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2014年01月20日

第12回  昭和28年暮 おばあちゃんの思い出

第12回  昭和28年暮 おばあちゃんの思い出
2年生の年末におばあちゃんが亡くなりました。
おばあちゃんのことを思い出します。
5才の春、百日咳の病気が治ったある日の朝、「お弁当を作ってちょうだい。」と、私はおばあちゃんに頼みました。
その頃、母は病気が完全に治っていないので、午前中はまだ起きていません。
それまでのおばあちゃんの弁当は、ご飯にかつおぶしを振り掛けたものに、決まっていました。
その日、田舎のおじいさんが持って来た卵で、炒り卵を作りご飯にのせたお弁当を作ってくれました。
嬉しくて弁当を父に見せてから、隣のみこちゃんと、れんげ畑に行きました。
みこちゃんの家のれんげ畑のまわりには、黄色い菜の花畑や若草色の麦畑が広がっています。
れんげ畑のあぜ道に座って、れんげの頭飾りや首飾りや腕輪を作りました。
れんげのにおいをかいだり味見をすると、甘酸っぱい味です。
そうしているとお腹がすいたので、お弁当。
青空の下で、薄桃色のれんげ畑の中の、黄色い卵のお弁当がとってもきれいで、食べるのがもったいない気がしました。
おばあちゃんの一回きりの美しいお弁当が、今でも目に浮かびます。
5才の冬、おじいちゃんが亡くなり、おばあちゃんは段々元気がなくなりました。
1年生の頃、おばあちゃんの用意する食事はお魚と味噌汁と漬物でした。
その頃から、母が少しずつ元気になりました。
2年生の春から、母がすべての食事の用意をするようになり、おいしくて栄養が摂れるよう考えています。
母は結婚前に神戸の洋裁学校に行き、寮の当番の時、料理を覚えたそうです。
ラムネの製造場の裏の小さな畑で、枝豆やかぼちゃや玉ねぎなどの野菜作りを始めました。
「おばあちゃんの作る食事では、栄養が足らないから、気を付けなくちゃ。」と言って、おばあちゃんにも、いろいろ食べさせようとしました。
しかし、おばあちゃんはあまり食べません。
ずっと以前から、我家のラジオから聞こえるのは、戦争の後の行方不明者や引揚者の、尋ね人の放送が多かったのです。
隣のいとこの家は「笛吹童子」や「紅孔雀」など、歌やお話が流れてくる楽しいラジオがあって、羨ましく思っていました。
しかしそれは、ラジオの違いでなく、父が歌のない番組を選んでいたのです。
実は、父の次兄が死んだのは音楽を熱心にしたせいと、おばあちゃんは思っていて、音楽を聴くと気分が悪くなるからです。
父の次兄は音楽が好きで、九州の音楽学校に行っている時、病死したのでした。
だから、父は好きな歌やお話のある面白いラジオ番組を聴くために、毎晩友達の家に出かけて留守だったのです。
そのかわりと思うのですが、父は仕事が早く終わった時、ヘンデルとグレーテルや灰かむり姫などの童話を、私達子どもに読んでくれました。
2年生の12月、おばあちゃんは寝込んでしまい、お粥も食べなくなりました。
父が東京の姉の秀子おばさんに、「ハハキトク、シキュウカエレ」と、電報を打ちました。
おばさんの家には電話がないので、電報局に電話をかけて、電報を家に届けてもらうのです。
次の日の午後、「切戸川に海の潮がどこまで来ているか、見ておいで。」と、父が言いました。
川に行ってみると、海の水が少し来ているけど、満潮ではありません。
帰って父に伝えると、「引き潮の時は危ないけど、姉さんが着くまでに、おばあちゃんは、息を引き取ることはないじゃろう。」と父。
日が暮れて、おばさんがあわててやって来て、おばあちゃんの枕もとに座ると、おばあちゃんは静かに息を引き取りました。
ちょうどその時、引き潮だったのです。
その頃、父の兄家族は県庁のある市に引っ越しました。
おばあちゃんと、隣の家族に会えなくなり、私は淋しくなりました。



Posted by トンコおばあちゃん at 19:45│Comments(0)
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