希望する者は、申し出なさい。」と、担任が伝えた。
「エ!移動できるんだ。」と、嬉しくなる。
放課後、女子クラスの親しい瞳ちゃんに、様子を聞きに行った。
2年から、料理・洋裁・和裁などの家庭科の授業が始まり、選択で音楽か習字の科目もあることが分かる。
帰宅してすぐ、「2年になったら、女子クラスに移ることにするよ。」
「男女クラスには無い家庭科があって、料理・洋裁・和裁が習えるんじゃって。」
と、母に伝えた。
「それはいいね。」と、母は即座に応えたが、父も賛成ということが含まれている気がする。
母は、高校で花嫁修業が出来るし、忙しい自分が料理など教えられないので、好都合と思っていることが伝わってきた。
姉は家庭科(女子3クラスの内の1クラス)で、料理・洋裁・和裁のほかに、刺繍なども上手に出来るようになった。
姉も母も、家庭科で学んで良かったと思っているし、母は普通科でも家庭科の授業がある女子クラスが良いと思っているのだ。
しずちゃんとあっこちゃんが、「料理教室の授業料が必要。」と言っていたことを思い出した。
私は、同じ授業料で家庭科が学べるのは得策と思えたが、花嫁修業のつもりはない。
自分の着る服を作ったり、料理が出来るようになりたいだけだ。
次の日、教職員室に行き、担任に「女子クラスに移動したい。」と伝えた。
「女子クラスから、男女クラスに移動希望者がいるので、ちょうどよかった。が、なぜだ?」と、担任。
「家庭科を受けたいからです。」と、応えた。
「そうか、分かった。」と、担任は納得したようだ。
教室にもどる途中、2年になるのが楽しみになり、足取りが軽くなっていた。
授業が始まると、やはり男子が女子を見つめる視線が目に入ったが、驚いたことに、ひとつだが私をしばしば見つめている視線に気付く。
初めてのことで驚いたし、気になったり落ち着かないので、嬉子ちゃん達の嫌な気分が理解できた。
2年に進級する時、女子クラスに行くことにして、本当に良かったと思う。
慣れることが出来ない教室の空気や雰囲気に、もう少しの辛抱と思うと、気が楽になった。  

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2015年02月27日

第83回 昭和37年冬の終り スランプかな?


高校1年の冬、山の上は冷たい風が吹き寒い。
教室の空気の入れ替えの為、窓を開けると、「寒いから、早くしめろ。」という視線が向けられる。
満員バスに車酔いし酸素欠乏状態になったようで、私は休憩時間ごとに外の空気を吸いに出た。
私の2組の教室は、体育時間の男子の更衣室になり、男子の汗と体臭におおわれるので、更衣後入室するとますます気分が悪くなる。
その上、もう一つ目障りで嫌な事がある。
仲良しの嬉子ちゃんや、JRCで親しくなったひろさん達に、それぞれ数人の男子の視線が、しばしば走っているのだ。
美人で人気がある女子を見つめていたい気持ちを、分からない訳ではないが、私の視線に入るので気になるのだ。
見つめられる彼女達は、「気分悪いんよ。無視したり慣れたり気にせんようにしちょるんよ。」と言う。
見つめられる立場はもっと嫌なんだと納得し、男子の視線には慣れることにした。
「勉強の成績が落ち込んだ時に、スランプと言うんよ。」と、礼子ちゃんが教えてくれる。
私は弁論大会の気分悪さと、教室の空気に適応できず、高校生活にスランプ状態だと思った。
土曜日の午後のしずちゃんとの踊りのけいこや、その後のおしゃべりは気分転換になる。
その日は、中学3年の時のクラスメイトで、しずちゃんと洋裁学校に通っているあっこちゃんが遊びに来た。
コートとカーデガンの中に、洋裁学校で縫ったブラウスとスカートを着ている。
3人でしずちゃんの家に行き、夏に縫ったワンピースなども見せてもらったが、どれも上手で感心した。
「洋裁学校に慣れたので、これからは料理教室にも通うんよ。」と2人は、花嫁修業を着々と進めるようだ。
しずちゃんとあっこちゃんと、高校生活では味わえない素敵な時間を過ごす。
私は、花嫁修業の為ではなく、洋裁や料理を身につけたいと思っていた。
次の日曜日の高校生会は、幼稚園の年中組で開かれ、半畳の木のサークルの中に石炭を燃やす大きなだるまストーブが置いてある。
酸欠にならぬよう、少しだけ窓を開けているし、しばしば空気の入れ替えをしているので、気分は良い。
20名くらいの参加者があり、讃美歌をうたったり聖書研究をした後、おしゃべりや歌を楽しんでいる。
クリスマスに、隣の市の進学高校に通っている聖君が来たので、懐かしかった。
クリスマスキャロルに参加した時、「また来れる?」と、期待して聞いた。
「何時か分からんけど、また来るわー。」と応えたので、私はまた会って話したっかたので、日曜日休まず高校生会に参加することにしたのだ。
「男子は、自分が親しゅうなりたい女子が高校生会に来ちょると、自分も高校生会に来るんよ。」と誰かが言っていた。
が、高校の教室のように男子の視線が気になる事はなかった。
高校生会も、私にとって救いの時間なっているよう感じる。  

Posted by トンコおばあちゃん at 11:20Comments(0)

2015年02月13日

第82回 昭和37年冬 弁論大会


高校1年の正月、同じ組の礼子ちゃんに誘われて、家に遊びに行った。
すると、同級生男子が遊びに来ていて、礼子ちゃんは中学の時と同じ様に男子と親しいなと思う。
百人一首をしたが、私はやはり男子は苦手で、余り楽しくない。
3学期が始まってすぐ、クラス委員が「弁論大会があるので、出場者を決めます。誰か出ませんか?」と、みんなを見回した。
教室がシーンとなり、誰も出たくないようなので、話し合った結果、推薦して選ぶことになる。
数人の名前が出て委員が黒板に名を書いたが、私の名前も含まれていた。
希望者がいないのなら、このクラスは出なければいいのにと思ったが、発言しないことにする。
ここで目立つと選ばれるかもしれないからで、黙っていれば選ばれないと思っていたのだ。
挙手して選ぶ事になり、私に10人の人が手を挙げ、2番の人と1票差で選ばれてしまった。
「私は出られません。主張したい事や意見がないので、出たくないです。」と発言。
「みんなで選んだのだから出て下さい。」と、委員が言って決まってしまった。
私は気分が重くなり、机の上に頭を落として両手で抱え込み、「中学の時、皆が嫌なことを引き受けたからじゃろうか?」と思い、がっくりした。
そのまま頭を上げないでいると、「ごめんね。私にはできんから、お願いね。」と、大好きなえみちゃんがそばに来て頼む。
「としちゃんなら出来るから選ばれたんよ。協力するからやってね。」と礼子ちゃん達も言った。
「私は、やりたくないの。みんなが出とうないんなら、このクラスは、辞退したらええのに。」と私。
「そういう訳にもいかんのよ。」と誰かが言ったので、「そう思う人が出ればええじゃ。」と、私は言いたかったが黙っていた。
その時主張したいことが、芽生えたことに気が付いた。
「生徒会活動は、運動会や弁論大会などあるが、運動会のように希望者が出場するのがよいと思う。私のクラスは、弁論大会出場の希望者はいなかった。みんなに選ばれ、出たくないのに無理やり出る事に。生徒会活動は強制されてするのではなく、自主的に活動するのがよいと思う。希望者がいない時は、辞退できるようにする事を提案します。」と主張しようと思いついた。
帰宅して、一気に生徒会活動についての意見を原稿用紙に書いて、次の日持って行き、昼の休憩時間に礼子ちゃん達に見せた。
みんなは、私が出場しそうなので、安心したようすで原稿を読んだ。
「この内容は、生徒会のみんなを敵に回すことになるよ。」と誰かが言い、皆も同感のようだ。
午後の授業が始まった。
私が弁論大会に出る流れになってしまったので、投げやりな気持ちで、窓の外の校庭を眺めた。
山の上だからか、時々風が強く吹き、昼食のパンの入っていた袋や不用の空き箱が、しばしば飛ばされている。
その時も、ゴミになった袋や空き箱が目に入ったので、私はごみの事を思った。
「パンが袋に入っている間や学用品が箱に入っている間は、袋や箱は大切にされるが、中身が出したとたんにゴミになり粗末に扱われる。ゴミ箱に入れらないゴミは、風に飛ばされたり邪魔になるとか美感を損なうと嫌われ、足で踏まれたり蹴飛ばされる。どうぞ、ゴミになったらすぐにゴミ箱に入れて下さい。又、落ちているゴミを見つけたら、拾ってゴミ箱に入れて下さい。拾う時はお腹の贅肉が取れる運動になるのですから。ゴミ箱に入れば、ゴミはホッと安心できます。」と言う文章が浮かんできた。
家に帰って、風景を思い浮かべながら、読んだら2~3分になる文章を書き、次の日周りの女子に読んでもらった。
「昨日の文よりこっちの方がええよ。」という返事を聞いた後、「今後、絶対に嫌な事は引き受けんよ。」と、私はみんなに強く伝えた。
みんなは納得してくれたので、私はしぶしぶ練習して弁論大会の日を迎えた。
私の順番が来るまで、少し緊張していたので、他の弁論は内容が分からなかった。
数箇所間違えつつも、どうにか終えることが出来たが、気分は良くないので、後の弁論も耳に入らない。
最後の表彰の時、私は3位入賞だったので、「こんなことで、3位だなんておかしい。又嫌なことで選ばれるんじゃないか。嫌な事はもう二度としないぞ。」と、思いつつ先が心配になった。
後で、「生徒会役員は、内容よりも知っている人だからという理由で入賞者を選んだらしいよ。」という噂を聞いて、納得できなかった。
弁論大会の事は、珍しく嫌な思い出として残っている。


  

Posted by トンコおばあちゃん at 16:10Comments(0)

2015年01月28日

第81回 昭和36年初冬 クリスマスと平和


高校1年の12月の初めに、教会の大人の礼拝に出ると、牧師先生が「戦争と平和」について話された。
礼拝後、そのことについての話し合いが持れるので、哲ちゃんと参加することにした。
夏のキャンプの時も、戦争についてのプログラムがあったが、小学科の壁画制作を手伝ったので参加できなかった。
教会の婦人会のおばさんたちが作ってくれた美味しいうどんを食べた後、話し合いが始る。
「1940年国策で、諸宗教団体は、統合と戦争への協力を要請された。日本基督教団が成立し、この教会も属する事になった。」
「1941年12月、日本軍が真珠湾攻撃し、アメリカが第二次世界大戦に加わり、教会も大変になった。」
「戦争中は、憲兵が監視するなか、国策に沿った礼拝をして、苦労して教会を守ってきたんじゃ。」
「赤紙か来て戦場に行ったが、言葉に言い表せないほど悲惨だった。戦争に反対すべきだった。」
「朝鮮戦争が起こり、その特需で日本が経済復興できたことに対して、複雑な気持ちじゃ。」
など、色々な話を聞けて、よかったと思う。
会が終ってから、哲ちゃんが話してくれた。
「戦後、ドイツの教会が、罪責告白をしたんじゃ。日本の教会の中にも、戦争責任を考えている人がおるんじゃ。」
「じゃけど、教会が『社会問題を取り上げるべきじゃない。』と言う人もおる。」
などだが、哲ちゃんや高校生会のおばちゃん先生も、戦争や平和について考えている事を知り嬉しかった。
又、戦争や平和について色々な考えの人がいることも分かり、それも良いことと思えた。
小学生の頃、私は戦争や原爆の怖さを知り、特に爆撃機の音に体が震える。
中学生になって、世界は戦争を繰り返し、今も今後もどこかで戦争が起こることを知り、ずっと不安があった。
話し合う場があることが、私に安心感を与えてくれたことに気付いた。
話し合いの後、クリスマス前なので、キャンドルサービス(讃美礼拝)とクリスマスキャロル(ろうそくを持って、讃美歌を歌いながら街中を歩く)の準備の讃美歌練習が始まった。
教会の人達は歌うのが上手で、ソプラノ・アルト・テノール・バスに分かれて合唱するのだが、ハーモニーがきれいで良い気分になる。
「あめにはさかえー、地にはやすきー」「平和の君なる御子をむかえ」など平和を願って歌いながら、クリスマスキャロルを行うことを聞き、私も参加する事にする。
昨年までの日曜学校のクリスマスはとても楽しかったが、今年は平和について考え意義深いと感じた。
又、高校生会クリスマス会は昨年より楽しく、クリスマスキャロルも素敵だった。
次の朝は、近所の美容院のおばさんに、年末の手伝いを頼まれていたので、はりきって出かけた。
昨暮までは、近くのチェーンストアーの店番に行っていたが、若いお姉さんが夏から店員として働いているので、手伝いは不要になったのだ。
高校生になると、友達とでかけたり、高校生会で少しだが活動の為のお金も必要になった。
母は、姉が京都の短大に行き仕送りで家計のやりくりが大変らしいので、小遣いの増額は望めないから、アルバイトは助かる。
お店の床に落ちた髪の毛を履き集めたり、パーマネントのクリップを手渡すのが主な仕事で、難しくなく楽しかった。
  

Posted by トンコおばあちゃん at 22:25Comments(0)

2015年01月14日

第80回 昭和36年秋 クラブ活動に誘われて


高校1年2学期、大学受験のための課外授業を、一回限りで休んだので、「サボってるなー。」と言う目で、数人の男子に見られた。
「進学をやめたのよ。」と言い続けていると、見られることも無くなりホッとした。
しばくして、隣の中学から入学したキヨさんとひろさんに、JRCのサークルに誘われた。
Junior Red Croos(青少年赤十字)の略で、以前被爆少女サダコさんに千羽鶴を折って送ったグループと分かった。
目の不自由な人達との交流のために点字や手話を学んだり、校内の芝生の手入れ、養護施設訪問など、週1回活動するようだ。
今で言う、ボランティア活動のようなものだった。
早速、放課後参加してみると、あいうえおの点字表と点字板が置いてある。
点字は、ローマ字の形式で表すので、目で見て読めそうだが、指で触って読むのは難しそうだ。
次の時は、手話の指文字のプリントを見ながら、すでに身につけたキヨさん達が教えてくれた。
点字も手話の指文字も、初めは新しく珍しいことなので、興味を持ったが、放課後学ぶのは疲れを感じる。
続けていると点字も指文字もどうにかゆっくりだと出来るようになったが、これでは実際役立たないと思うし進歩もしない。
校内の芝生に生えた雑草を抜いたり、水を撒く活動は好きで、他のメンバーよりも長い時間できて、気分爽快になる。
放課後疲れていても、好きな事は細かいことでも出来るが、苦手な事には集中できず身に付かないと、自覚する。
結局、課外授業も勉強が好きではないから、集中できないのだと納得した。
次に、卓球部に誘われた。
JRCの活動日は、休んでもいいらしいので、入部してみる。
準備体操の後は、先輩が打ち合っているのを、見学したりボール拾いをする。
それが終ると、新入部員は素振りの練習を始め、先輩が指導してくれる。
以前てっちゃんや靖くんと卓球をした時、上手に打ちたいと思っていたので入部したのだが、先輩が教えてくれるので、ありがたい。
大学進学を止め課外授業を受けないので、いろんなことが出来るのが良いな。
毎年、生徒会主導で秋の体育大会が行われるが、赤豹・白虎・青龍の3チームに分かれて、いろんな競技を競う。
数日前から、高さも横幅も10メートル位ある赤豹・白虎・青龍のとても大きな立て看板を、上級生が作り始めたので驚いた。
各競技には、希望者が出ればよいので、その点は嬉しい。
プログラム最後の盆踊りを、踊りの先生が教えに来てくれた。
体育大会の準備は自主的に行われ、私にとって高校生活の中では、クラブ活動以外で珍しく楽しい事だ。
当日は、各競技もだが、応援合戦では特に盛り上がった。
一つだけ気になったのは盆踊りで、しっかり覚えていないので、まごつくことが多く、自分も周りを見ていても楽しさに欠けたことだ。
その頃、母は近所の人と、日舞の先生から、盆踊りや民謡や流行歌などの軽い感じの新舞踊を習い始めた。
私も、親しいしずちゃんと一緒に、「さくらさくら」の踊りから習い始めた。
これが難しく感じないし気分も良いので、次の体育大会で楽しく踊れるためにも続けることにした。
私は体を大きく動かす事が好きだと、再自覚した。

  

Posted by トンコおばあちゃん at 09:24Comments(0)

2015年01月01日

明けましておめでとうございます


「ラムネ屋トンコ」を再開して、1年になりますが、ご愛読ありがとうございます。
11月に、風邪を引き体調をくずし、毎週の掲載が無理でした。
今年は、ぼちぼち続けて行こうと思いますが、今年中に高校卒業までと思います。
どうぞお付き合い下さいませ。
皆様のご健康とご多幸を、心よりお祈り致します。
ラムネ屋トンコ  

Posted by トンコおばあちゃん at 17:22Comments(0)

2014年12月21日

第79回 昭和36年初秋 大学受験は無理かな?


2学期、まだ暑い放課後、大学受験希望者のための課外授業が始ったので参加した。
有名大学を狙っている男子も多く、熱心さが伝わってくる。
まず代数のプリントが配られた。
解いたことのある問題ばかりで解き始めたのはいいが、集中力が低下した感じで答えに辿り着かない。
次の英語の時間、頭が疲れて眠くなったので、英文を訳す事もできずボーっとしていた。
次の日、「疲れているので、休みます。」と教師に伝えて帰る途中、私には受験勉強は無理ではないかと思い始める。
間もなく、卒業後進路についてのアンケート用紙が配られたので、母に見せて、「絵の教室の先生になりたいから、小学校の教師になれる大学に行きたいの。」と、話し始めた。
「実はね、お父さんは学校の先生になるのだけは、反対なんよ。」と、即座に母は応える。
「従姉の秀子さんが、小学校の先生になってから、上から目線の態度で話すから、嫌いなんよ。」とも付け加えた。
法事の時、秀子さんが来てみんなに話し掛けると、それまで和やかに話していたみんなが、しらけた雰囲気になった事を思い出した。
「それに、私も大学は反対なんよ。結婚相手が大卒になり幅が狭まるのよ。お姉ちゃんのように、短大家政科(服飾科)卒なら、お見合い相手は、高卒の人も大卒の人も、両方いいのよ。」とも母は言った。
夏休みの終わりに、母の姉の家に行った時、東京の美術大学生の従姉が、体調を崩して帰っていた事を思い出した。
従姉は、兄弟が多く親に負担を掛けたくないので、アルバイトをしながら、通学していて病気になったのだ。
その時、私には、アルバイトをしながら大学に行くのは、無理と思えた。
大学受験の課外授業も受けられないし、自分自身で受験勉強は出来ないと思う。
母の話すのを聞きながら、親の反対を押し切って大学に行き「絵の教室の先生」になろうという強い意思は、無いことに気付く。
その時、父の「先生になったら、上から目線の人になる。」と決め付ける事に、私は納得出来なかった。
子どもの頃から、口達者な秀子さんに、口下手な父はやり込められていたので、単に嫌いなだけではないか。
また、母の結婚する目的で進路を決めることにも、同意できない。
私は、結婚したい気持ちはないので、卒業後、自分の出来る仕事に就き自立することが目標だ。
中学卒業後、働いている哲ちゃんや靖くん達をかっこいいと思っていたので、影響されたように思う。
また日曜学校のキャンプの手伝いをしたり、絵画のサークルに入り、余暇を楽しめたらいいな。
それまで、父や母に、強制されたことは無かったが、進路の事で親の希望を押し付けようとする事が分かった。
絵の先生については、具体的に真剣に考えていなかったが、これからは自分の進路について、しっかり考えようと思った。
  

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2014年12月02日

第78回 昭和36年夏 キャンプで壁画作成


高校1年の授業は、代数1と幾何1、現代文と古文、生物などの科学、歴史など公民社会と教科書が増えた分、忙しい感じだ。
一方、気分転換になる授業は、保健体育が週2時間あるだけで、後は全部机に座ったままの授業で、私は午後特に頭が疲れる。
中学の時のように表現したり体を動かしたり笑顔になる授業が無いので、それらの授業が懐かしい。
日曜日の高校生会で、讃美歌を歌ったり、唱歌や流行歌の歌声喫茶のようなプログラムは、オンチの私にも楽しかった。
嬉子ちゃんが出席の時は、必ず帰りに近くの図書館に寄るので付いて行き、勧められた本を読んだ。
その頃は以前に比べて、教科書と同じ程度の長さで内容が易しい小説が読めるようになっていたが、読書にあてる時間がなかなか取れない。
教会学校の部屋から、ピンポン球の音がするのを、楽しみにしていたのだが、靖くんは仕事が休みの時しか来れないので、たまにしか卓球が出来ず残念だった。
土曜日のしずちゃんの家での料理の手伝いと、週一回お兄さんの仕事が休みの夕方のマージャンが気分転換になる。
土日の楽しみがあったので、変化の無い新学期の高校生活を無事過ごし、夏休みをむかえる。
土曜日に、敏春先生の絵の教室に行きたかったが、先生は山奥の小学校の教頭先生になられて、会うのが難しくなった。
冬の大売りだしの手伝いに洋装店に行った時、「夏休みに手伝いに来てね。」と子ども服店のおばさんに頼まれていたので、いそいそと出かけた。
そんな時、日曜学校の小学科の先生をしているおばさんに、「夏のキャンプの時、子ども達で壁画を作るんよ。手つどうてね。」と、頼まれる。
キャンプは、お盆の頃で、子ども服店は盆休みなので、ちょうどいいので、「ハイ、手伝います。」と笑顔で応えた。
おばさんは絵を描くことが好きで、「日展」という大きな展覧会で入賞した人だ。
キャンプ当日、おばさんが、3人の博士の絵葉書を見ながら、4枚貼り合わせた模造紙に、太い筆に墨汁を付けて、博士達を描いた。
私も、博士のマントの裾や足を描く。
墨が乾く間に、みんなで、色紙や色つきの包装紙を、3~4センチ角にちぎる事にしたが、おしゃべりしたり歌をうたいながら楽しくドンドン出来た。
ちぎった紙を色分けした時、ちょうど昼食の時間になった。
婦人会のおばさんが、手作りのおにぎりと玉子・じゃがいも・竹輪・こんにゃくの関東煮を持ってきてくれたので、美味しく食べた。
食後さっそく、紫のガウンは1年生、緑のガウンは2年生と言う風に、みんなで手分けして色紙を貼り始める。
おやつの時間前に、大きな壁画が仕上がり歓声があがり、すぐに礼拝堂の壁に貼ることにした。
輝く壁画を見た婦人会のおばさん達が、「すごいねえ。」「よく頑張ったねえ。」「立派な作品じゃねー。」と拍手喝采を送ってくれたので、子ども達は誇らしい顔。
次の日曜日にも、礼拝堂の壁画を見た教会の人達みんなが、同様に感心して褒めてくれたので、子ども達はますます嬉しくなった。
私は、この時、やっぱり「絵の教室の助手か先生になりたい。」と、強く思った。

  

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2014年11月25日

第77回 昭和36年晩春 高校生会


中学卒業後すぐ、日曜学校中学科の歓送迎会に参加して、歌やゲームやおしゃべりを楽しんだ。
その時、4月初めにある高校生会の歓送迎会に誘われたので、クリスチャンホームの嬉子ちゃんや礼子ちゃん達と参加すると、中学3年の時同じ組の哲ちゃんも来ていた。
会場の幼稚園の保育室に園児の椅子が円形に並べてあり、くじを引き席に着く。
司会者の挨拶の後、「アルプス百万尺」などの唱歌や「南国土佐を後にして」などの流行歌のプリントが配られ、みんなで歌い和やかになってきた。
次にゲームで、1・2と手を打ち、3・4は手を左右に開くと同時に、リダーが「1・8」と、自分の番号の1と他の人の番号を言う。
次に8番の人が「8・6」と言い、「6・15」「15・7」と続いて行き、だんだんスピードが増してくるが、先輩達は慣れていて余裕があり上手。
大変になって付いていけない新人は、×席に移動し、ばつゲームをすることになるが、愉快なゲームだ。
その後茶話会になり、自己紹介の後、高校生会の紹介が始った。
毎週日曜に、聖書研究会があり、月に1回は今回のような歓送迎会や親睦会が開かれ、会員みんなで相談計画して活動しているようだ。
教会からの支援もあるが会費を集め、自治的に運営しているのが気に入った。
5月ピクニック・6月花の日運動会・7月キャンプ準備・8月キャンプ・戦争の話を聞く会・9月養護施設訪問・10月・文集作りなどの行事計画が発表された。
戦争の話を聞く会・キャンプ・養護施設・文集作りは自分では出来ない事なので興味がわき、嬉子ちゃんや礼子ちゃん達と一緒に入会することにした。
最後に、外の円に女子、内の円に男子と分かれ、オクラホマミキサのフォークダンスが始まる。
特に男子は嬉しいらしく、張り切っているのが分かり、時々足の動きを間違いつつもにこやかに踊っている。
手を取り合って踊るのだが、強く握る手、引っ張りすぎる手、汗ばんでいる手、オバーに動かす手などと移っていくのだが、私は最後まで慣れず、フォークダンスを楽しめなかった。
私は男子とフォークダンスをするのは苦手と自覚したが、みんなは好きらしく、その後のいろんな会の終わりには行われた。
次の日曜の朝、聖書研究会に参加すると、哲ちゃんも来ていて、中学の時冗談ばかり言っていたが、熱心に取り組んでいるので驚く。
「はじめに言があった。」という聖書のヨハネによる福音書の勉強だが、小学科の時から、「聖書物語」というイメージを持っていたので、中学の歴史や古文に近いと思った。
だが、当番の人が、古い文語体の聖書で下調べして来たり、みんなで疑問点を出し合う研究会は面白いと感じる。
高校生会に参加したある時、「昼から、卓球を一緒にしようやー。」と哲ちゃんが誘ってくれたので、行ってみると、中学科の部屋に卓球台がセットされていた。
哲ちゃんは、中学卒業後石油会社に入社し、夜は定時制高校に通っている。
哲ちゃんの友達で運送会社に就職した靖くんも来ていて、二人で打ち合いをしていた。
哲ちゃんは、打ちやすい球が来ると、力を込めて強く打ち込み、相手が返せないと、ヤッターと歓声をあげ、ゲームをしたいと言う。
一方、靖くんは、丁寧に相手の打ち返しやすい一定の場所にボールを返して、強く打ち込まない。
そこへ、牧師先生と礼子ちゃんも着て、ゲームが始った。
中学の体育の時間、卓球を少しだけ経験したが、私はうまく打てないでいた。
哲ちゃんと始めると、早いサービスを打ってくるので、打ち返せないし、こちらがサービスを打つと、強く打ち返してくるので、すぐゲームは終ってしまう。
一方、靖くんとゲームをすると、打ちやすいサービスが来るので、どうにか打ち返せる。
すると、また打ち返しやすいボールを返してくれるので、2・3回続いて打てるので、卓球が上手になったような錯覚を持ってしまい楽しくなった。
高校生会と卓球の両方に興味が深まった。
  

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2014年11月10日

第76回 昭和36年春 高校入学


山の高校は文字通り小高い山の上にあり、周りに緑の木々や花も見られよい環境だ。
近くの生徒は徒歩通学、遠くの私はふもとまで自転車通学で、20分くらいかかる。
大学進学希望者のためと思えるが、受験科目の多い男女混合組が3クラスあり、料理や洋裁や音楽などもある女子のみの3クラスがある。
その時、私は絵の教室の助手になりたい気持ちだったので、大学に行った方がよいと思い、男女クラスに在籍した。
ところが、驚いたことに女子が3分の1しかおらず、周りが男子ばかりで落ち着かない気がする。
保健体育の時間は3クラスの女子が一緒なので、ホッとしておしゃべりに花が咲くが、少ししか話せない。
中学の歴史の授業で、日本も世界も戦争を繰り返して来たことを知った。
大分前隣の国でも、朝鮮戦争が起こったが、3年後休戦協定が調印され、その後級友が帰国したことも分かる。
去年は、岸首相の推し進めた新安保条約は戦争に巻き込まれる恐れがあるからと、「安保反対」のデモが各地で起こり、6月に大学生樺美智子さんがデモ中に倒れ、死亡した事もテレビで報道された。
私は、特に第二次世界大戦について、なぜ起こったのか知りたかったが、周りの大人達は、戦争に行った人達も行かない人も、思い出したく無いし話したくない雰囲気だ。
戦争や原子爆弾に怖さを強く感じていたので、高校ではもっと詳しく戦争の歴史が学びたいと思っていた。
歴史などの教科書は厚くなり項目は増えたが、あまり詳しく書かれていない。
社会科授業の時、「主権在民」について調べる宿題が出た時のことだ。
指名されたので、「去年、安保反対を主張する多くの人達がデモをし、警察隊と衝突した時、樺美智子さんが倒れて死亡した事が報道されました。主権在民というが、安保条約について国民の意見が充分聞かれたのか、疑問を持っています。」と、発言した。
「授業では、実際に起こっている時事問題は、取り上げないこと事になっている。教科書に載っている事を・・・・。」と教師が言う。
しばらくして、第二次世界大戦の事が取り上げられた時、「なぜ、この前の戦争が起こったのか?」と聞こうとした。
「教科書に書かれている事以外は、時間が少ないので取り上げられない。それに、近代史は大学入試試験には出ないんだ。」
と、また教師が同じ様な事を言った。
「またいらん事を言うちょる。大学受験に不要な事を聞いていらんわ。」という雰囲気が、教室に漂う。
高校では、私の知りたい事を学べないようだ。
自転車通学と授業に集中すると疲れるので、気分転換にしずちゃんの家でマージャンなどしていると、疑問について自分で調べる余力は無かった。
姉は、京都の服飾関係の短大に行き、家庭マージャンは出来なくなったので、しずちゃんの家でのゲームは楽しみになっていた。
  

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2014年10月29日

第75回 昭和36年別れの春 いよいよ中学卒業


中学3年の年末は、近くの商店の手伝い、百人一首を詠むこと、テレビを観るなど例年通りだった。
今年になって、ひとつだけ変わったことがある。
去年、私はしずちゃんの家でマージャンを教えて貰い、トランプより好きなり楽しみになっていた。
一方、父は、最近引っ越してきたお宅の人に「マージャンのメンバーが足りないから・・・。」と誘われ、いそいそと出掛けた。
「トランプのセブンブリッジに似ているから、すぐ分かった。トランプより面白い!」と、自慢げに帰って来る。
次の日、父がマージャン牌を買ってきて、父と姉弟4人でマージャンを始めた。
昨年までの毎週水曜の「トランプの日」は、「家庭マージャンの日」に変更になり、みんな夢中になる。
私は、水曜の午後は運動や遊びを少し控え、気力体力と頭をちゃんと使ってマージャンが出来るようにした。
近所のおばちゃんが「受験生がいる家とは思えんね。」と言っているらしい。
雪がわずかだが降った日もあったが、通学途中の梅がほころび初め、春の気配が感じられる様になった。
クラスみんなの受験校も決まり落ち着いた様だが、受験時の心配があり、少々ピリピリした雰囲気だ。
2年の時同じ組だった弘君が、市内の工業高校の新設の電気科を受験するらしいと伝わってきた。
大学受験希望者は、山の高校のほうが有利らしく、「弘君はどうして工業高校にいくんじゃろう?」と友達が言う。
「どうしてじゃろう?」と相槌を打つと、「そりゃー、頭が良えから電気科に行くんじゃろーと思うよ。」
「自分で聞いて見れば。」と友達が言ったが、納得したし男子と話す習慣がなかったので、わざわざ聞きに行かなかった。
中学3年になってたまに会話した男子は、クラス委員をしていたトオル君と伸太君とそれから賢チャン、日曜学校に通っている哲ちゃんだけの気がする。
工業高校の定員が増えたこともあり、成績の良い女子も何人か受験するようだ。
私は、絵の先生になりたい気持ちがあるので、山の高校に受験することにした。
そんな時、「今年は、中学開校以来始めて、高校合格率100パーセントが可能になると期待していた。」と担任がしゃべり始めた。
「ところが、山の高校に合格無理な7人が受験するので、100パーセント全員合格は残念ながら無理になった。」
「この組は、みんな合格できる高校に受験するので、良かった。」と担任。
それを聞いて、私達一人ひとりの受験生よりも、合格率を重要視しているように思え、気分が悪くなる。
そして、高校入試を終え合格発表があり、クラス一同無事卒業することになった。
クラスの数人は、家を離れて集団就職で遠くに行くのだが、「夕方から、定時制高校に行けるのよ。」と話すので、頼もしさを感じる。
「3年後に、クラス会をしようね。」と、再会を約束して別れた。

  

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2014年10月20日

第74回 昭和36年初春 カズオ君の思い出


中学3年の2学期に転校してきたカズオ君は、時々学校を休んでいたが、3学期になり欠席が続いたので、みんなは心配し始めた。
彼は、数学と英語の授業の時は、促進学級に行っている。
「カズオ君の家に行って、学校に来るように言ってくれ。」と担任が、女子のクラス委員に頼んだ。
委員は友達と2人で、カズオ君の家に行って、担任の伝言を伝えたそうだが、カズオ君の欠席は続く。
そこで、カズオ君の隣の席で、時々話を聞いていた私が、様子を見に行くことになった。
昨年、「お父さんの仕事の関係で、1年間に1・2回転校してきたんだ。オレは仕事の手伝いをしたり、飯作りをしよる。」と、カズオ君は話していた。
「時々学校を休むから、勉強に付いていけんかった。促進学級に行くけど、おもしろうないから気が進まん。」と彼。
それでも、彼はしっかり生活していると、私は思った。
「お父さんは、義理人情を大事にしとる。」とも彼は言ったが、我家では使わない言葉なので、よく分からない。
下校時、カズオ君の所に寄った。
「コンニチワー。元気そうで安心したよ。お父さんの手伝いで忙しいの?」と声をかけた。
「うん。ちょっと忙しいんじゃ。促進学級にとしこ君と一緒なら行くんじゃけどな。」と、カズオ君はうかぬ顔だ。
促進学級に誘われた気がしたので、「そっかー。考えちょくわ。」と私は応えた。
「今から、買い物に行って、夕めしを作るんじゃ。」とカズオ君
「体に気を付けてね。また来るわ。」と言って別れた。
私は、ずっと前にも、促進学級に誘われたことがある。
脚が不自由で勉強も遅れがちという1年下のあきら君が、朝から促進学級で縄編み機に藁を差し込んでいて、真剣な顔だった。
1時間目の授業の後、廊下を歩いていると、あきら君がまだ縄を作っていて、随分長く出来ているのが見える。
「まだ頑張っているの!すごいね。むずかしいの?」と聞いた。
「初め慣れんじゃったけど、今じゃあ簡単じゃ。教えちゃろうか?」
「この教室に来たら何時でも出来るぞ。先生に頼んじゃろうか?」とあきら君。
あの時も、「考えちょくわ。」と言ったきりだったが、今度は先生に頼んで、促進学級に行ってみようと思った。
次の日、カズオ君のことをみんなに伝えようとしていると、始業すれすれに、彼がやって来た。
隣の席に座って、「としこ君に、義理人情を感じたから、来たんや。」と言う。
その日は、国語・音楽・体育などの授業があり、促進学級に行く数学や英語がなかったので、カズオ君は冗談を言ったりして陽気に教室で過ごした。
次の日から、またカズオ君は来なくなった。
担任から、お父さんの仕事の都合で、急に転校したと聞かされる。
一緒に、促進学級に行こうと思っていたのに、残念だった。
彼は、どこでも賢く暮らせるから大丈夫と思いつつ、健康を祈った。  

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2014年10月13日

第73回 昭和35年冬 中学3年のクリスマスの頃


中学3年のクリスマス前、日曜学校の中学科で、隣の市の親のいない子ども達のための養護施設を訪ねることになった。
教会の人達から預かったお菓子や本や衣類などのクりスマスプレゼントを持って養護施設(当時は、戦前のように孤児院と言う人もいた)にむかう。
大きな木のあるお寺の施設に到着後、大きい部屋に子ども達が集まったところで、クリスマス会を開いた。
クリスマスの歌に続いて、ハンカチを上にあげた時は笑い、下におろした時は笑わないというゲームを始め、賑やかになる。
「オーチタ落ちた!アーメが落ちた。」のゲームの時、手を小さく広げる子や大きく広げる子や口を大きく開けて上を向く子がいて大盛り上がりだった。
また、「オーチタ落ちた・雨が落ちた。」の時は、傘をさす格好の子もいたが、幼い子達は飴と思い戸惑っていたが、愉快でみんな大笑いした。
終ってから、庭で縄跳びなどして元気に遊んでいると、日曜学校と施設の先生達の話し声が聞こえてきた。
「色々な物を届けてくださって、とても感謝しますが、必要な物はちゃんとあるんですよ。」
「困っていることは、ここの子達は高等学校に行きたいのに行けず、ここを出て住み込みで働かねばならないことです。」
「高校に行ける様になること、中学生になると勉強が難しくなるので一緒に勉強して貰えること、又、今日の様に、一緒に遊んで友達になってもらえる事が希望です。」と言う内容だ。
「自分にして貰いたいことは、あなた方もそのように人々にせよ。」という聖書の言葉を思い出した。
「親切にしましょう。」も、頭に浮かぶ。
私は、自分のせねばならぬことと遊ぶことで精一杯。
周りの人に親切にすることは、なかなか出来ないでいる。
プレゼントすることと親切にする事は良い事と思っていたが、相手のことを充分理解してから、適したプレゼントしたり親切にすることが大事なことに気付く。
また、高校に行きたい人が行けるようになるべきだと思うし、施設の中学生と一緒に勉強することや友達になる事は、どうにかしたいと思った。

  

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2014年10月06日

第72回 昭和35年晩秋 クラスメイトと山登り(2)


生徒手帳の校則の中に、「校区外に出かける時は、制服を着用すること。」「生徒だけで、校区外に出かける時は、届け出る事。」を見つけた。
中学入学時、一度目にしたことがあるが、実際はみんな私服で出かけている。
また、生徒だけで出かける時も、届け出た事はなかったので、忘れていた。
突然、素行不良とは酷すぎる。
教師なら、「今後は、生徒だけで校区外に出かける時は、届け出てください。」と言うべきではないか。
そうではないから、私は、担任を「先生」とか「教師」とは言わないのだ。
そこへ、担任に呼ばれて行ったじゅんちゃんが、帰って来た。
「男子と行ったことが、問題のようじゃから、『隣の家の2年男子と約束して、一緒に行ったんじゃありません。』と説明したら、『言い訳は通用しない。不良と言われてもしようがない。』と言われたんよ。」と暗い顔だ。
私達は、内申書に書かれるような悪い事を、していないと思う。
2年の時の馨先生に相談したいが、転勤なさり無理だ。
しかたないので、しずちゃんのお母さんとお兄さんに登場してもらうことにした。
私は、その事をしずちゃんに伝えてから、職員室に向かう。
担任に近づくと、開口一番「何ということをしてくれたのだ。僕の立場を考えてくれ。」と不機嫌な声だ。
担任の言いそうなことだと、思いながら聞いた。
「しずさんのお母さんとお兄さんの付き添いで、大島山に登りました。」「問題ありますか?」と言いかけた。
それを遮るように「付き添いがあれば、何の問題も無かったんだ。それを、早く言って欲しかった。それなら、僕の立場が悪くなる事はなかったんだ。」と、担任はへらへら顔。
「内申書に書かれる様なことはありませんよね。」と確かめると、「もちろんだ。」と、担任は今まで口にした問題発言は忘れたようだ。
私の中には、文句を言いたい気持ちがあったが、「内申書に、不都合な事を書かれないよ。」と、きよちゃんに早く伝えたかったので、教室に急ぐ。
しずちゃんから、お母さんとお兄さんが付いて来ていたことを聞いていたみんなは、私の報告を聞いてやっと安心の様子。
楽しい事も心配事も共に味わい、友情が深まった気がした。
  

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2014年09月29日

第72回 昭和35年晩秋 クラスメイトと山登り(1)


中学3年の運動会が終ると中間テストなので、女子が放課後教室で勉強をすることに。
その結果、みんなはテストの点が1学期より上がった。
「よく頑張ったから、遊びに行こう。」と話し合い、休日に大島山に登る約束をした。
当日は、大島山のふもとまでバスに乗り、下車してから、賑やかにお喋りしながら登る。
誰かが秋の花や紅葉の葉を見つけて、「あそこを見てー。」と、みんなは「きれいー!」と声をあげて喜んだ。
高い青空の頂上に着いて、眼下を見下ろすと、遠くに切戸川の流れが見える。
河口近くに、小さなマッチ箱の我家としずちゃんの家を見つけ、みんなで楽しく地図の勉強だ。
お弁当を食べ、歌ったりバレーボールでパスをしたりと、愉快に過ごす。
頂上で会ったじゅんちゃんの隣の家の2年の男子にも、おやつを分けた。
「じゅんちゃんが、『山登りするんよ。』と言うたから、俺も登りとうなったんで、登ってきたんじゃ。」と、彼は言う。
下り始めてしばらくして、私は、少し先を下山しているしずちゃんのお母さんとお兄さんを見つけた。
「しずが心配だから、付き添って登ろうかな。」と、昨夕お兄さん達が話していた。
「大丈夫!絶対付き添って来んでね。」と、しずちゃんはきっぱり言った。
やはり心配だから、見えないようにして付いてきたのだと、私には分かる。
私以外のクラスメイトは、おかあさんとお兄さんの顔を知らないし、見えないので気がつかない。
私達は、又バスに乗って、「本当におもしろおてえかったね。次のテストの後も遊びに行こうね。」と約束した。
自家用車のお母さんとお兄さんを見つけたしずちゃんは、「心配で迎えに来ちょるけど、私はバスで帰るわ。」と、笑いながら手を振って言っている。
終点の駅で下車し、みんなと別れて、しずちゃんと私はにこにこ写真館に寄った。
しずちゃんの運動会の写真が出来上がった時、「中心をこちらにした方がええなあ。」「これは、逆光じゃあないし、ええ写真じゃ。」など、アドバイスをしてくれたので、気に入った写真屋さんだ。
しずちゃんは、お兄さんのカメラを借りて持ってきている。
私のカメラは、この夏、カメラの当たる懸賞に応募し当たらなかったが、割引優待券が届いたので、2.000円で買ったものだ。
写真を受け取った次の日、教室でワイワイ言いながら、皆と写真を見ていた。
きよちゃんが、担任に呼ばれて行き、しょんぼりして帰って来た。
「届出せず、生徒だけで山登りをしただろう。しかも男子と一緒にだ。校則違反だから内申書に素行不良と書くぞ。」と、担任に言われたそうだ。
「公立高校にすべったらどうしよう。私は私立には行かせてもらえんの。」と、今にも泣き出しそうだ。
運動会のムカデ競争の次に楽しい思い出の後に、なんということだ!
私は、まず校則の載っている生徒手帳のページをめくった。
  

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2014年09月22日

第71回 昭和35年秋 運動会(2)  


中学3年の運動会の時、もう一つの役割があった。
それは放送係で、プログラムの紹介と、レコードをかけることだ。
プログラムの放送内容は、すべて原稿にしてあるので、それを読めばいい。
レコードは、競技ごとに、行進曲、駆け足曲、競技中の曲と決まっており、プログラムに記入されているので、その通りにかければよい。
ただ全校生徒の行進曲は一曲では足らないので、続けて次のレコードをかける必要があり、その時が大変だ。
レコードプレーヤーが、2台用意されていて、1台目の行進曲に合わせて、全校生徒が右左右左と足をあわせて行進する。
行進曲が終る前に、2台目の行進曲をかけた時、右左右左とスムースに行進できる様にしなければならない。
目の前の行進を見ながら、イヤホンで次の2台目の行進曲を聞いて、右左右左が合わなければ、合うまでかけかえる。
ちゃんとあった時、切り替えスイッチを入れるのだが、行進がスムースに続くのを見届け、ホッとするのだ。
当時、中学にはテープレコーダーがなかったので、全校生徒の行進の練習があるたびに、放送係が注意をはらい、行進がうまくいくよう協力した。
予行演習の日は、行進が長く続き、みんなも放送係も汗をかいた。
運動会当日は、私達のムカデ競争では、数人が転んだが、慣れているのですぐに体勢を整えて進み、ビリではなかったのでみんなで喜んだ。
運動会終盤の整理体操を、私は間違えずに出来たので良かった。
放送係では、プログラムの紹介の時、たまには「赤組がんばれ!」「体操部の皆さん、器械体操をかっこよく頑張っています!」などと付け加えて、楽しく出来た。
全校行進は、やり直しが無かったので短く感じ、運動会はあっという間に終った。
当時、レコードは2種類あって、プレーヤーの回転数とレコード針の変更が必要だったが、どうにか出来た。
運動会が終った時、私は針をレコード盤にそっと置くことにも慣れ、放送係が好きになっていた。
この経験が、その後の私にとても役立ったと思う。  

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2014年09月15日

第71回 昭和35年秋 運動会(1)


中学3年の9月、バレーボール部顧問で保健体育の教師が、「今日は、ラジオ体操を何時もと違って、右から始めよう。」とみんなに伝えた。
教師はラジオ体操を大切に考えている様で、いつも丁寧にきちんと正しく行うよう言っている。
ひごろ、教師は対面で右から体操を行い、みんなは見習って左から行っていた。
今日は先生の背中を見て、真似をしながら右から始めて体操をすることになった。
まず、第一ラジオ体操だが、みんなは間違う時もあるが、どうにか右から体操する事が出来た。
私は終る頃には、「12345678」と言いながら体操する時、右から動く所は「みぎ2345678」と言いながら続けると、案外間違えずに出来ることが分かった。
次は、第二ラジオ体操だが、教師は対面になり左から動きを始めた。
みんなはそれを真似しながら右から体操を続けたが、混乱してくる級友もいて、笑いながらだ。
私は、第一と同様に右から動くところは、「みぎ2345678」と言いながらだと、スムースに体操ができた。
指名され、私が前で対面して、みんなはいつもどうり第二ラジオ体操をすることになった。
これが、案外簡単で、前のみんなを手本にして同じように動けばいいのだ。
もちろん、「みぎ2345678」と頭の中で、言いながら体操したが、楽しくできた。
授業が終って教師に呼び止められた。
「運動会の終わりの整理体操の時、第二ラジオ体操を、みんなの前でしてくれたまえ。」と言われた。
昨年の運動会の整理体操の場面が目(脳)に浮かび、私より上手でスタイルの良い運動部のメンバーが、整理体操をした方がよいと思えた。
「もっと上手な人がいいのでは?」と応えると、
「君は、丁寧に体操しているし、右から出来るからいいんだ。」と先生。
バレー部退部したことを思い出し、ラジオ体操もことわったらまずいのではと思い、引き受ける事にした。
その頃、将来を考え始めた私も級友も、高校へ行く事を話し合っていたのだ。
内申書があることが分かり、真面目な中学生である必要を感じ始めていたので、補習授業を受けない私は、ラジオ体操役を引き受ける方がよいと思えた。
帰宅して、ちょうど田舎から来ていた祖母と母に、「運動会の時、ラジオ体操を演台ですることになったんよ。」と伝えた。
「ブルマーを穿いて、太ももを出して、高い所で体操をするんかいのう。」
「男がすればいいんじゃ。なんとはずかしいことじゃ。嘆かわしいことじゃのう。私にゃあ考えられんのう。」とおばあちゃん。
母は、笑っていた。
運動会の準備は、もう一つあった。
3年生女子は、組別対抗ムカデ競争があるのだ。
先頭のメンバーの右足首と2番目のメンバーの右足首をたすきでつなぎ、左足首も同様にする。
つぎに2番目と3番目のメンバーも同様に繋ぎ、15名のムカデの様な列を作る。
15名同時に右足を上げて下ろして前進し、次に左足を上げて下ろして前進する、ムカデが進むような競争だ。
チームワーク作りのためにも、かなりの練習が必要で、休み時間や放課後、忙しかった。
たびたび転ぶので笑いの絶えない練習で、女子全員親しくなった気がするし、3年生で一番記憶に残る愉快な活動だったと思う。
  

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2014年09月01日

第70回 昭和35年盛夏 子ども服店のアルバイト


中学3年夏休みになったばかり、絵の教室のキャンプの帰り、駅の方から大回りして、元町商店街を通って帰宅する事にした。
元町洋装店の隣の元町子ども服店の若い奥さんが、大きなお腹を抱えて、店先に立っている。
いつも、にこやかに声を掛けてくれる奥さんなので、私も笑顔で挨拶した。
洋装店のおばさんの息子さんの、若奥さんなのだ。
「ちょうどいいところで会ったわ。もうすぐ、赤ちゃんが産まれるのよ。」
「夏休み中、手伝いに来て頂戴ね。お中元の配達もあるから忙しいのよ。」
「はい。お手伝いします。」と、やったー!ラッキー!と跳び上がるほど嬉しい気持ちを抑えて、ニッコリ顔で返事をした。
若奥さんは、「これで安心。」という表情だったが、私も「これで夏休みは安心。補習授業は休めるぞ。」と、同じような気持ちだ
次の朝、「親戚のお産の家に手伝いに行くので、補習授業を休みます。」と、学校へ伝えに行った。
翌日から、子ども服店の手伝いに行く。
今までの、アルバイトのように、お店の掃除から始めると、若奥さんが、「最近掃除が行き届いていないから、嬉しいわ。」と言ってくれる。
計画を立て、棚など店全体を順番に掃除することにした。
昼前になると、随分暑くなったので、人通りが少なくなり来店者はない。
ご主人の店長さんが、お中元用の仕立券つきワイシャツの生地やタオルセットなどを、仕入れて帰って来た。
店の奥の部屋で、包装し始めたが、涼しい気がする。
奥の部屋は風が入らないからと、その頃では珍しく冷房機が付いていて、快適に包装ができる。
箱によって、包装の仕方がちがうので、教えて貰った。
まず、キャラメル包装だが、これは、キャラメルの包み方と同じなので慣れている。
次は、箱の上部は包装紙がきれいになり、底部分は包装紙の端がきれいな斜めになるデパート包み(ななめ包みとも言う)だ。
家で、届け物があった時、開いたことがあるが、包むのは初めてだ。
箱の角の包装紙を丁寧に折れば、きれいに仕上がる。
夕方涼しくなって、店長さんと車で、大会社や市役所や教育関係の役職のお宅に、包装したお中元の箱を届ける。
丁寧に挨拶し、届け元の会社名や個人名もお伝えする。
「僕が届けるより、若い娘さんが届ける方が、お客さんは喜ぶんじゃよ。」と、店長さんが言ってくれる。
それを聞き、もっとにこやかにはっきり話すようにして、一週間くらいお中元を届ける仕事が続いた。
入院していた若奥さんが、かわいい顔のちっちゃな赤ちゃんを抱っこして帰って来た。
洋装店のおばさんは、おばあさんの表情で、店長さんも始終笑顔で、隣のお店の人達も喜んでいた。
お手伝いに来て、幸せな時に居合わせて本当に良かったと思う。
お盆前からは計画通り、店の全体の掃除をすすめ、「大掃除をして貰って、きれいになっわ。ありがとう。」と若奥さん。
嬉しくなり、また手伝いにきたいと願った。
私に店員の仕事が出来るかもしれないと思い、将来のことを思い浮かべ、少し安心感がわいてきた。


  

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