2024年05月18日
ラムネ屋トンコ
こんにちは。ラムネ屋トンコをお読み下さり、ありがとうございます。孫に聞かせたい昔の思い出話です、よろしくお願いします。
私の家族 昭和二十五年(一九五〇年)当時
私、五才の女の子
父、ラムネなどの清涼飲料製造業
母、離れの部屋で二年前から病気療養中
姉、三才年上(小学生)
弟、三才年下(家から離れ、母方の祖父母と暮らしている)
祖父(父方)、中風(左の手足が少し不自由)という病気で、表の間の布団の上で過ごしている
祖母(父方)、みんなの世話で疲れている
隣に住む父の兄家族(伯父・伯母・中学生の娘と息子・小学生の息子・一才の娘)
瀬戸内海の見える町に生まれた女の子のお話。
転んで怪我をしたり、落し物や忘れ物の多い女の子のニックネームは、ラムネ屋トンコになりましたが、普通はとしちゃんと呼ばれていました。まわりの人たちに、助けられお世話になりながら、成長していきます。はたして、どんな女の子になるでしょうか?
私の家族 昭和二十五年(一九五〇年)当時
私、五才の女の子
父、ラムネなどの清涼飲料製造業
母、離れの部屋で二年前から病気療養中
姉、三才年上(小学生)
弟、三才年下(家から離れ、母方の祖父母と暮らしている)
祖父(父方)、中風(左の手足が少し不自由)という病気で、表の間の布団の上で過ごしている
祖母(父方)、みんなの世話で疲れている
隣に住む父の兄家族(伯父・伯母・中学生の娘と息子・小学生の息子・一才の娘)
瀬戸内海の見える町に生まれた女の子のお話。
転んで怪我をしたり、落し物や忘れ物の多い女の子のニックネームは、ラムネ屋トンコになりましたが、普通はとしちゃんと呼ばれていました。まわりの人たちに、助けられお世話になりながら、成長していきます。はたして、どんな女の子になるでしょうか?
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07:43
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2018年04月28日
第110回 ご挨拶 と 第35回
ごあいさつ
長い間ご愛読ありがとうございました。目標の高校卒業にやっと辿りつきました。途中何度かお休みしましたが、皆様が応援下さいましたので、続けることができました。
先日、第35回が抜けていたことに気付き、子どもの頃と同じく今だにパーヘクトは無理だと再自覚し、苦笑しています。今回、載せますので、よかったらお読みください。 ラムネ屋トンコ
第35回 昭和31年冬 おじいちゃんの思い出
母が病気になった時(私が3才の時)から、私は父方のおじいちゃんと同居していたが、その頃のことはほとんど覚えていない。
5年生の冬、そのおじいちゃんの七回忌の時、幼稚園の年中組に通い始めた頃のことを思い出した。おじいちゃんは中風という病気で、片方の手足が少し不自由でした。ほとんど布団の上に座っているおじいちゃんに、私は幼稚園でのことをいつも話した。「毎朝、背の低い園長先生が、背伸びしてブランコの板に付いているクサリを、セットしてくれてんよ。」 「ブランコをこいじょると、空で白いお月さまが一緒に動いちょったよ。」 「今日はお月さま、いなかったよ。どこに行ったかな?」 「なくなったカバンが出てきたよ。」など話すと、おじいちゃんはニコニコ顔で聞いていた。
その頃、私はおじいちゃんのそばで、絵を描いて遊ぶことが多かった。おじいちゃんも嬉しそうだし、みんなも私が外に出ると、池や溝に落ちるので心配だけど、家にいると一番安心していることが分かったからです。
夜、いつもおじいちゃんのお客さんが来て、なんだか難しい話をしていた。お客さん達はおじさんで政治の話をしていたようで、おじいちゃんはほとんど聞き役。
おばあちゃんが用意した徳利のお酒とおちょこを持っていくと、おじいちゃんがとても喜んで、私を膝に抱っこしてくれます。だから、お客さんが来ると、いつもお酒を運ぶ手伝いをするので、こぼさない様に気を付けた。その頃、お酒も政治の話も苦手の父は、夜、友達の所に好きなラジオ番組を聞きに行っていた。年中組の冬、おじいちゃんはだんだん座れなくなり、寝たきりになって亡くなった。葬式にたくさんの人が来ました。おじいちゃんの思い出はこのくらいしかありません。
「おじいちゃんが子どもの時、家業の商売がうまくいかず、おじいちゃんは明治時代の小学校3年までしか通えんかったんよ。」「その後、お店の丁稚奉公や道路工事などのえらい(辛い)仕事をして、両親を養っちゃったんよ。大人になって、おじいちゃんはラムネを作る仕事や他の商売を始めて、薄利多売の考えじゃったんよ。」と母が話してくれた。
また、「おじいちゃんは、小学校を卒業できんじゃったから、東京の学校の通信教育で勉強しちゃったんよ。その時学んだ『自由と平等』の考えを好きになって、屋号を「自由堂」に決めたんよ。その考えを取り入れて、商売や生活をしようとしたんよ。」と母。昭和10年頃、おじいちゃんが働けなくなり、父が「自由堂」の清涼飲料(ラムネとサイダーなど)製造業を引継いだ。
父はおじいちゃんのことや、他のこともあまり話しません。しかし、おじいちゃんが書いた字やお墓のことだけは、自慢します。おじいちゃんは山からかっこいい大きな石を、リヤカーで運んできたそうです。「惧会一処」(くえいっしょ、と読み、ここでみんな一緒に会いましょう、という意味)と自分で書いた字を、専門の人に彫って貰った。私の家は隣の町内の浄土宗のお寺の檀家で、そこのお墓はみな四角です。おじいちゃんのお墓だけは、他のお墓とちがって、自然の大きい石です。
そして、家には木を切った平板に、「一期一会」(いちごいちえ、と読み、人とは一度の出会いかも知れないので、誠意を尽くして接しましょう、という意味)と、おじいちゃんが書いて、鴨居(ふすまの上の横の長い木)にかけています。
おじいちゃんも父も自然が好きで、他と違う事も好きで自慢のようです。おじいちゃんとは短い間ですが、親しくできてよかったと思う。みんなの話を聞いていると、家の中の細々した事はおばあちゃんの言ったようになり、息子達が外で学校へ行ったりスポーツや音楽などの活動をする時は、おじいちゃんの言う通りになったようです。「自由と平等の考え」は、家族の中には生かされなかったようですが、孫の私は自由にのびのび育った気がします。
長い間ご愛読ありがとうございました。目標の高校卒業にやっと辿りつきました。途中何度かお休みしましたが、皆様が応援下さいましたので、続けることができました。
先日、第35回が抜けていたことに気付き、子どもの頃と同じく今だにパーヘクトは無理だと再自覚し、苦笑しています。今回、載せますので、よかったらお読みください。 ラムネ屋トンコ
第35回 昭和31年冬 おじいちゃんの思い出
母が病気になった時(私が3才の時)から、私は父方のおじいちゃんと同居していたが、その頃のことはほとんど覚えていない。
5年生の冬、そのおじいちゃんの七回忌の時、幼稚園の年中組に通い始めた頃のことを思い出した。おじいちゃんは中風という病気で、片方の手足が少し不自由でした。ほとんど布団の上に座っているおじいちゃんに、私は幼稚園でのことをいつも話した。「毎朝、背の低い園長先生が、背伸びしてブランコの板に付いているクサリを、セットしてくれてんよ。」 「ブランコをこいじょると、空で白いお月さまが一緒に動いちょったよ。」 「今日はお月さま、いなかったよ。どこに行ったかな?」 「なくなったカバンが出てきたよ。」など話すと、おじいちゃんはニコニコ顔で聞いていた。
その頃、私はおじいちゃんのそばで、絵を描いて遊ぶことが多かった。おじいちゃんも嬉しそうだし、みんなも私が外に出ると、池や溝に落ちるので心配だけど、家にいると一番安心していることが分かったからです。
夜、いつもおじいちゃんのお客さんが来て、なんだか難しい話をしていた。お客さん達はおじさんで政治の話をしていたようで、おじいちゃんはほとんど聞き役。
おばあちゃんが用意した徳利のお酒とおちょこを持っていくと、おじいちゃんがとても喜んで、私を膝に抱っこしてくれます。だから、お客さんが来ると、いつもお酒を運ぶ手伝いをするので、こぼさない様に気を付けた。その頃、お酒も政治の話も苦手の父は、夜、友達の所に好きなラジオ番組を聞きに行っていた。年中組の冬、おじいちゃんはだんだん座れなくなり、寝たきりになって亡くなった。葬式にたくさんの人が来ました。おじいちゃんの思い出はこのくらいしかありません。
「おじいちゃんが子どもの時、家業の商売がうまくいかず、おじいちゃんは明治時代の小学校3年までしか通えんかったんよ。」「その後、お店の丁稚奉公や道路工事などのえらい(辛い)仕事をして、両親を養っちゃったんよ。大人になって、おじいちゃんはラムネを作る仕事や他の商売を始めて、薄利多売の考えじゃったんよ。」と母が話してくれた。
また、「おじいちゃんは、小学校を卒業できんじゃったから、東京の学校の通信教育で勉強しちゃったんよ。その時学んだ『自由と平等』の考えを好きになって、屋号を「自由堂」に決めたんよ。その考えを取り入れて、商売や生活をしようとしたんよ。」と母。昭和10年頃、おじいちゃんが働けなくなり、父が「自由堂」の清涼飲料(ラムネとサイダーなど)製造業を引継いだ。
父はおじいちゃんのことや、他のこともあまり話しません。しかし、おじいちゃんが書いた字やお墓のことだけは、自慢します。おじいちゃんは山からかっこいい大きな石を、リヤカーで運んできたそうです。「惧会一処」(くえいっしょ、と読み、ここでみんな一緒に会いましょう、という意味)と自分で書いた字を、専門の人に彫って貰った。私の家は隣の町内の浄土宗のお寺の檀家で、そこのお墓はみな四角です。おじいちゃんのお墓だけは、他のお墓とちがって、自然の大きい石です。
そして、家には木を切った平板に、「一期一会」(いちごいちえ、と読み、人とは一度の出会いかも知れないので、誠意を尽くして接しましょう、という意味)と、おじいちゃんが書いて、鴨居(ふすまの上の横の長い木)にかけています。
おじいちゃんも父も自然が好きで、他と違う事も好きで自慢のようです。おじいちゃんとは短い間ですが、親しくできてよかったと思う。みんなの話を聞いていると、家の中の細々した事はおばあちゃんの言ったようになり、息子達が外で学校へ行ったりスポーツや音楽などの活動をする時は、おじいちゃんの言う通りになったようです。「自由と平等の考え」は、家族の中には生かされなかったようですが、孫の私は自由にのびのび育った気がします。
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10:38
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2018年04月03日
第109回 昭和39年春 高校卒業
高校3年の3学期に、2年女子のクラス委員達が、「女子の制服のブラウスが、市販のカッターシャツでもよいことになったらいいな。」と、伝えにきた。白のブロード地のブラウスは、アイロンを掛ける必要がある。その頃、ノーアイロンのカッタ―シャツが売り出され、それを着る男子がていて、親も楽だった。女子は、本人がアイロンを掛けることが多く、大変に感じがちだ。2月末、各クラス委員がみんなに聞くと、賛成意見が多い。
生徒会規則変更は秋に経験したので、3年クラス委員は慣れていて協力した、トントン拍子で進む。1・2年の女子がとても喜んだ姿を見て、ホッとした。
2月末、卒業式の予行演習が行われた。その前に、担任が「ひろさんの担任が、ひろさんをライオンズクラブ奉仕活動生徒の表彰に推薦したんだ。僕も君を推薦したい。」と言う。ひろさんと一緒に、JRCで養護施設の子ども達のための活動・校内で清掃活動や、購買部活動をやっていたかららしい。「表彰されるためにではなく、自分が好きで楽しいから活動したのだから。」と固辞した。「ひろさんは受けるのだよ。僕のクラスからも表彰者を出したい。僕のために受けてくれ。」とのことだ。
後日、又担任が「ロータリークラブの同じ趣旨の表彰も受けてくれ。」と言う。ひろさんに相談し、世話になった担任の頼みだからと受ける事にした。ひろさんが卒業式の日に、校長から表彰状を受け取ってくれることになったので、やれやれとホッとした。
予行演習の日、家庭科の御手洗先生が、「家庭クラブの会長をしてくれたから、卒業式の日表彰状授与があるから、受け取ってね。」と。昨年の卒業式の時、家庭クラブ会長が表彰されたことを思い出し、しかたなく「はい。」と返事する。
3月初めの卒業式当日は、就職先や進学先など進路が決まっている者だけの出席だ。国公立大学などの受験生は欠席で、空席が多い。父兄(保護者のことをそう言っていた)の参加も多くなかったが、私の母は参加していて、私が表彰されたことに驚いていた。私が、前もって知らせていなかったが、「悪い事ではないから。」と苦情は言われずよかった。私にとっては、印象の少ない卒業式だった。
それより、ぬのちゃんに「お別れ会に来てね。」と誘われたので行って見ると、かんちゃんとシンちゃんがいて、楽しく過ごした。そこで私もと、親しくしてくれた又会いたい友と、お別れ会をすることに。ひとみちゃん・二人のれいこちゃん・嬉子ちゃん・ひろさん・ひろこちゃんと楽しく過ごし、再会を楽しみにした。
和子ちゃんにはライオンズクラブの昼食会で会えたし、えみちゃんとは秋に小旅行が出来、いい友と親しくできた私は幸せだった。
後日談だが、新2年生になった弟が、新しい生徒手帳をもらったので見せてくれた。「外出時制服着用(みんな守っていなかったが)などの項目を、先生たちが勝手に削除したらしい。「規則変更」などの経験は、「公民」「自治」などの体験学習になるのに、勉強の機会を奪う残念な高校だと思った。
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15:46
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2018年02月28日
第108回 昭和39年2月 保育科入学試験
高校3年の2月、入学試験の前々日夕方、夜行列車(新幹線はまだなかった)に乗り神戸駅へ向かう。
早朝到着、楠公さん(湊川神社)の境内を通っておばの家に行く途中、小学3年の時訪れた楠公さんと同じだと感じた。あの時は母と姉と弟の4人で、桜の下を歩いたが、今は水仙が目に入ってきた。
又、中学2年の時、従兄のよしおさんが我が家を訪ねてくれた時のことも思い出す。ラジオで活躍の「花菱アチャコ」の物まねが上手なよしおさんが、家族を笑いに包んでくれた。
叔母の家に着くと、洋裁学校で和裁を教えている叔母が笑顔で迎えてくれる。夕方、のんびり過ごしていると、路地から紙芝居のおじさんの拍子の音が聞こえてきた。あの時、おばさんに小銭をもらい、あめを買って紙芝居を楽しんだ。あの時と比べると、集まる子どもの人数は少ないようだ。
夜早めに、床に入り熟睡して朝を迎えた。阪急電車に乗り、西宮の保育短期大学に着く。
受験科目は少なく、音楽の実技テストは無かった。「自分のおいたち」と題しての作文が受験科目に含まれている。「屋号が自由堂という製造業の家に生まれた私は、落ち着きのない子どもだった。」と、書き始めた。「私はよく遊びよく遊び、そして学ぶという感じで、のびのび育った。卒園した幼稚園の園長先生に幼稚園の先生を勧められて、受験することにした。私が、とても楽しそうに遊ぶので、保育者に向いているとのことだ。しかし、私は歌もピアノも下手なので不安だった。そこで、ピアノと声楽の勉強を始めたが、上手とは言えない。音楽のテストを受けたかった。保育者になるための音楽の素地があるかどうかテストを受けたかった。テストがないのは不安だが、万一合格したら、精一杯努力したい。」と言う風なことを書いた。
学校の建物は落ち着いた雰囲気で、校庭は木々が多く明るくさわやかだ。2年間、この短大で学びたいと願いつつ帰宅した。2月下旬「合格通知」が届く。出来るかどうか分からないが、初めて難しいことに挑戦することになった。が、やりたい気持ちが強くなり、入学が楽しみになり待ち遠しくなった。
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19:21
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2018年01月10日
107回 昭和39年1月 すべってころんでさあ大変
高校3年の年賀状が特等に当選したので、「今年は良い年になるだろう。」と、私はウキウキ。
1月下旬の夜中から冷え込んだ翌朝、小さな庭の松の枝や石灯篭や垣根の上に、雪が降り積もっている。庭の地面も雪で真っ白で、前の路地も20センチ以上つもり、銀色に輝いていた。愛犬がしっぽを振って呼ぶので、私は長靴をはいて外にでる。「初雪を、踏む嬉しさや、愛犬と。」と、頭に浮かんだ句を口にしながら、まだ足跡のついていない美しい雪の上を、気分よくサクサクと歩く。その時、なんということでしょう、滑って転んでしまってさあ大変。そして、雪で隠れていた花壇のレンガの角で、膝を強く打ってしまいとても痛い。
玄関にもどり、ズボンのすそをめくると、1センチ角の皮膚が深くめくれて、下の肉が真っ赤だ。恥ずかしいが、いつもの病院で診てもらう。「ひさしぶりじゃのう。」と、先生の顔は笑っていて、テキパキ消毒して薬を塗ってくれ、看護婦さんが包帯を巻いてくれた。私は苦笑いしながら、「今日はすべったけど、受験はすべらないようにしよう。」と、思う。化膿止めの飲み薬をもらい、お礼を言って病院を出た。
帰宅し「二度あることは三度ある」ということわざを、思い出す。もう一度すべったら、短大保育科受験をすべるかもしれないので、二度とすべらない様に注意することにする。
母は、昨日届いたダブルベットの上に置く、ベットパットらしきを作り始めた。私のすべったことなど気にしていない様子で、「またなのー。」と思っているようだ。
その冬は雪が多かったので、担任が「雪の俳句をつくろう。」と提案する。「・・・・・ 窓辺でおどる、雪ん子よ」までは思い出すが、上の句は不確か。「トントンと」「こんこんと」だったかな?
その後、すべることなく、受験することができて胸をなでおろした。
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07:25
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2018年01月01日
明けましておめでとうございます
あけましておめでとうございます。ご愛読ありがとうございます。
あと数話で、高校卒業。春まで頑張りたいと思います。よろしくお願いします。
ラムネ屋トンコ
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12:37
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2017年12月01日
第106回 昭和39年冬 高校3年のクリスマス・お正月
高校3年のクリスマスキャロリングとキャンドルサービスも例年通り。
だが、岩国基地で働く青年ダンさんの参加は新しいことだ。夏休み高校生会活動中に、ダンさんがナナハンオートバイ(大型750cc)でツーリング途中に立ち寄った。その後、彼は毎週のように、高校生会の活動に参加した。英文科志望の礼子ちゃんは、英語を使っておしゃべりをしている。私は、ダンさんの片言の日本語に付き合い簡単な日本語で返事をし、時には日本語を教えることに。親しくなった高校生会のみんなともダンさんとも、春にはお別れになるので、ひさしぶりに我が家で新年かるた会を開くことにした。
隣接する叔父一家の家(借家にしていたが当時は空き家)に20人位集まった。その頃は、二つの部屋の間の襖を取り除けば広間になったので大丈夫。百人一首は一回だけだが、ゲームをしたり歌ったり楽しく過ごす。私は、高校生会で有意義な時を過ごせた感謝の気持ちを伝えた。
その後も、昨年同様ピアノの練習を続け受験に備えた。
1月15日に、年賀状の当選番号の発表があり、和子ちゃんから来た年賀状の番号が特等(ダブルのフランスベット)と同じ番号だと発見。見間違えかもしれないと思い、家族に確かめてもらい、当選が確定し大喜びする。次の瞬間、ダブルベットをどの部屋に置くかの相談が始まった。
が、和子ちゃんのお父さんは、長年病気で床の上で過ごしておられることを思い出す。そこで、和子ちゃんの家に「ダブルベットが当たったのよ。使いませんか?」とたずねに行く。「ベットは軟らかすぎるし大きすぎるから。」と遠慮されてしまった。
そこで、表側の客間に置くことに決めて、当選した和子ちゃんからの年賀状を、郵便局に持っていく。すると、母方の叔父が出てきて、当選証書を手渡してくれた。郵便局の責任ある立場になっていた叔父は、自分の事の様に喜び、「近いうち届くぞ。」と言う。
数日後、地方紙の新聞記者が来て、「誰からの年賀状ですか?」など聞き、「写真を撮らせてくれ。」と言う。2・3日後、年賀はがき特等当選者3人の写真入りの記事が載った新聞が届いた。自分の写真が載るのは初めてで恥ずかしいが、小さい記事で目につきにくいので、よかったと思う。今だったら、個人情報保護で考えられない記事だが、昔はのんびりしていた。
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07:28
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2017年10月31日
第105回 昭和38年秋 ケネディー暗殺と差別問題
高校三年11月22日、「日米間初のテレビ宇宙中継」が明日早朝行われる事を、テレビニュースで伝えていた。23日は土曜日勤労感謝の日で学校は休みで、目覚めたのは8時頃だ。9時頃、2回目の宇宙中継があり、初の宇宙中継はケネディー大統領暗殺のニュースだったことを知り本当に驚く。
当日は「高校生会の24日の行事の準備日」になっていたので、教会へ向かった。てっちゃん達数人が集まっていて、「ケネディー暗殺」について、驚きの声や残念な声で話している。ケネディー大統領については、高校生会で時々話題にのぼっていた。「黒人差別撤廃」「キューバ危機時、第三次世界大戦を回避」「核実験停止、軍縮提唱」「平和部隊の創設」に取り組んだケネディー大統領を知っていた。私達は、ケネディー大統領を尊敬していたし、好きだった。暗い気持ちで行事の準備をした。
終わってから、卓球台の置いてある教会学校小学生科の部屋で、卓球をする。私は卓球が大分上手になったので、てっちゃんや靖くん達とラリーやゲームをした。が、左側に飛んできた玉を、バックハンドで上手く返球できないのが残念だった。
その後、結婚差別や就職差別を受けている人の話を聞き、身近なところで差別があることを知り悲しくなる。昔のことではなく、今でも隠れた所で差別を受けている人のことを思うと、胸が苦しい。
アメリカでは、大ぴらに黒人差別があり、反対運動も表だって行われている。どちらの差別も無くなることを願うばかりだった。
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20:16
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2017年09月30日
第104回 昭和38年晩秋 ひとみちゃんの下宿
高校3年の秋、近くに住む親しいひとみちゃんの両親が、仕事の関係で引っ越された。ひとみちゃんは、引っ越し先から遠くて高校へ通学出来ない。そこで、知り合いのおばさんの家へ下宿することに。
おばさんは独り暮らしで働いていて、時々出張で留守になる。「おばさんが留守の時、泊まりに来てね。」とひとみちゃんが言う。「ひとみちゃんと一緒に勉強するから、泊まりに行くね。」と家族に伝え、翌朝の通学の用意をして泊まりに行く。ひとみちゃんの両親と下宿先のおばさんを、両親はよく知っているので心配していない様だ。
時々映画上映をやっている市立公民館の近くに下宿先がある。常設の映画館が遠くにあるが、観たい映画をなかなか上映しない。テスト前にかぎって、話題の観たい映画「雨にうたえば」「なぎさにて」などを公民館で上映していた。テスト前勉強は早く終え、映画を観に行きとても嬉しかった。
この時の楽しみが忘れられず、先になって、てっちゃん達と「映画同好会」を作った。「ベンハー」などの観たい映画の上映会を開くことになり、前売り券を売りさばくのが楽しかったが忙しかった事を思い出す。
校則で、「外出時は制服着用」と決まっていたが、目だつので私服で公民館に出掛けた。制服を着ていない男子学生を見かけたが、互いに見て見ぬふり。
ひとみちゃんも短大を受験するとのことだが、勉強はほどほどにしている様子だ。お琴や映画などの楽しみや、交換日記などを大切にしているようだ。泊まりに行った時、交換日記のページをパラパラとめくって見せてくれる。私は養護施設で弘君と再会して、交換日記をしようと願っていた。毎週休まず施設に通っているが、残念ながらまだ会えず、交換日記は実現していない。
私はにが手な音楽(声楽とピアノ)の勉強、毎週施設に行き子ども達と遊びの後一緒に勉強する事、そして高校生会と忙しかった。保育科の受験科目は少なかったので、高校生活をエンジョイ出来た。
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10:07
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2017年08月30日
第103回 昭和38年初秋 国民体育大会
高校3年の秋、国民体育大会が私の県で開かれ、山の高校でハンドボールの開会式と競技が行われることに。2学期になり、国体ハンドボール開会式入場行進時の出場団体名を書いたプラカード持って行進するため、2・3年女子の背の高い順に数十名が集められた。私もその中の背の低い方の一人だ。
早速、姿勢を正してプラカードを持って行進の練習が始まる。まだ暑い放課後だが、ベレー帽をかぶってかっこよく行進することはめったのないと、みんな納得して数日間練習。国体開催のため、毎年ある体育祭は開かれないので、体育祭を好きな男子は残念がっていた。
いよいよハンドボール開会式当日、背筋をのばしいつもより上手に行進だ。競技が始まると、プラカードを持った県の代表チームを応援する。勝ち残ったチームのプラカードを持った女子は、応援で忙しかったが嬉しかった。
そんな時、「県立競技場である国体閉会式に行かんかのー?生徒会役員は皆行けんから。」と、生徒会長が話しかけてきた。そして、閉会式案内状と国鉄の往復乗車を2枚手渡された。
「ありがとう。家庭クラブ役員を誘って行くわ。」と応えると、「役員でのうてもええぞ。」と彼が言う。きっと、生徒会役員達は、受験勉強や模擬試験で忙しいのだ。
家庭クラブ役員を誘ったが、みんな都合が悪いと断った。高校入学時から、私は中学3年のクラスメイトのえみちゃんと親しくしようと決めていた。が、えみちゃんは庭球部(テニス部)で忙しく、なかなか親しく出来なかった。これはチャンスだと、早速えみちゃんを誘うと喜び、一緒に行くことになる。
庭球部も他のクラブも、3年秋から部活はしないで、進学などの準備期間に入るようだ。えみちゃんは就職先も決まって暇とのことで、私は大喜び。
当日朝、モクモクと煙をはく蒸気機関車D51(デゴイチ)に乗車する。下車してから陸上競技場まで徒歩で向かった。閉会式(記憶がうすい)が終わり、小学2年の時、県庁の近くに引っ越した従妹(お姉ちゃん)宅へ。別れた時、高校生だったお姉ちゃんは、大人のきれいな働くお姉さんになっていて、あたたかく迎えてくれた。
次の日、秋吉台に3人で出掛ける。石灰岩のカルスト台地は壮大だったが、ロバの観光用乗り合い車に驚く。小学5年の時の郊外学習で、同級生みんなは秋吉台を訪れていたが、私だけ参加できなかった。長距離バスで行くので車酔いが心配で、朝になって微熱頭痛が出たのだ。
親しくしたいえみちゃんと、観光したかった秋吉台で、楽しくすごせてよかった。クラブ活動のことやクラスのことなど、おしゃべりを続けた。いつも一緒のクラスメイトとの芦ノ湖の高校修学旅行に負けない、たのしい小旅行となる。あとで知ったのだが、えみちゃんのお姉さんと私の従妹のお姉ちゃんは、中学高校の時親しくしていたことがわかり、不思議な縁を感じて嬉しくなった。
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2017年08月22日
残暑お見舞い申し上げます
とても暑い中、皆様いかがお過ごしでしょうか?
暑さと冷房に弱い私ですが、朝晩公園に出掛け工夫して、気分よく暮らしています。
目が疲れやすく、パソコンがスムースに進みませんが頑張ります。
長らくお待たせしましたが、まもなく再開です。
よろしくお願いいたします。
ラムネ屋トンコ
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09:41
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2017年01月01日
新年のご挨拶
ご無沙汰してごめんなさい。
皆様、良いお正月をお過ごしのことでしょう。私は、11月の第102回の後、目の疲れや肩や手の疲れが出たり、目まいがおこるので、パソコンに向かえませんでした。整体(鍼・マッサージ・ストレッチ)を受け、体調良くなってきました。
昨年は、3回の目の手術を受け、体力が落ちた気がしますが、今年は取り戻したいです。ぼちぼち、「ラムネ屋トンコ」を再開したいと思います。頼りない私ですが、お付き合いくださいますよう、どうぞよろしくお願い致します。
ラムネ屋トンコ
Posted by トンコおばあちゃん at
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2016年11月04日
第102回 昭和38年初秋 生徒会会則変更
高校3年の2学期が始まり、私は、家庭科クラブの全国大会参加の報告をすることに。衣食住や、地域社会・高校生活の問題点を取り上げ、調査・研究・改善実施の発表があったことを報告。
その時、高校2年の冬の困った問題を、思い出した級友がいた。古い木造校舎から、鉄筋の新校舎に移動した事で、教室の窓もドアも壁も何もかも新しく清潔で、みんな喜ぶ。ところが1ヶ月経った頃から、困ることが出てきた。寒くなり窓を閉めるのだが、密閉された感じで息苦しい。時々早弁するクラスメイトがいるのだが、臭いが教室内こもり、教師にバレてしまう。「後ろの人、ご飯粒が口の周り付いているぞ。」と、教師に注意される。本当は、ご飯粒は付いていないのだが、早弁をしていた人は大慌てだ。
それより、もっと大きい問題がでた。木造の校舎より、鉄筋校舎の床からの冷えがひどく、椅子に座布団を敷いた上に、正座をして授業を受けねばならない。また廊下を歩く時、木造より鉄筋の方が冷え冷えするので、分厚い靴下を履く人が増えた。上靴をちゃんと履けず、つっかけるだけだ。「分厚い靴下を履いて、上靴をつっかけている人がいるが、危険だから上靴をちゃんと履いて下さい。」「生徒会会則を守って、上靴をちゃんと履ける厚さの靴下を履きなさい。」などと、スリッパを履いている教師に、注意された。
「生理中は特に冷えた感じで、生理痛が酷くなった。」と、言うクラスメイトが増えた。「冬の冷える時は、分厚い靴下を履いてスリッパを履きたい。」という声がでていた。冷え始めた秋になり、再び「スリッパを履いてもよいことにしてほしい。」という声があがる。「寒くなる前に、スリッパを履いてもよいことに、生徒会会則を変えて欲しい。」という意見も多くなった。生徒会会則は、全校生徒の3分2の議決で変更できると、会則に明記してあった。
家庭科クラブの委員会で議題になり、女子クラスで話し合った結果、生徒会(男子クラス・男女クラス・女子クラスの全校生徒が含まれる)に規則変更を申し込むことにした。男子クラスにも男女クラスにもスリッパを履きたい人がいて、とんとん拍子に進む。生徒会総会が開かれ、寒くなる前に、スリッパを履いてもよいことに決めることが出来た。
自分たちの意見を出して、会則をより良く変更するために、考えたり話し合ったりすることは楽しい。教科書を読んで理解する学習より、家庭クラブの研究や生徒会活動のほうが、よほど勉強になる気がした。
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2016年09月22日
第101回 昭和38年晩夏 家庭クラブ全国大会
高校3年の8月下旬、高校家庭クラブ全国大会が錦帯橋のある岩国で開かれた。家庭科教師の御手洗先生と増野先生と、家庭クラブの会長の私ともう一人の計4人で、参加。
実は、4月に家庭クラブのクラス委員を引き受けたところ、その中から会長などの4役を決めることになった。私は、「書記なら引き受けるよ。」と言った。が、会長を引き受ける人がいないので、私が会長を引き受ける事になった。会長の仕事は、行事の司会役や会議の議長役で、書くことはなく楽だった。
例年の通り、秋から冬にかけて研究発表会や展示会と、夏の校舎裏の草ひきや高校野球応援の協力などの、活動計画を立てた。岩国で開かれる全国大会参加も決めていた。
6月には、私達が2年の時研究した「シミーズ」が出来上がって、カネボウから届き、クラスみんなで大喜び。
高校野球の応援団では、私は目立たないようにしていた。弟が、同じ高校に入学したからだ。1回戦で敗退して残念だったが、私は内心ほっとする。3年女子は練習日にカレーライスを作ったりして、野球部を応援していたので、くやしがっていた。
家庭クラブ全国大会の会場は、古い旅館風な大きい建物だった。主なプログラムは、全国の優秀な研究発表だ。
布の種類別に粉石鹸・モノゲン(当時、羊毛の衣類の洗剤として販売されていた)固形石鹸・液体せっけん(当時珍しかった)で洗濯後の状態を調べるものがあった。木綿・麻・絹・ウール・その頃増えてきた化繊の衣類を、それぞれの洗剤で冷水・ぬるま湯で洗い、汚れの落ち方や縮ぐわいなどを調べている。
他にも、農村主婦・商家主婦・専業主婦のそれぞれの労働時間・家事時間を調べ、問題点・今後の工夫点などの発表もあった。
学校生活を快適に能率的に送るための、調査・研究・実施の報告もあった。どれも本格的なもので、実際役立つので感心しつつ、私も見習いたいと思いながら聞く。
私の母は、石油コンロを買う時、温度調節付きアイロンを買う時など、「暮らしの手帖」という雑誌を買ってきて、商品検査の結果を参考にしていた。家庭クラブの研究発表は、その雑誌と同じように、とても素晴らしい内容だと思った。また、私達の発注した「シミーズ」も紹介され、全国の女子高校生の希望者が着用することになり、嬉しくなる。
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10:18
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2016年07月10日
第100回(2) 昭和38年8月 原爆ドーム保存運動
高校3年の8月、原爆ドーム保存のための署名用紙と募金箱を持って、駅前にいた。
大きい声で呼びかけていると、驚いたことに通りの向うから、小学生の時広島から越してきた百合さんが、ゆっくり歩いて来た。中学卒業後初めて会った百合さんは、「としちゃん、ありがとう。少しだけど。」と言って、募金と署名をしてくれた。「帰りに角のたばこ屋に寄ってね。」と、駅前のたばこ屋を、指差した。「署名と募金をありがとう。必ず寄るね。」と、応えた。
次に父が様子を見に来て、署名と募金をしてくれたので、少々驚く。原爆ドームのことは詳しく話していなかったのに、来てくれたので嬉しい。暑いのと高校野球のラジオ放送のためか、やはり人通りは少なく、数人の募金と署名だけだった。
帰りにタバコ屋に寄ると、百合さんはホウキを持って、掃除をしている。手を休めて、奥から手さげ袋を持って来て、その中から手帳を出した。「これは私の被爆者手帳なの。いじめられたり差別されるから、絶対他人に見せたらダメと、お母さんが言ったの。」「でも、としちゃんにだけには見せるわ。」と手帳を見せながら、百合さんは話す。「私は疲れやすいから、高校に行けないし人並みに働けないの。ここのお店のおばさんは親切な人で、私を働かしてくれるのよ。」「食事を食べさせてくれるし、お小遣いもくれるの。」と百合さん。
やはり百合さんは被爆していたんだと思いながら、「それは大変ね。体を大事にしてね。」としか言えない。そして、疲れやすくても頑張って働いている百合さんのことを、すごいなーと感心するばかりだった。
家に帰ってから、町内の病院の先生・散髪屋・ふすま屋・美木さんの家にお願いに行くと、快く署名と募金をしてくれた。私の町内の人が戦争のことを話すのを、あまり聞いたことがない。「戦争の時余りにもひどい状態だったので、話したくないし思い出したくないようだ。」と、以前父が言っていた。原爆ドーム保存の署名募金活動を通して、町内の人達の平和を願う気持ちと、原爆反対の気持ちが伝わって来て、嬉しくなる。
しかし、被爆して苦しんでいる人が、いじめられたり差別されることを知り、悲しくなりずっとが心から離れないままだった。
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07:24
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2016年06月18日
第100回(1) 昭和38年8月 広島原爆ドーム保存運動
高校3年になった時、「原爆の投下された8月6日に広島に行こう。」と、高校生会の哲ちゃんや良夫君達と約束していた。前日の原水爆禁止世界大会は、日本共産党系と社会党・総評系のグループの見解の相違で、大会開催が危ぶまれていることをニュースで知った。「どうなっているか、行って見よう」と、出かける。
広島平和公園は人々でごったがえしていて、なにやらマイクで演説しているようだが、ざわついて聞こえない。「社会党・総評系の人達が、今日集会を開いたらしい。」と誰かが言っていた。「原水爆禁止協議会が分裂するんじゃないかのー。」と、哲ちゃんが言う。原爆ドームは思ったより大きく存在感があり、人の少ない所で鳩がよちよち歩いている。
その後、私達は原爆資料館を見学した。今までに見たこともない悲惨な被ばくした人々の写真や、焼け残った衣服・カバン・生活用品を見て、愕然とする。被爆者の方達の痛々しさを感じ、今も苦しい生活をされているかと思うと、言葉も出ない。おしゃべりの私だが、無口になり、山陽本線の列車に乗り帰宅した。
小学6年の時、広島から引っ越してきた百合さんが、被爆者ではないかと思っていたこともあり、私は原爆反対の活動をしたいと思っていた。その日、広島で原爆の酷さを見て、原爆反対の気持ちをより強く持つ。少し前、高校生会に広島から、原爆ドーム保存のための署名用紙が届いていた。8月6日の数日後、教会学校の先生から、署名用紙と募金箱を受け取る。
その日、外はカンカン照りなので麦わら帽子をかぶって、一人で駅前に出掛けた。哲ちゃん達は仕事で出勤だったし、高校の友達は田舎に行っていたので、私一人で募金活動を始める。私は、一人でも署名活動をしたいと思っていた。駅前の商店街は人通りが少なく、店の中から高校野球のラジオの実況放送が流れている。「原爆ドーム保存のための、署名と募金をお願いしまーす。」と声を上げるが、ラジオから聞こえるアナウンサーの声と大声援に、私の声は消されそうだっだ。
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15:22
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2016年06月04日
第99回 昭和38年盛夏 音楽の勉強
高校3年の1学期末、担任が「就職試験受験の会社から、不採用と連絡があった。」と申し訳なさそうだ。「この数日で状況が変わり、短大保育科に進学することにしました。」と伝える。担任は、「それはよかった。」と嬉しそう。次の日、園長先生の勧められた西宮の短大保育科を、受験することに決めた。
日曜学校の先生だったミカさんが、ピアノ教本バイエルと声楽の教科書(コーリュ-ブンゲン)を、週一回教えてくださることになる。小学の時、ミカ先生は、原爆ドームや被爆少女サダコさんの事を話して下さった。私が尊敬し憧れている女子大生で、教会の聖歌隊のオルガン奏楽もコーラスもとても上手だ。
ミカ先生宅に伺うと、すぐにおしぼりを出して、扇風機も付けて下さる。行き届いた心使いに感謝しながら、レッスンを受ける。
学校の音楽の授業で学んだことを思い出し、ピアノの上にまず右の手の指を拡げて置く。親指を上にあげてから鍵盤をポンと打つことを教わる。親指・人差し指・中指・薬指・小指に1・2・3・4・5と番号がついていている。英文タイプのテキストにも、指の番号が書いてあり、番号通りに指を動かすのには、少し慣れていた。「指を番号通りに動かせるのは、すごいわ。」とミカ先生が褒めてくださる。英文タイプを3ヶ月習っていたことを話すと、「それはよかったわ。指を1本づつ動かすことは、難しいのにそれが出来るなら、ドンドン進むことが出来るわ。」とミカ先生。ひろさんが誘ってくれたタイプを習って、本当によかったと思う。
ミカ先生は、良いところを見つけて励ましてくださるので、続けることが出来る。また、3時頃レッスンの時は、おやつまで出してくださるので、その後も頑張れる。夏休み中ほぼ毎日、幼稚園のピアノを借りて練習するが、指を一本づつ上げてポンと打って弾くことは難しい。
雨の日は、近くの瞳ちゃんの家のピアノを借りることにした。瞳ちゃんは、楽譜を見てすぐに弾けるので感心する。ミカ先生は、手本にバイエルの曲を一回弾いてくださるが、慣れないバイエルの曲を瞳ちゃんも弾いてれるので感謝もした。私は長い時間集中できず進み方も遅いので、瞳ちゃんは「大変ね。」と、同情しつつ応援してくれる。嬉しくなり、頑張ろうと自分を励ましつつ、練習した。
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21:35
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2016年05月17日
第98回 昭和38年夏 幼稚園の先生に?
高校3年の7月の就職試験の翌日、キリスト教会付属幼稚園の園長先生が、我家に来られた。
「就職試験を受けたのですか?」と、園長先生が質問なさる。「受けたのですが、定員オーバーで受からないと思います。」と応えると、ホッとした表情に。「実は、幼稚園で働いて欲しいので、お願いに来たんですよ。」 「としこさんは、楽しく遊ぶことが出来るので、幼稚園の先生に適しています。」 「先日の子ども運動会でも、一番楽しく参加していましたよ。」 「是非、考えてみて下さいね。」と、先生。
私は、驚くと共に嬉しくなる。「嬉しいです。父母と相談して、お返事します。」と応える。最近、笑顔を褒められるが、アルバイト中は、いつも笑顔でお客さんと接するよう心がけ、良い店員のお芝居をしている。また、お世話になっている人には、笑顔で接しようと思っているが、遊びやリクレーションの時は、無意識で自然に笑顔で楽しんでいる。園長先生が、自然のありのままの私を認めて下さり、私は今までにない嬉しさと勇気を与えられた気がした。
先生が帰られた後、さっそく母に伝える。「幼稚園の先生の助手に勧められたの、幼稚園で働きたいの。」と、母も笑顔だった。翌朝、「お父さんは、小学校の先生になるんじゃーなくて、幼稚園の先生だからいいと言ってるよ。」と母。早速、幼稚園に隣接している園長先生宅に、出向いた。
「昨日は、ありがとうございました。幼稚園で働きたいのですが、音楽に自信がないのです。」「音楽の勉強をしなければと思います。それでもよければお願いします。」と伝えた。「それは、嬉しいことです。出来れば、短期大学の保育科に行くことを勧めます。」と話された。
幼稚園の先生のほとんどは短大保育科卒業で、幼稚園教諭の免許を持っていることも知っていた。2年間、保育の勉強をしたいし、特に音楽の勉強をしてから、幼稚園で働くほうがよいと思えた。家に帰り「短大保育科に行くことを勧められたの。行きたいな。」と、母に伝える。「お姉さんも短大に行ったんだから、としちゃんが短大保育科に行くことに賛成よ。お父さんに頼んでおくよ。」と母。父は反対する理由は無かったらしく、賛成した。
歌は下手で、オルガンは「チューリップ」の曲がどうにか弾けるだけの私は、予想外の大きなチャレンジをすることになる。
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20:00
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2016年05月07日
第97回 昭和38年初夏 就職試験
高校3年7月、元町通りに買いものに行き、帰りにアルバイト先の洋装店に寄る。店長のおばさんに挨拶する。「駅前の運送会社の社長さんが、『としこ君にうちの会社の受付で働いて欲しいんじゃ。あの笑顔を気に入ってな。』と言うちょってよ。」と、おばさんが話した。その運送会社からの贈答品の届け先や、他からの贈答品を運送会社に届けた時の挨拶が、丁寧で良かったと、大分前に聞いていた。
「私は、としこさんに東京の洋裁学院でデザイナーの勉強をして、うちの店で働いて欲しいと思うちょるんよ。」とも。以前、店長が留守だった時のアルバイト中の出来事を思い出した。「店長は留守。」と伝えると、お客さんが「いいのよ。店長には希望を言いにくいから、お姉さんに頼みたいんよ。」と言った。おばさんが注文を受ける時を思い浮かべる。注文表にブラウスの希望の衿と袖を描き、サイズを測り記入して、服地の端切れを貼っておいた。
おばさんが帰って来たので、「急ぐようだったから、一応注文表をかいたけど、もう一度確かめて下さいね。」と伝えた。「ちゃんと、衿や袖が描けるんじゃね。」と感心したようだった。「絵の教室で、よく見て描くように言われていたから、どうにか描けたんよ。」と応えた。
おばさんは、私がデザイナーにと思ったかもしれないが、スタイル画なんてとんでもない。働く農家の人や美容師さんを描くのは好きだけど、スマートな人を想像して描くのは、苦手で好きでない。「デザイナーは無理だわー。」と言って、すぐ店を出たが、運送会社には心が少し動いた。
家に帰ると、「隣の笠戸ドックの社長さんが、『船の通勤が大変だけど、うちの会社で働かんかな。』と言ってくれちゃたんよ。」と母が言う。「無理よねー。」と、私は船酔いの心配があるし、もし事務職ならミスが多いので迷惑をかけるから、気が進まない気持ちを込めて即答した。「そーねー。」と、母も同感のようだ。
7月の期末試験が終るとすぐに、会社の就職試験が始まる。私の高校2人採用の隣の市にある会社に、私ともう1人が採用試験に申し込んでいたので、その会社に出向く。行ってみると、我校の応募者は3人で、他の2人ともよく知っている人で、驚いた。2人には身内の人がこの会社にいる事が分り、私の採用は無いと思えた。すぐに、運送会社が頭に浮かんだので、がっかりした訳ではない。
大会議室に机と椅子が並び、50人以上の男女高校生が着席し、試験問題が配られた。私は、試験を放棄したい気持ちだが、答えは記入する。が、ミスを調べる点検はしないことにした。
次に、面接試験会場に行くと、会社の面接官らしい数人が前一列に座り、3人の高校生が対面に着席。初めに、面接官が「順番に自己紹介をして下さい。」と指示し、上から目線で観察しながら、自己紹介を聞き始めた。3番目の私は、その丁寧な自己紹介を見聞きし感心しつつ、目の鋭い上司のいる会社で、働きたくないと思った。
無表情で自己紹介をし、趣味の「新舞踊」の流派は何かと聞かれたが、思い出せなかった。「忘れました。」と応えた。たぶん、不合格と思い、それがいいと気分よく帰宅し、母にその事を伝えた。母は、隣の市への通勤も心配らしく、ホッとしたようだ。
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2016年04月18日
第96回 昭和38年6月 子ども運動会
高校3年の梅雨の前、教会の日曜学校で、子ども運動会が開かれ、高校生会も参加する。準備体操の後、紅白に分かれて、かけっこ・借り物競争・障害物競走・スタンツゲームなどがあり、私達高校生も道具の出し入れの係を引き受ける。
中でも一番盛り上がったのはスタンツゲームで、私は好きだった。その頃、キャンプ・親睦会・小運動会などのレクレーションの時、「スタンツゲーム」が流行っていた。寸劇・ゼスチャー・歌・踊り・演奏など、グループに分かれ決められたテーマにそって短い時間で相談準備し、発表するゲームだ。
その日のスタンツは、新聞紙・人形・風呂敷・ひもなどが用意してあり、仮装をするものだった。
高校生数人の私達赤グループは、背の高い男子をお母さんにして、赤ちゃんをおんぶしている仮装に決定。新聞紙に穴を開けたりちぎったりし風呂敷も使って衣装を作り、ひもを使い彼に着せた。次に、大急ぎで人形の赤ちゃんを背中におんぶさせて、やっと出来上がった姿を見ると、背中の人形の赤ちゃんがひっくり返っている。白組の仮想は、私達に似ているが丁寧に出来ていて、ちゃんと赤ちゃんをおんぶしている。
説明の時間もゲームのうちで、マイクに慣れている私が引き受けることになった。「ミナサーン。ワタシ、ネパールカラーキマシター。ワタシタチノクニデハー、コノヨウニーアカチャンヲーセオイマース。」「シログミーノー、アオジローイカオトーチガッテー、ケンコウテキナーアカーイホッペノーアカチャンヲーミテクダサーイ。」「コノオンブヲー、ニホンノーミナサンニーオススメシマース。」と、私は考えながらゆっくり話す。
赤組の出来上がった姿を見た時、ネパールの赤ちゃんが背負子におんぶされている姿が目に浮かび、そっくりだった。急だったので、文章を考えながら、ゆっくりしか喋れなかった。終るやいなや拍手喝采で、赤組が勝ち、グループのみんなは大喜びで飛び上がる。
その後も、準備や片づけを楽しくスムースにやってのけ、無事小運動会は終る。
私は、愉快で激しすぎない運動やゲームが好きなことを再自覚した。
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